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【つの版】徐福伝説10・東海秦氏

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

徐福が山東半島から出港したとして、日本へ行くならば朝鮮半島西岸を南下し、済州島を経て九州に上陸するのが基本です。しかし対馬や壱岐、五島列島や平戸、唐津や博多に徐福伝説はなく、有明海を北上した佐賀平野や薩摩半島西岸、宮崎県などに九州の徐福伝説があります。どうも熊野権現と習合して後付で語られ出した気配がありますが、さらに東へ進みましょう。

◆覇穹◆

◆封神◆

祝島仙果

関門海峡を抜けたのか、豊前から出港したのか、あるいは宮崎から豊予海峡を抜けたのか、山口県上関町の祝島(いわいしま)に徐福・蓬萊伝説があります。万葉集では「伊波比島」と表記され、古来海上交通の要衝でした。隋書倭国伝にも豊前だか周防だかに「秦王国」があったといいますから、全く根拠がないとも言い切れませんが、まあロマンにとどめたがよさそうです。

またこの島にはナシカズラ(梨葛、獼猴桃、サルナシ)という植物が自生しており、これこそ徐福が求めた不老不死の果実であるとの俗説もあります。これはキウイフルーツの近縁種で、果実はコクワともいい、訛ってコッコーと呼ばれています。市販のキウイより小さく酸っぱいですが、日本では古くから食用にされてきました。

瀬戸内には、他に広島県宮島町の厳島神社を蓬萊とする説、岡山県倉敷市の安養寺とする説がありますが、近世に景観を讃えた付会に過ぎません。また兵庫県や大阪府、奈良県には徐福伝説は確認されていません。

土佐秦氏

四国では、瀬戸内側でなく高知県の宇佐町佐川町須崎市虚空蔵山に徐福伝説があります。ここは太平洋に面し黒潮が洗い、須崎湾や浦ノ内湾といった深い入り江を持つ天然の良港です。

伝説によれば、徐福らの船団は暴風雨に遭い、宇佐に漂着して蓬萊(虚空蔵山)に登りました。山頂で鉾をかざして故国を偲び、柴を折って一夜の夢を結びましたが、仙人には会えず虚しく帰ったといいます。また異説では、始皇帝は徐福と張郎の二人を東海に派遣し、二人は佐賀に着きましたが霊山が見えず帰国しました。再び出港したところ暴風雨に遭い、張郎は須崎浦に、徐福は紀州熊野に漂着して、そこに永住したといいます。土佐と熊野は黒潮を通じて結ばれていましたから、それを物語ったものでしょう。

また土佐の長宗我部氏は、先祖は信濃秦氏であると自称しています。これは秦河勝の子の広国を先祖とし、平安後期か鎌倉時代に秦能俊が土佐に入国して土佐国岡郡宗部郷の地頭となり、長宗我部氏を号したものとされます。

異説では、始皇帝の六代の子孫である琉孫が来日して信濃に居住し秦徐福と号したといいます。秦氏は始皇帝の子孫という氏祖伝説を持ちますが、『釈氏六帖』に伝えられた寛輔の説に「秦氏は徐福の子孫」というのがありましたから、両者はいつしか繋げられたのでしょう。佐賀の金立権現の縁起でも徐福を「始皇帝の子」としていました。どのみち土佐にもといたわけではなく、信濃から来たということになっていますが。

丹後蓬萊

日本海側では、出雲や伯耆を通り越して京都府北部の丹後に徐福伝説があります。すなわち丹後半島東岸、与謝郡伊根町新井の新井崎(にいざき)神社です。祭神は事代主命・宇迦之御魂神・徐福。北には浦嶋神社が、南には天橋立や籠(この)神社があるという神秘の濃い地で、新井崎の東の冠島には籠神社の祭神である天火明命が降臨したといいます。

伝説によれば、徐福は(対馬海流に乗って)丹後に到来し、新井崎のハコ岩に上陸しました。そして不老不死の薬を探し、「九節の菖蒲」と「黒茎の蓬」を探し当てましたが、帰還することなく定住したといいます。また東に浮かぶ冠島と沓(くつ)島は、徐福が冠と沓を遺して屍解したことをいうともいい、常世島・龍宮島の異名もあります。

丹後と蓬萊は、古くから浦嶋伝説によって結びついていました。『日本書紀』雄略紀や『丹後国風土記』逸文によると、与謝郡日置里筒川村に水江浦嶼子(みずのえのうらの・しまこ)という人がおり、船で海釣りをしていたところ五色の亀を釣り上げました。すると亀は美女に変わり、「天上の仙家の者」と名乗ります。嶼子は船を漕いで蓬山(蓬莱山)に赴き、七人の童子(昴星)と八人の童子(畢星)に出迎えられ、饗宴を受けて仙女亀比売と契り、三年の間楽しく暮らしました。

