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柔ら工事軟派記 第59.99999 と1/2 「読解力という正義」

この雑記を読む稀有な読者は、いかにしてこれを読んでくれているのかわたしは皆目検討というものがつかないようにしている。

なぜならもし読者はわたしを見下しているとわたしが(被害)妄想をすればより一層攻撃的なあれそれを文に混ぜ込むだろうし、わたしに同意する読者ばかりだと(自信過剰に)考えればデレデレ甘えだすだろう。

せいぜいどっちつかず、というかほぼ読まれていないだろうからこんなに適当に書いているが、まさか読者がわたしが全裸で書いてるなどとは思うまい。
嘘だが。

そもそもわたしが本当に書いているかも読者の側からでは怪しい。書いている最中を見せてみないと本当は別の誰かがわたしの名義で載せてるだけなのかもしれない。シェイクスピアやトマス ・ピンチョン 、舞城王太郎、わたしが関心を持つ作家の何人かにも実は複数人の、つまり創作集団で一人の作家を名乗って作品を出していた(もしくは出している)という説があるが、ぶっちゃけ読者はどこまでそれに気付けるだろうか。(まあわたしはわたしだけなのだが、わたし以外はわたしじゃないように。ぬははははは)

さて読書にしてもネットの記事を読むにしても読む側、受け手はある程度の「読解力」などというものが求められる。これは義務教育から高等教育にかけてあれこれ詰め込まれた国語で培われる力であるらしいのだがテストの問題などの(もっともわたしが大学受験で感じたことであるが)四択で例えば主人公の内情を求めるというのがあるように、ある種の読みの正解が前提としてこの科目は成り立っている節がある。安部公房が昔のNHKの取材で言及もしていたが現代の国語教育の欠陥、主題というものに囚われている一つの筋としての読解は読みの幅を狭める。パースペクティブがないということはその文章を鵜呑みにしていくことになりもし仮に正反対の意を作者が隠しもっていても汲み取り損ねるということがあるというのである。

まあなんの話をしたいかっていえばミスリードということなんだけど、この一元化されていった国語教育における読解力ってのが独裁の猛威を奮ってミスリードというレッテル貼りをあちこちで起こしているということが極端な話、言えるというわけ。極端な話だからね。一元化されてる、絶対正義とされる、さもまかり通っているようになった一つの読みが他の読みが間違っていると断言できる絶対的根拠はなんなのか?

権威、たとえば政治的な側面、あるいは経済的合理性によって説得される筋というのがあって、それが一元化された読解という正義に締結されている。
作家の幾人かでこのような状況にあることへ批判的であるのは言うまでもないが、個々人の正義感の闘争が繰り広げられているのはTwitter界隈でおきる言論の体裁をしたような、disりあいである。

小森陽一先生編著の「『ポスト真実』の世界をどう生きるか」の第二章を少し昼間に読んだが、ここで触れられていたTwitterの様相と、このコロナ禍という今年上半期の様子を比較して見てみると、ここで語られているような分断の感覚、あるいは感情の優越といったものがより過激に表出しているように感じられる。これはきっと私の誤読にちがいないが、ブロック機能を駆使して同じ、もしくは似たような意見を共有できる人たちが集まったコミニュティに編集すればいいのにぶつかり合う人もいる。クソリプと呼ばれるいくつかだろうが本気で批判しにいく暇人が確かにいくつかは存在する。

あるいはくっきり勧善懲悪のような簡素な構造が滲み出ることが最近多いようにもみえる。検察庁法改正案が行政による国民主権の侵害だという「読み」が正義になった。方向づけられていく。わたしのツイッターランドの界隈でもあのハッシュタグは出回った。三権分立の構図が向きを違うということによってさらに批判は過激化し、本筋から逸れて三権分立に話題は流れ込んだが、結果的に黒川検事の賭け麻雀が浮上し、やや無様な有様で事が世論の批判通りに廃案へむかった。現にこの雑稿を適当に書いている今日この頃とうとう、公務員定年延長が廃案になったとニュースになっている。わたしが確か検察庁改正法案がもつれた途端に、公務員の定年と年金云々の件で新しく問題になることを示唆する意見を見かけた。およそあの反発の渦中では見かけなかったのは良くなかったが、さてはこの「読み」はどこかおかしな「誤読」を、あるいは誰かの権威にとって都合のいい流れを生むための、触媒ではないのかという畏怖が起きた。

なにもわたしは政治にあれこれとやかくいうことにどこか億劫じみたものを感じ、なおかつ芸能人のような発言力は皆無であるからどちらがいいのかと意見を安易に出るものではないが、大衆が右にならえ!と揃って駆け出したら、あれこれは何か妙だぞと警戒すべきだが、逆に言えば読解という事柄は、実際は科学的合理性のような「答え」はなく、事実をどこまでどのように受け入れるかによって、事実は個々人で解釈をするその数だけ違うものが浮き上がる。哲学の主観と客観問題にあったような、事実の合理性が果てしなく確固としたもの、つまり客観性とはなくなる。

そうなるとなにが正義なのだろうか?なにを求めその身を振りまわすか。フリフリ。

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