私のエデン(第3話)

「ねぇ、お願いっ!ちょこっとでいいからエデンに行かせて!」
「ダメだ!この前行ったばかりじゃないか。脳に負担がかかるからと何度も言っているだろ」
「でもでも、明後日からまた学校始まるし。忙しくなるし。だからせめて少しだけでも…」
「何を言われても許可できない」
夏休み最後の思い出を作りたくて必死に食い下がる。だが、佐野は頑として首を縦に振らない。
「脳なら大丈夫だって!記憶力も変わらないし」
「…脳はまだ未知の多い分野だ。ある日突然壊れてしまうこともある。だから最低1ヶ月のインターバルが必要なんだ。経過観察期間としてな」
目に力を込め低い声で諭されれば、言葉に詰まった。
(なんだかんだ言って、心配してくれているのが分かっちゃうから…)
「じ、じゃあ、しばらく来ないから!そう、受験終わるまで!」
「ほう?志望大学が決まったのか?」
「そ、それは…まだだけど」
「…エデンに行くより、自分の将来をきちんと決める方を大事にするんだ。エデンは、死にゆく人のための最期の希望。未来ある若者のものじゃない」
「……」
確かに、佐野の研究は人を幸せにするためのものだ。私のような依存性になりかけの人間を量産するためのものではない。
「…分かった。じゃあ、ちゃんと1ヶ月以上空けてからまた来るよ」
「分かればいい」
無意識に肩に入れていた力を緩めれば、佐野もまた安心したようにゆっくりと呼吸をした。
「じゃあ、また──」

クラリ

急に視界が歪み、まっすぐ立てず膝から崩れ落ちた。
「…おい、さ…ま?…ま!?」
佐野の声がうまく聞こえない。
全ての音が、景色が、思考が遠ざかっていく。
「狭山っ!!」
薄れる意識の中、最後に見たのは佐野の泣きそうな顔だった。

目を開けると、白い天井がと見えた。いつもベッドから見る景色はこんなだったかと、まだ回らない頭で考える。
何気なく右に目を向けると、ズキンと頭が痛んだ。寝ている間にどこかでぶつけたのだろうか。疑問を抱いていると、知らない扉が視界に入った。
そこで思い出した。私は、研究所で倒れたのだ。
とりあえず自分の状態を確かめようと、そろりと痛んだ頭部に触れてみる。柔らかな布の感触。多分包帯だろう。腕には点滴の針が刺さっている。左を見れば、横に点滴がぶら下げられていた。パタ、パタと雫が等間隔で落ちていく。
どうやら、研究所から病院へ運ばれたらしい。研究所にはあの人しかいない。手当は出来ても、それ以上のことは無理だろう。
ナースコールを押して自分が起きたことを伝えた方が良いか悩んでいると、

コンコン

ちょうど扉をノックする音がした。こちらの返事を待たずに扉が開く。現れたのは、白衣を着た男性だった。
「おや、目が覚めていましたか」
軽く目を見開いたあと、柔和な表情になる。微笑むと目尻にシワがより、それがまた男性の空気を柔らかくする。
「はい、つい先ほど…」
「そうだったのかい。じゃあ、起きたばかりで申し訳ないんだけど、いくつか問診をさせてもらうよ。倒れた時に頭を打ったからね」
そうして何度か質問を重ね、脳に以上はなさそうだとの答えをもらえた。ふぅ、と安心したのもつかの間、
「君に付き添って一緒に病院に来た方から、少しお話しを聞かせてもらいました」

