学費返還運動について考えたことの自己分析としての反省文

 お久しぶりです。皆様元気にお過ごしでしょうか。最近はコロナの影響により外出自粛、ほとんどの方が自宅での引きこもり生活を余儀なくされているのではないでしょうか。さて、そのコロナの影響もあり、大学での授業は延期、オンライン授業となり、大学への入構も禁止となった。図書館や学部棟なども使えなくなってしまった。そのような状況下で、インターネット上では学費返還運動なるものが起こりはじめている。これについて私は先日、その運動に対し部分的な共感はあるが、私の現在所属する大学のその運動には賛同しかねるという考えに至った。私は学費返還そのものには賛成である。しかし、当該運動には賛同できない。その考えについて数日間なんとも言えないモヤモヤがあったので、それを整理し言語化し自らの教訓として残しておこうと思い、本稿を作成している。前述にもあるようにこれはあくまで自らの考えに対する自己分析であって、当該署名運動に対する批判や、署名活動をしている方や賛同している方に対する誹謗中傷を目的としているわけでは決してない。ただ、私の中のこの運動に対する釈然としないものを書き連ね、それについて賛同している方やその他政治学を学ばれている方、様々な方のご意見を聞き考えたことを記述していく。今回見識を伺うにあたって、優しく回答してくださった皆様にはここで感謝の意を再び伝えたい。ありがとうございました。

 私のもやもやについて書きはじめていく。まず、その署名運動については読者の皆様にどれについて語っているかの特定は任せたい。前半の「必ず読んでいただきたいこと」の【状況】・【影響】については事実であるのでその通りだなという所感であった。【危惧】について少しのもやもやがあった。

 まず、「オンラインの授業の質については通常の授業と同等の質を担保できるとは到底思えない」という趣旨の記述があった。ここでいう「質」は定義が曖昧だし、仮に「質」の基準が明確に表されていても、実際の授業がその基準を満たすかは始まらなければわからない。授業における「質」の是非判断は現段階では難しそうである。なぜなら、このことについては「そうかもしれないが、そうじゃないかもしれない」という真偽のわからない言明であるからだ。例に挙げられているPPTを使うのであれば画面共有で光源ともなり、むしろ見やすくなるのではないか。そのため私としては、わざわざ「質」と銘打つくらいなら、授業面だけでなく、大学の「場」として価値についても言及して欲しかったと思うのである。大学では対面で様々な出会いがあり、授業などでの学びでは教員だけでなく授業時間外に学生同士が授業やその他の学問的な話題、時事的な話題について語りやすい「場」としての効果がオンラインよりも比較的簡単にできると私は考える。これが通信制との違いでもあるのではないだろうか。オンライン授業の質だけに目をむけてしまうと各私大の通信制についても考え直す必要が出てくるだろう。

 次に、オンライン環境について。これはオンライン環境が整っていない、パソコンを所持していないといったことが容易に考えられるので共感のいくところである。オンライン環境に目を向けてみると、たしかに、当サイトで指摘している通り、各通信業者のサポートから漏れてしまう層の方々がいることは理解できる。とはいえ、この点については大学側から、ルーターを貸し出す旨のアナウンスが出ている。けれども当サイトではそのことに言及してはいなかった。話は少し変わるが、パソコンについて、少し考えることがあった。教科書や紙やペンは我々は自己負担している。これは「学ぶ」ためには不可欠だ。ではPCはどうだろうか。昨今の状況に鑑みて学習に不可欠なものである。とすると、その自己負担についてはどこに境界線が引けるのだろうか。値段を多くの人は念頭に置かれるだろう。果たして、いくらが境界線なのだろうか。これは自分でもよくわかっていないので何か考えがある人がいたら教えてもらいたい。

