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1994 第一章
3月。まだ空気は少し寒く、天気も薄暗かった気もするが、1年間にも及ぶ受験戦争(現役時代を加えると2年間)がようやく終結し、晴れて4年間の学生生活の延命に成功した僕は伸ばせるだけ羽根を伸ばしていた。おそらくそれまでも、そしてそれからも、あそこまで安心感に浸りきった時間はなかった気がする。僕は大好きだった映画鑑賞を再開し、果たして生きていくのに役に立つのかどうかも分からないような純文学を気まぐれに読んだり、一度として完結させたことのない創作小説を呑気に書いたりしていた。そのとき観た映画で記憶に残っているのはアラン・ドロンとチャールズ・ブロンソンが共演した『さらば友よ』だ。おそらくレンタルしたのではなく、当時たまたまテレビ放送していたのだと思うが、その古くて雰囲気のある映画を訳も分からず観るという心の余裕が何とも嬉しくて、受験勉強中には絶対に味わえなかったその優雅な状況を堪能していた。
社会のどこにも所属していないという状況がいかに人の精神を疲弊させるか、僕は浪人生活の一年間で思い知っていた。受験勉強中とはいえ、自宅でたった一人で過ごす一年というものは苦しみでしかなく、その間は劣等感で人に会うことすらできなかった。「学生」というものは社会で生きる上での一つの免罪符であり、「学校」とは残酷な社会の嵐の中で身を寄せることのできる大樹なのである。僕は大学という名の未知の大樹にようやく寄りかかることができるようになり、入学前にも関わらず、その安全圏をさっそく享受していたのだった。
父は出稼ぎで家には居らず、兄も姉もとうの昔に大阪で働いていて、世間知らずの次男である僕の進学準備は母が一人でやらなければならなかった。その地方の私立大は隣県を一つ跨いだ遠くにあり、我々家族の誰一人としてその県のことを知らなかった。前の記事で書いたが、僕は大学受験のほとんどを大阪と京都で受けており、その私立大の試験会場も大阪の会場を利用したので、自分がこれから四年間もの長い時間を過ごすことになる学校がどのような場所なのか実際に下見をしていなかった。ただ大学パンフレットに掲載されていたキャンパスの雰囲気だけを知っていただけだった。パンフレットには世間の誰もが大学に対してイメージしているような広くきれいなキャンパスが写っていて、学生たちも明るく爽やかだった。当時の僕は大学というものは皆似たようなもので、難易度の違いは有れど、どの学校も同じ水準の学舎が用意されているものだと考えていた。その浅慮を後に後悔することになる。
まずは下宿探しである。おそらく大学からの知らせで下宿探しの期間が設けられていたのだと思うが、三月のある日、母と僕は隣町の駅から特急ディーゼル列車に乗って4時間近くかけて近県のとある街へと向かった。特急列車は高校時代から乗り慣れていたが、いつも目的地は大阪だった。それが今度は見ず知らずの県の聞いたこともない駅に途中下車することになり、何故か大阪へ向かう旅よりもずっと時間が長く感じられた。
天気は悪く雨だった。駅からしばらく歩いてたどり着いた大学の門を抜けて、学舎を眺めて僕は思った、「小さい」と。大学パンフレットに掲載されていたような雰囲気はどこにもなかった。風格のまるでない古い建物が建ち並び、大学というよりも古びた病院のような雰囲気があった。僕は愕然とし、蹴ってしまった京都の大学の立派なレンガ造りの学舎を思い出して後悔した。そして進学というものは何よりもまず、四年間もの長い時間を過ごす学舎がどんな場所なのか下調べしておかなければならないのだということを思い知った。オープンキャンパスに参加するのはとても大切なのである。当時オープンキャンパスなどというものがあったのかどうかは知らない、たぶんなかったと思うのだが、それでも自分で事前に調べておくべきことなのである。
入学前からガックリと肩を落としながら、誰かに案内されて母と僕はキャンパスの隅にある建物に入っていった。そこは学生食堂の二階にある生協近くの小ホール入り口だったが、そのときは何処に案内されたのかもまるで分からなかった。もう記憶が定かではなく、時間軸の前後もあやふやなのだが、大学に雇われた不動産屋の若い男がそこにいたのだと思う。僕は大学生の独り暮らしというものがどういうものかをよく理解しておらず、ドラマなどで観るようなフローリング床のきれいなワンルームマンションを希望していた。母は文句を言ったが当時の僕はひどく我が儘で頑として譲らなかった。「それなら良い物件がありますよ」と、上客を捕まえた不動産屋の男は僕たち親子を車に乗せて電車で一駅の隣町まで連れていった。その道は真っ直ぐ線路に沿って走っており、かつては線路だった場所を道路にしたものだと男が説明した。そして自分が大学のOBだということも。
