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黒髪ロングしか勝たんかった

マッシュショート、ヨシンモリ、ネオウルフといった呪文の羅列、これは髪型についた名前で、どんな髪型にしようかという悩みは自己表現の一環として非常に一般的なものだろう。
自分らしいなんてものはよくわからんが、これが可愛いと思う、推しがこの髪型なので真似してみる。
髪型なんてなんでもいいんだけど、その悩む時間が楽しかったりする。

一昨日、友人から「どの髪型にしよう」と相談された。いつものことながら、この上ないほど真剣に考えて美容院を一緒に選んだ。友人には恋人がいるが、彼女は自分でしたい髪型があるようだった。感心した。前の文章のどこも逆接はできないはずなのだけど、わたしにはできてしまった。

わたしは物心ついてから、自分で髪型を選んだことがない。親が「くせ毛だから伸ばさないと面倒」と言うので(中学生の頃まで親に髪をセットしてもらっていたため)、伸ばしていた。
初めての彼氏は、ショートヘアが好きだと言っていたので切ってすぐ告白した。
その次の好きな人もショート、その次はロング……

意思がない!と糾弾されても仕方ないが、本当に髪の毛とかいう死んだ細胞に一切の興味がなかったので、髪型なんかいくらでも合わせたのだった。
大学生になり、容姿コンプレックスが頂点に達したころ、その髪型への無頓着が「好きな人の希望通りでなくてはならない」に変わった。
その頃の彼はわたしが自分の好みから外れるとひどく怒る人であるのがそれに拍車をかけた。「髪が短くても可愛いと言ってほしい」と内緒でミディアムヘアにしたところ、「勝手に髪を切るな」と言われてしまい、さらに「髪が長くなくてはいけないんだ」「髪が短くても彼にすきだと言ってもらえたあの子はわたしと何が違うのだろう」と塞ぎ込んだ。髪なんかで決めないでほしかった。

別れを経て、髪をくびれショートにした。そこから肩ラインボブまで伸びた。そのいずれの長さでも、常にわたしはどこか自分が自分らしくない空虚感と焦燥感でいっぱいだった。ずっと遅刻してはいけない大学入試に遅刻した電車の中のような気持ちだ。髪をロングに伸ばせばいいというわけではない。ロング以外じゃないと息苦しい状態が問題。だってわたしは心のどこかで「髪なんか」って分かっている。

自分の輪郭のない人は、他人がいなければ自分の形がわからない。柔らかい粘土同士を押しつけあったように、自分と触れ合うことで柔らかく歪んだ他人の形を通して、「わたしってこんな形なのか」と判断するしかない。
わたしはよく「自分をもっている」と言われるが、こういった感覚がつねにある。極端にいえば、本当の意味で自分のある人などいないと思っている。
「自分を持たなければ」と念じれば念じるほど苦しいことだってあるんじゃないかと思う。
そこから脱せていないわたしが言うのもなんだけど、人はたぶん若干溶けあっているのが自然な姿だ。
楽になるには、「自分」なんてそんな大したもんじゃないことを思うのがひとつの鍵なんじゃないかなあ。もちろん、他人だって別の人間の自分なので、それもまた大したことがない。
街には大したことのない人しかいない。
それで大丈夫なんだろうけど、腑に落ちるのは難しかった。
頭の片隅に置いておくといいのかもしれない。オススメ。



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