 そして私がこのサイトに最初に賛同しがたいと思ったのが【要求】である。上記での状況・影響・危惧を踏まえた上で要求に至っている。そこで要求されていることは個別具体的な数値を出しての要求だった。しかしその数値がどのように導き出されたかの説明は一切なし、その正当化さえされていない現状であった。そこで当アカウントに問い合わせみたもののクソリプとされ一蹴されてしまった。我々が返還を要求しているのはチンケなインチキ組織ではないのだ。このサイトを通して感じるのは私とこの運動の起草者の前提の違いである。私は、「大学生なら学内自治の正規のプロセスを踏み、大学側の都合も考慮した上で対話しないとまともに取り合ってくれないでしょう」という前提に立っていた。しかし発起人はその後の「読みたい人だけ読んでいただきたいこと」に鑑みるに(解釈が間違ってたらごめんなさい)、「歴史的にも現在の実態としても大学側が学生の都合を聞いてくれることは到底期待できない。現在の学内自治団体も学級委員的な広報期間に成り下がっている。だから正規のプロセスの交渉なんて最初から期待できない。」ということである。加えて「現在の大学は実態を持たない学部の存在や施設の過剰な整備によって大学の価値を高めることで学生のニーズに応え、学費を値上げし、学生を集めてきた。」(後半の資本主義と新自由主義の尖兵云々の解釈)としているのではと思う。ここで生じているのは発起人が大学という政治集団に政治をやっているのである。しかし私は思うのである。ただの政治集団ではない。と。大学は政治集団であるとともにアカデミックな組織でもあるのだと。だからチンケな政治しぐさではなく、よりできうる限り精緻な運動である必要があるのではないか。話を戻すと、個別具体的な数値を出すのであればその根拠を出すのは政治しぐさであっても必要だし、ましてやアカデミックなものに挑戦するものとして明示するのは当たり前なことではないだろうか!そうでなければその論証として正当化を行うのが基本ではないか!そのようなことがなされていない、その運動に、多くのアカデミアに関わる人間が気にもせず賛同している。私が尋ねてもクソリプとして一蹴。大学当局を「対話ができないもの」とみなしているらしいが、それは発起人も同じではないか。私は大学側の人間でもなければ、その運動に殊に賛同し傾倒する人間でもない。ただ一人の学問を追求したい、探究したいと思っている一人の大学生である。その人間が尋ねてクソリプ一蹴。これはやっていることが「発起人の想定する」大学と同じではないか。議論をしようとしない運動に価値はあるのか。と、このようにその時の私は感じてしまい大きく落胆してしまった。しかも賛同者の中にもアカデミックな論文を書いている方がいたり、発起人もおそらく普段はアカデミックなことをやっていると私は思っている。その方々がなんら議論をせずに進んでいることが私には恐ろしかったのだ。私は、「減免内容は個別に議論する必要があって、授業料に関しては現状授業の質が下がるかは確定的ではないからよくわからん、図書館関係は明確に不利益を被っているのであり得る、実験は今後やれる可能性があるからよくわからない、教授へのアクセスも取りづらい、でも図書館などの維持費はかかっているからそこは考慮に入れなきゃ」という立場に立って議論する必要があると考えていたのだ。なんの根拠もなく数値を提示するのは何故なのか。その運動を中途半端なものにしてしまっている気がしていた。根拠もない、何の正当化論証もない。こんな論文をあなたたちは平気で提出しているのと同じですよ。と思ってしまったのであった。

 また、ここでの私の「危惧」はまだある。賛同者の中に誤解している方がいらっしゃったらと思い書こう。「読みたい人だけ読んでいただきたいこと」を読めばわかるのだが、発起人は大学と対話をする気がないのである。賛同者の中には素朴に学費が返還されればと思い賛同している方も多いだろう。大学と議論し、学費返還額を決めてもらいたい。このように考えている方もいたようで、私にもDMがきた。発起人のネオリベ・資本主義批判からの自治体至上主義への転換部に於いて発起人は、我々学生は「客である」という構造をあえて使っている。これは発起人が大学側が対話をする気がないと思っていることに起因するだろう。学内自治の正規のプロセスが取れないならあえて無理を承知で「顧客と企業の関係」と捉え、契約内容が変わったことに対するクレームをつけよう、こちらも対話なんかしないし、と私には読み取れた。つまり、大学側から学費返還の交渉の議論の話がなされたとしても要求されたものでなければ受け付けない。そういう態度を取ろうとしているのだ。発起人は大学当局だけでなく当事者の我々学生とも対話する気がないように取れるのは前述したとおりだろう。私の不勉強及び読解力のなさでこう読めるのかもしれない。ただ、その時の私は賛同者の方々の思いが不憫な形になってしまうのではないかという気持ちがあったのだった。ちなみに発起人のTwitterなどを参照するとこの署名運動については、いち学生が集めたインターネットのよくわからない署名を大学は取り合わないだろう、としていたりする。