***

「どう…いう、こと?」
佐野の放った言葉の意味が分からず、私は戸惑った。
いや、正確に言えば受け入れたくないといった気持ちの方が遥かに大きい。
そのくらい、私にとっては聞きたくない内容だった。
「今言った通りだ。エデンに行けるのは、あと1回。それ以上はダメだ」
「何で!?検査結果は異常なかったのに…」
頭が真っ白になり、うまく言葉が続けられない。何で、どうしてと佐野に取りすがったが、彼の答えは冷たいものだった。
「エデンと現実の往復があまりに頻繁だったこと。加えて、脳への負担が大きかったことが主な原因だ。このところ、エデンから戻る度に頭痛が起きていたんだろう?」
佐野に問われ、ギクリと身を固くした。彼には内緒にしていたはずだ。
「そんなものはお前の表情で一目瞭然だ。帰る時、最近眉間に皺を寄せて不機嫌そうな面をしていたからな」
隠せていたと思っていたが、どうやらバレバレだったらしい。ハァとため息をついたあと、観念して私は全てを話した。
「佐野の言う通り。1ヶ月くらい前から、頭痛がするようになったの。最初は大したことなかったんだけど、エデンから戻る度に段々と酷くなっていったわ。で、ものすごい痛みがして耐えきれなくなって気絶した…ってわけ」
「やはりな。…いいか、あと1回。それも15分以内だ。それ以上は脳が壊れる。もう二度と帰ってこられなくなる。…よくよく考えるんだな」
言いたいことだけ言うと、佐野は白衣の裾を翻し病室から出ていった。一人取り残された私は、ベッドに仰向けに倒れ込む。話が急すぎて頭が追いつかない。というか、現実味がない。あと1回、それも15分。今まで私を支えてくれたエデンとは、それでサヨナラになる。
「どうしたらいいんだろ…」
白い天井をぼんやりと見ながら、私は思考することを放棄した。

即日退院し、タクシーで家へ帰る。
すると、玄関の鍵が開いていた。
鍵をかけて出たはずなのに。
おかしいと思い入るのをためらっていると、物凄い勢いで中から扉が開けられた。
内側から伸びてきた手に腕を捕まれ、玄関に投げ出される。
背後でバタンと扉の閉まる音。次いで聞こえたガチャンという鍵のかかった音。
バッと振り返ると、そこに立っていたのは母だった。
「…聞いたわよ、リカ。あなた、救急搬送されたんですってね」
「ど…して、それを…」
「どうしてって、私はあなたの親なのだから、当然でしょ?ちゃんと病室にまで行ったのよ。でもね」
ふいに言葉が途切れる。次の瞬間、母は私の胸ぐらを掴んだ。
「がっ…!」
「あなたの病室の前にいた白衣の男性、あの方はあの病院の先生じゃないわよね? 気難しげな顔して…まるであなたのことをとても心配しているみたいだったわ」
「さ…佐野のこと…?」
呼吸が上手くできず苦しい。声を絞り出して答えると、何故か母はうっとりとした表情になった。
「そう、佐野さんっていうのね。とても素敵な方だったわ。それに、あなたが倒れた時に一緒にいたのもあの方なのよね?」
「そ、そう…ぐっ!」
掴まれた服により一層力がこもった。服が首に食い込む。母は私に顔を近づけた。先程までとは別人のような、憎しみのこもった目をしている。
「羨ましいわ…あんな素敵な恋人がいて。私はアンタのせいで夫に捨てられたっていうのに…アンタなんか、アンタなんかっ!」

ガッ!!

握られた拳が思い切り頬を打つ。胸ぐらを掴まれているせいで避けることすら叶わない。女性の細腕から繰り出されたとは思えないくらい強い衝撃に、私の視界は刹那白くなり星が飛んだ。

ふと目を開けると、カーテンの向こう側が明るい。
遅刻だ!と思い飛び起きようとするが、全身に痛みが走り再び床の上でうずくまってしまった。
その痛みで、昨夜の出来事や、今日が土曜日なのを思い出した。つまり、学校は休みだから遅刻を心配する必要もないということだ。
いつの間に気を失っていたのだろう。床の上で一夜を過ごしたらしい。母はまだいるのだろうか。床を這ってゆっくり玄関に向かうと、靴は見当たらなかった。
向こうはオトコのいる家にでも帰ったのだろう。
分かった瞬間、どっと疲労が押し寄せてきた。
とりあえずシャワーでも浴びようと思い服を脱ぐと、鏡に映った自分の身体が視界に入った。
腹、腰、目の横などが青くなっている。酷いのは太ももと腕で、すでに赤紫色になっていた。口の端も少しだけ切れており、乾いた血がこびりついついた。
言葉の暴力は今までにもあったが、肉体的なのは初めてだった。とはいえ、今まで無かったのが奇跡に思えるくらいだ。母は、激情型なので、一度起こり始めると手がつけられなくなる。本人の気が済むまでやり過ごす以外、方法はないのだ。
ぬるめのシャワーを全身に浴びながら、昨夜の出来事を思い出す。

「私、何のために存在しているんだろ…」
父にも母にも必要とされていない。私の居場所と言えるような場所は現実にはない。学校のクラスメイトだって、私が長期間休んでも心配しないだろう。
自分が、何のために生きているのか、答えを見いだせずにいた。