その隣町は古くからある観光地だった。町の名前は聞いたことがあるが何のために存在するのか全く分からないその町の駅の近くに、わりと大きなマンションが建設中だった。雨の中、僕たちはまだ一部鉄筋が剥き出しのマンション内を案内され、エレベーターで五階へと登った。都合の良さそうな端の部屋は既に埋まっており、エレベーター近くは音がうるさいと説明を受けて、端から二番目の部屋に決めた。部屋の中は僕が期待した通りのフローリングの床で、壁は真っ白、バス・トイレ・洗面所は一体型、狭い玄関脇にキッチンがある、絵に描いたようなワンルームマンションだった。我々第二次ベビーブーム世代(のちの就職氷河期世代)が大学へと押し寄せてくる、その需要を見込んでそのマンションは建設されたようで、住民のほとんどは大学生だった。
それから大学へと逆戻りし、契約などをしたのだと思うが記憶にない。先ほどの受付の場所にはおそらく学生アルバイトらしき女性がいて、教材や運動着などを購入し、いろんな手続きを済ませた。入学だけでも非常に費用がかかり、母は頭を抱えていただろうが僕はそんな苦労はつゆ知らず、どちらかというと上機嫌だったと思う。そして我々親子はまた特急列車に乗り、長い時間をかけて郷里に戻っていったのだった。
下宿が決まり、次は引っ越しの準備である。マンションは建設中だったが四月までには当然完成するわけで、入学式までには入居しなければならない。僕は母と共に家電量販店に行き、冷蔵庫とトースター、掃除機、そしてシンプルな学習机を買った。当時販売されていたSANYOのIt's というシリーズで、おそらく新生活応援フェアのようなものをまとめて買ったのだと思う(進学はずいぶんと金がかかる…)地元で買えば輸送に手間がかかるわけだが、どういう手順だったのかはもう記憶にない。
町の漁港の傍に眼鏡・時計・宝飾品の販売店があった。当時は大型量販店のようなものは存在せず、眼鏡等を買うときは個人店舗などを利用し、今の感覚で言えば高額な代金を支払うのが当たり前の時代だった。母は僕をその店に連れていき、腕時計を選ばせた。暗い間接照明が照らされた陳列棚にはさまざまな腕時計が並び、店主に勧められてパンフレットなども眺めた。高価な品も置いていたが、予算は一万円程度だったと思う。僕は黒いベルトの細身の腕時計を一本選んだ。だが購入して外に出て見てみるとそれは黒ではなく深緑のベルトだった。店内の黄色い間接照明で色がよく分からなかったのだ。そして後で分かったのだがその腕時計は女物だった。シチズンのライトハウスというブランドで、当時の僕は腕時計には男物、女物の違いがあるのを知らなかった。それから二年間ほどの間、その腕時計を身に付けて生活することになった。このプレゼントは、僕が大学での授業や試験で時間が分かるようにという母の計らいだったのだと思われる。
引っ越しのため再度その町へ訪れたとき、マンションはすでに完成していて、雨の日に見たあの建設中の陰鬱な光景とはうって変わってペンキ塗り立ての明るい姿で出迎えてくれた。各階のドアはカラフルに色分けされており、五階のドアは黄色だった。母と二人で部屋へ荷物を搬入し、町へ買い出しに出かけた。まずは腹ごしらえをしようと思い、昔ながらの観光地らしい古びた町並みを彷徨ったが土地勘が無くて見つからず、結局駅から少し行ったところにある、いかにも観光客向けの食事処へ入って妙に高いうどんを食べた。近くには古いアーケード街があり、どこか陰鬱な空気がしていて、これから新しい生活を始めようと思う若者にとっては少し嫌な気分にさせられたが、たまたま同じ名字の自転車屋があり、そこで銀色をした自転車を購入した。これがこの町での僕の足となった。町の反対側には少し大きな地元スーパーがあり、その二階の衣料品売り場でカーテンなどを物色した。夕食は母が部屋の新品の台所を使って簡単な調理をしてくれた。ガスで熱せられた新品の調理器具は少し嫌な臭いがした。
母が一人で郷里へ帰るために二人で駅へと向かった。その日すでに桜は満開で、鄙びた駅を電車が通過するたびに線路脇の桜並木は花びらが舞っていた。母が「きれいだねえ」と言った。若い僕は桜に対して何の感慨も持たず、冷めた返事をした気がする。今思い返すとそれはとても美しい光景だった気がする。19歳の春を象徴するかのような、眩しいぐらいの光景。
やがて到着したディーゼル特急列車に母は乗車し、遠い郷里へと帰っていった。こうして僕の大学生活が始まったのである。(次章へ続く)