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1994 第二章

四月。それはありふれた入学式だった。季節が一回りするたびに至るところで行われている儀式。しかしながら僕にとっては一年の空白期間ののちの新たなステップであり、社会のレールへとようやく戻ってきた真新しい入学式だった。19歳になるまで僕は地の果てのような地元から一歩も出たことがなく、中学、高校と進学しても同級生の面子はほとんど変わらず、町の外れから通学する新たな顔ぶれが少数だけ合流するという代わり映えのない学生生活を送ってきた。それがこの他県の私立大では顔見知りは一人としておらず(のちに二人発見するのだが)全てがまっさらな人間関係がスタートしたのである。ただでさえコミュニケーション不全だった僕が酷く孤立していったのは説明するまでもないだろうが、それはまたのちに書くとして、そんな感じで学生生活は全く未知の状態で始まったのである。

入学式でさっそく僕はミスをしていた。周りに一人として大学生がいない環境で育った僕は、大学の入学式ではスーツを着用するものだという一般常識を知らなかった。スーツ姿の新入生たちの群れの中、僕は黒のハイネックセーターにジーンズという未だに浪人生気分が抜けないような服装で参加してしまったのである。しかしながら羞恥心というものは無かった気がする。というのも、あまりにも知らない人ばかりで都会の雑踏の中にいるかのような部外者気分だったからだ。その「輪の外」にいるような感覚はその後の学生生活でも続くこととなる。

入学式は体育館で行われていた。記憶の中では何故か会場は暗く、ずらりと並んだパイプ椅子の前列の方に僕は座っていた。会場をうろうろしていたカメラマンがジーンズ姿の僕に目をつけたのか近づいてきてカメラを向けているのに気がついた。僕は大学のパンフレットを思い出し、ああいった冊子に自分の姿が載るのは絶対に避けたいと思い、カメラマンが離れるまでずっと俯いていた。僕の拒否反応に気づいたのか、カメラマンは諦めて移動していった。入学式で覚えているのはその出来事だけだ。その後、英文科の新入生たちだけで何処かの部屋に集まり、並んで記念写真を撮影した。僕は最前列に座り、そのジーンズ姿は想い出の写真の中に永遠に残ることになった。

母は入学式に参列する気だったようだが、当時の僕は何故か頑なに拒否したらしい。今思えば親に参列してもらうのが当然だと思うのだが、思春期を拗らせたまま19歳になった青年の奇妙なこだわりがあったようだ。──以上が今思い出せる入学式の全てである。


大学側は新入生たちの交流を深め、大学生活に慣れさせるためにオリエンテーションを準備していた。それはなかなか贅沢な企画で一泊二日のフェリーの旅だった。費用は確か3万円ほどかかり参加は自由だったのだが、その企画を聞いた母親が迷うことなく費用を用意してくれた。何故かというと、貧しく教育水準の極めて低い田舎の家庭から大学へ行った息子が恥をかかないようにという見栄があったのである。余所の家庭に負けてなるものかという意地なのだろう。本当に任意参加で行く必要は無かったのだが…。

どこの港でどんなフェリーに乗ったのか、もはや何も覚えていないのだが、一室四名の二段ベッドに詰め込まれ、それも何故か学科は無関係で生徒をランダムに選んだらしく、全く面識のない生徒たちと一晩を共にすることになり、僕がコミュニケーション障害を激しく発症させたことは言うまでもない。部屋にいる間、僕はカーテンを締め切ってベッドに閉じ籠っていた。何のための交流なのか…。その時点で既に参加したことを後悔していた。
生徒たちの交流を促すために様々な企画が用意されていたと思うのだが、あまり覚えていない。数人でグループを作り(この時点で苦痛だった…)紙に理想の家のようなものを描いたような気がする。何かのゲームだったのだろう。夜には小さなステージで沖縄系バンドのライブがあった。僕はバンドにはかなり興味があったので観に行ったのだがあまり内容は良いものではなく、照明が暗くて譜面が見えないとボーカルが怒っていて興ざめしてしまった。

夕食はビュッフェ式で丸いテーブルに数人が座り、会話も無くぼそぼそと食べていた。僕の隣に座っていたのが体の大きな白人男性で、彼が「オリエンテーションは楽しいですか」とたどたどしい日本語で聞いてきたので「楽しくないです」と正直に答えると「僕もです」と返事が返ってきた。その白人はハワイ出身の英語講師で、その後一年間英会話のお世話になるのだが、その時はまだそれを知らない。

廊下を歩いていると上の学年のどこかガラの悪い生徒たちが「今年の新入生はノリ悪いな」と悪口を言っているのが聞こえてきた。その後分かったのだが彼らは毎年オリエンテーションを企画している学生たちで「オリター」と呼ばれていた。どちらかというと学生の中でも軽薄な部類で、まだ世の中を知らない無防備な新入生の女子を狙う輩がかなり含まれていたのだが、新入生たちがそんなことを知っているはずもなかった。オリターという言葉は蔑称として使われることが多いということは後で知った。廊下で新入生の悪口を言っていた男たちの一人に、一年後僕は胸ぐらを掴まれることになる。

そんな感じで面白くもないオリエンテーションの船旅は終わり、翌朝ベッドから起きてカーテンを開けると「おはよう」と同室の名前も知らない学生が笑顔で言ってきたので小さな声で挨拶を返した。彼はどちらかというと朴訥で温厚そうな人物だったのだが、大学三年の頃にキャンパスで見かけた彼は何だか人相が悪くなっていた。学生生活があまり良い影響を与えなかったのかもしれない。卒業する最後まで名前は知らないままだったが、その出来事が妙に印象に残っている。

やがて船は港に着き、おそらく送迎バスで生徒たちは大学へ戻ったのだろう、もう記憶のどこにも残っていない。親しい友人はもちろんできず、何かに馴染むこともなく、オリエンテーションに参加する必要は全く無かったなと僕は後悔していた。3万円、もったいないことをした。


その他、入学時で覚えていることといえば新入生の健康診断だ。僕は粗い白のニットを着て学校内の順路を巡っていた。いつものことなのだが僕の血管は見えにくくて採血するのに看護師がとても苦労していた。血液の出も悪く、どこか体調に問題があるのではないかと不安になった。看護師たちが世間話をしていた。それは悪口で学生たちに対するものだった。少なくとも僕はそう感じた。僕は何故か見た目の悪さのことを言っているのかと思っていたのだが、学生の水準のことを言っていたのだろう、今ではそう思える。順路を辿って記憶は暗い体育館の中に入って行き、そのまま暗闇に包まれる。もはや何も覚えていない。

──以上、入学時の出来事で記憶しているのはこれが全てである。(次章へ続く)


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