世の中夏休みが終わり、今日から登校する学校がほとんどだ。
しかし、私は家に引きこもり、未だにパジャマ姿でいる。
倒れて病院に運ばれたこと、佐野から告げられた言葉。そして──母に叩かれたこと。
色んなことが一度に起きすぎて、どうしたらいいか分からなくなってしまった。
(…分かってる。自業自得だって。佐野はあんなに止めてくれていたのに、大丈夫だってわがままばっかり言って…。それから、母とのこと。あの人は、自分以外の人間が前に立つのを嫌う。佐野はなかなかイケメンだから、逆鱗に触れてしまったんだ)
前に一度、学校の先生と校門のところで話しているところを母が通りがかった。その時は何も言わなかったが、私と2人になった途端、母はこう言ったのだ。

「アンタみたいな人を好きになる変わったオジサンがいるのね~。ハゲてるし、ちょっと太ってるし、私は嫌だけど、アンタならいいんじゃない?」

教師だと訂正しようと思ったが、思い込みの激しい母を相手にする気はなく、あいまいに笑ってその場は誤魔化したのだ。
(ホント、自分のことしか頭にないんだから)
いつしかそんな母に嫌気が差し、自分から関わることもなくなっていった。病院に来たのだって世間体のためだと分かっている。
(…分かって、いるけれど)
どうしようもない悲しみが心に広がっていく。止める術を持たないそれは、いつしか私の思考さえも埋めつくしていった。

生きているのか、死んでいるのか分からないような日々を繰り返しているうちに、何もかもがどうでもよくなってきた。
(私は何をためらっているんだろう…。もうエデンで一生を終えちゃえばいいじゃない。現実に、生きる意味が見つからないんだから)
なぜこんなにも悩んでいるのかが分からない。
現実では誰にも必要とされていないのに、一体何が私をここに留めようとするのか。
(…佐野に、会いに行ってみようかな)
学校をサボり続けている中で外出するのは気が引けたが、今日は日曜日だと自分に言い聞かせ、何日か振りに外出用の服に袖を通した。

「…来たか」
開口一番、佐野は私にそう言った。
「…久しぶり」
病院以来、佐野とは会っていない。
「とりあえず座れ」
空いている椅子を示し座るよう促すされた私は、ノロノロと言われた通りにする。何から話そうか、とぼんやりしていると、目の前にコーヒーの入ったマグカップが差し出された。
そのカップを見た瞬間、私の中の何かが弾けた。
「……っ」
涙が溢れて止まらない。突然のことに佐野も困った顔をしている。その顔が面白くて笑いたいのに、口が歪んだだけだ。
佐野は手に持っていたカップを机に置くと、私の頭をぎこちなく撫でた。
「追い詰めたのは私だ。…すまない」
「ち、違うの…っ」
私は泣きながら佐野に母とのことを話した。
佐野は最初だけ驚いたように眉を釣り上げたが、一言も言葉を挟まず聞き続けてくれた。
一通り話し終わり、地下の部屋に私の鼻をすする音だけが響くようになった頃、佐野はゆっくりと口を開いた。
「辛かったな」
「う、うん。…でも、逆にスッキリした気持ちもあるんだ」
「どういう意味だ」
「私は、やっぱり母にとってそういう存在なんだなって」
母の中で私は、ある意味最も近いライバルのような位置づけなのだろう。だから、私が母より何か一つでも優れた行いをするのが気に食わない。徹底的に私の自尊心を折りにかかる。
そのくせ、私のことを自分のポイント稼ぎに使っているのだ。
つまりあの人の中で、私はただの添え物なのだ。
「でも、だからこそ分からなくなったこともあるの」
「何だ?」
「どうして私は、現実を捨てられないんだろうって」
「……」
暫しの沈黙の後、佐野はこう言った。
「それは、お前が現実を生きたいと願っているからだ」
「…え?」
「やりたいことは見つからないかもしれない。周りの環境は良くないかもしれない。それでも、狭山。お前はここで生きたいと願っている。それはいつかやりたいことを見つけるためかもしれないし、親を見返すためかもしれない。だが、どんな理由であれエデンを選びきれないのは、あの世界の脆弱性を心のどこかで理解しているからだ」
そう言われてハッとした。エデンは私の望むものを何でも与えてくれる世界。
だけどそこは、何もない空虚な世界なのだ。
「エデンは最期に訪れる者にとっては、まさに理想郷だ。だが、お前はこれから何でもできる。何にでもなれる。自分の頭が創り出した世界ではなく、思うようにいかないこの現実でも、な」
現実を捨てきれない理由。
それは、私に未来が残されているからだった。

