おもしろ哲学「物自体」

わたしたちは物自体を知ることができません。

机自体を知るにはどうすればいいでしょう?
机を叩くと音がしますが、それは波として空気を伝わった机の振動です。机の表面は滑らかだけど、それは指先が伝える机の凹凸具合であり、押したときの硬さは机の反発力であり、目に映っているのは、机の表面を反射して瞳に届く光でしかありません。

わたしたちは物自体を前にして、それが発するあらゆる情報を感じられるのみであり、情報をこえたところの物自体に至ることは決してできない。というのが「物自体」という議論です。

「経験されたもの以外、何も知ることはない」という前提から「経験を生みだすもの」の存在を引き出したカントはそのような存在を物自体と呼び、経験は物自体から発生するが、物自体を経験することはできないと考えました。

(ちなみにカントの立ち位置は現在かなり外側で、50代以上の賢い人たちはデカンショなんて言ってデカルト・カント・ショーペンハウアーが必修だったらしいですが、いまではデカルトだけが唯一神でカント読めとか言う人まずいないと思います。知らんけど。)

物自体が提出される以前から似たようなものの想定は昔からあって、あの原神にも(ワードとしては)登場する「ウーシア」、みんな大好き「イデア」、あるいは中世に言われたような「(偏在する)神」など、経験の裏に潜む何かは常に示唆されていました。

物自体はある立場によっては否定され、またある立場によっては前提とされる考え方です。物自体の存在はけっして証明されるものではありませんが、自由意志の根拠として重要です。唯物的な決定論では説明不可能な物自体の世界が想定されることによって、我々は因果の縛りから距離を置き、意思決定を自由に行えるわけです。

おもしろいですね。


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