 これはあくまでも当時の私の自己分析であり、誰かを批判したいという気は今の僕には一切ないということはご容赦いただきたい。僕は冒頭でも書いたが自己分析、このモヤモヤを解消し整理するためにこれを書いている。現在の私には批判や上述のようなことはあまりなく、過去の私を回顧して本稿は書かれている。ただこの一連のTwitterでの不毛な議論をしてしまい、再びそのようなことがないようにと日記的にこれは教訓として書かれている。

 さて、「読みたい人だけ読んでいただきたいこと」でのもやもやを記述していこう。これは単に趣旨と関係のないアジテーションのようなものであるがいらないだろと思った。まあでも読んでいてもやもやがあったので少し記述していこう。私がまず引っかかったのは「新自由主義」批判からの論法である。これは私が不勉強だったのでその点に詳しい知人に教えてもらったことを参考に記述する。まず、巷に言われるような意味での新自由主義というのはおそらくフーコーに詳しい。その中でも、新自由主義という語にもある程度混乱は見られると思う。「その」フーコー的な分析に乗っかれば「お客様」と定義してしまうこと自体が新自由主義を促進すると思われる。しかし個人的にはこの運動はアカデミズム云々というよりも、前述したように大学というイチ社会集団に政治をやっているだけだろうと思う。それに乗って、政治活動としての理論的基盤がこの運動にあるならばそれが大いに甘い可能性があると思われる。そうではなく、「なんか満額払うのは納得がいかん。こう言う主管は新自由主義とかそういうやつか!」みたいなノリであれば、あぁはいはいそういうね、活動内容自体の妥当性とそこに辿り着くまでの理論的経緯の妥当性はある程度別として捉えちゃってるのねとなってしまうのであった。

 ここでの論旨は「「学生はそもそも大学にとって”お客様”ではない」ことは百も承知だが、資本主義システムの一端と”事実上”なった大学に自らの要望を通すためには資本主義ロジックによって立つべきだ。この資本主義のロジックから言えば、本来享受できるはずのサービスを受けられない場合、対価も相応に減らされるべきだ。」とするものである。しかし、この資本主義の考えに乗ると少しおかしいような気がするのである。「お客様」と「企業」の関係からクレームを入れるとしている。この構造を認めたとして、「現在のような、予見不能な外部要因(コロナ)によって平常時の水準を下回る大学のサービスしか利用できない場合に具体的にどのように大学が保障するのか」という規定は入学時の契約にないことではないか(ちゃんと確認してないのであったらごめんなさい)。「その」資本主義に立脚した民法の契約絶対の原則に立つと保障の義務はないのでは。と思ったのである。「この」資本主義ロジックに立つなら、保障はして欲しいいが義務がない場合には「対話」がやはり必要ではないか。

 このご時世、「大学の質がー」とか「Web環境がー」というのもありだし、私もそう感じるところはある。ここでは簡単に、それとは違った視点から私が思ったことを述べていこうと思う。この理由ではなく経済危機を理由として全学生の一律減免というのも視野に入れて良いのではないか。かつてのリーマンショックなどでの氷河期や、バブル崩壊後の情勢などに鑑みて分析・判断するのも良いことだと考える。コロナの影響で金銭的に大学に通うのが厳しくなっている。これに着目するのである。大学当局に訴えることも必要かもしれない。それだけではなく、大学機関への視点ではなく、コロナの影響で金銭的に困る人がいる、という視点から捉えなおしてもいいのではないだろうかと思ったのである。

 ここらへんで筆をおこう。何度も繰り返しになるが、これは自己分析、ある種の私の反省文である。誰かに特別に向けてということを念頭には置いていない。私がTwitterでの不毛な議論をしようとしてしまったことへの反省文とそこからの教訓を書き留めているだけである。この教訓は重要であるから、今後本稿については加筆修正が大いにあり得る。最後まで私の反省文にお付き合いいただき感謝である。そして私の下書き状態の本稿を見てくださった方や、私に様々なご意見を送ってくださった方にここで再び感謝を申し上げたい。

最後に

教訓:Twitterでの議論は不毛なのでやめる。

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