佐野と話した翌日、勇気を振り絞って学校に行ってみた。
「お、おはよ…」
「…おはよー」
上擦った声であいさつすれば、クラスメイトもまた遠慮がちに返してくれた。
だが、それだけだ。
クラスの皆がどんな顔をしているのか見るのが怖くて、私は俯き加減で席へと一直線に歩いていく。終業式の日のままの机が、ポツンと取り残されたように何も無い状態で置かれていた。
教室内は一瞬ザワついたものの、何事もなかったかのように再び賑やかになった。私は読みかけの本を取り出し、内容がさっぱり入らないままページを手繰った。

キーン、コーン、カーン、コーン

予鈴が鳴り、それぞれ席に戻る。
私も授業の準備をし始めたとき、机からころりと消しゴムが落ちた。それは、隣の椅子の脚に当たって止まった。
(あっ…)
何をやっているんだ、と自分を諌めつつ消しゴムに手を伸ばすと、私が掴むより先に隣の女の子が拾ってくれた。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとう」
緊張しながらも受け取る。が、その子はまだ私の方をじいっと見ていた。
「ねぇ」
「…何?」
「休んでいた間のノート、私ので良かったら貸すよ」
「えっ…いいの?」
「もちろん!困った時はお互い様だよ」
ニコニコと笑う優しい笑顔に、思わず胸がギュッと苦しくなる。ズル休みなのは知っているはずだ。にも関わらず、こんなふうに声をかけてくれた。
「…ありがとう。後で写させて欲しいな」
「ん、分かった!…あー、良かった」
隣の子は安心したように息を吐いた。
「…今まで、あんまり話したことなかったじゃん?だから、声かけようか悩んだんだ。でも、言えて良かった!」
弾けるような眩しい笑顔に目が眩む。

(私も、私から声をかけていたら、今頃何か変わっていたのかな…)

帰り道。すっかり秋が深まってきたせいか、吹く風は突き刺すように冷たい。だが、雲の切れ間から差す太陽の光が、じんわりと心を温めてくれた。

カナタに会いたい。
私はそれだけを望み、最後になるかもしれない世界へと向かった。

チリンチリン

いつもの鈴の音が鳴り、目を開く。
そこは学校でも、通学路でも、家の中でもなかった。
一面に広がる草原。その真ん中に、カナタは一人制服姿で立っていた。
「...カナタ」
話したいことや相談したいことはいっぱいあったはずなのに、彼の顔を見たら何も言えなくなってしまった。
分かってしまったのだ。
ここは私の望んだ世界。カナタもまた私の望んだ人物。
今いる草原は、ただ平和で穏やかな世界を祈った私の気持ちが作り出したもの。
そしてカナタの目は、もう気持ちの定まっている目。
私だけが、分からないフリをして決断することから逃げていたのだ。
「リカ。その様子だと、何も言わなくても大丈夫そうだね」
いつもと変わらない笑顔を向けてくれる。カナタもまた理解している。今日という日で、全てが変わるということを。今日という日が、私自身が本当の意味で「生きる」選択をする日になったということを。
「うん。ずっと迷っていたんだ。現実か、エデンか。でも、カナタの顔を見たら、私はちゃんと決められていたんだって分かった」
「俺はリカの望んだ姿で現れるからな」
屈託のない笑顔。いつも助けられていたこの笑顔。失いたくない大切な人の笑顔。
「うん。...カナタ、ありがとう」
「ああ。俺も、ありがとう」

リーン、リーン、リーン、

帰りの鈴の音が聞こえる。この音を聞くのも今日で最後になる。
「じゃあね!」
笑顔で手を振れば、カナタもまた大きく振り返してくれた。

「決まったようだな」
エデンから帰った私の顔を見るなり佐野が口を開いた。
「そんなに分かりやすいかな?」
「ああ。迷子の子どもが途方に暮れていたが、交番で道を聞いたら案外近かったと気づいて元気に一人で帰ると決めた、といったくらいには」
「...それ、逆に分かりづらくない?」
「単純だと言いたいだけだ」
ブーブー文句を言っていると、佐野は私をじっと見つめてこう言った。
「本当に、それでいいんだな」
最後の確認。私が首を振れば、それがそのまま答えになる。
「うん。私の答えはね──...」

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