やがて嶼子は故郷に帰りたいと言い出しますが、亀比売は「私と再会したいなら、これを開けてはなりません」と告げて玉匣(玉手箱)を授け、彼を送り返します。しかし帰ってみると300年も経っており、驚いた嶼子が玉手箱を開けると、何か美しい姿が雲を伴って天上へ飛び去ったといいます。同様の話はチャイナにも多くあり、そうした話が伝わったものでしょう。

また丹後の西の但馬には、垂仁天皇の時代に常世国へ橘の実を取りに赴いたという田道間守の伝説もあります。徐福伝説は後付かも知れませんが、古くから海の彼方の神仙郷を求める話がこのあたりに伝わっていたようです。

男鹿赤神

北陸地方を通り過ぎて遥か北、日本海に突き出た秋田県の男鹿半島にも徐福伝説があります。すなわち男鹿市船川港本山門前祓川の徐福塚で、真言宗智山派・長楽寺の境内、赤神(あかがみ)神社五社堂の石段の傍にあります。

赤神神社の祭神は瓊瓊杵尊ともされますが、本来は赤神山大神で、一説には景行天皇の時代に天から降臨した漢の武帝とその従者である鬼神たちを祀ったものとされ、これを「なまはげ」の起源とする説もあります。ただ赤神神社の前身は日積寺永禅院といい、天台宗に属する修験道場でした。天台宗の守護神は円仁が唐から招来した赤山明神泰山府君)で、赤神とはそのことでしょう。泰山は斉の神ですから徐福と縁がないでもありません。

男鹿半島の東には八郎潟があり、天然の良港でしたから、チャイナから漂着する船があってもおかしくはありません。ただ江戸後期の紀行家・菅江真澄は「塚はさほど古いものではない。徐福が上陸したのは紀州熊野であるというから、熊野の修験者が建てたものであろうか」と冷静に判断しています。この塚も道路拡張工事で失われ、今あるものは平成17年に地元の有志により復元されたものです。

東日流

男鹿半島からさらに北、青森県北津軽郡中泊町の小泊(おどまり)村には、日本最北端の徐福伝説があります。すなわち日本海に突き出た小泊岬(権現岬)で、下前には平成14年にチャイナから輸入した徐福像が立っています。

この集落には熊野神社があり、権現とは熊野権現でしょうから、例によって熊野信仰を介して伝わったものでしょう。権現崎の南には天然の良港として中世に繁栄した十三湊があり、かの偽書『東日流外三郡誌』にも徐福が東日流(つがる)に渡来したことが記されています。

小泊岬の頂上に鎮座する尾崎神社は紀州の尾崎氏が奥州安倍氏を頼って移住し、熊野大権現を祀った社と伝えられます。文禄年間には津軽の尾崎氏が那智大社の宮司をし、その後津軽に帰ったともいい、正徳元年(1711年)には徐福の子孫(と称する人)がここに定着し、徐福の像と観音像を持参、飛龍大権現と称したと伝えられます。

なお、北海道にも徐福伝説があることはあります。空知郡上富良野町の静修熊野神社で、明治42年に入植農民の菅原長治郎氏らによって宮城県古川市の熊野神社を分社したものですが、平成になって東京の研究家により徐福伝説と結び付けられました。熊野信仰と徐福伝説の繋がりは大したものです。

東海秦氏

しからば、太平洋側はどうでしょうか。和歌山県新宮市、三重県熊野市、山梨県富士吉田市などは後回しにして、東海・関東を見てみます。

尾張

富士・熊野と並び称される「蓬萊」として、愛知県名古屋市熱田区の熱田神宮が挙げられることがあります。草薙剣を祀る社として有名ですが、尾張の地は甚だ低湿地が多く、古代には熱田台地が遠浅の海へと突き出していました。ヤマトや伊勢から見れば東海の彼方なので、まあ蓬萊っぽいと言えるかも知れません。とはいえ全く「山」らしくはありませんが。

また熊野から北上して熱田に来たとしても、途中の志摩や伊勢には徐福伝説がありませんし、そも熱田神宮にもありません。東海の彼方にあり、海の近くにあるという景観を讃えてそう伝えられたに過ぎないでしょう。

三河

また、東三河の愛知県豊川市小坂井町の菟足神社に徐福伝説があります。三河湾に面した位置にあり、祭神の菟上足尼(うなかみ・すくね)命は仁徳天皇の舅・葛城襲津彦命の玄孫とされ、雄略天皇の時代にこのあたりを治める穂国造に任じられたといいます。のち平井の柏木浜に祀られ、天武天皇の時代に秦河勝の子・石勝が当地に遷座したといいます。

秦氏が出てきますね。どうも東海地方には秦氏・秦人が古くから進出していたようです。そう言えば『日本書紀』には、皇極3年(644年)に駿河国富士川で発生した「常世の神」を崇める集団を、山背国葛野にいた秦河勝が懲らしめたという話があります。富士川はまさに富士山の西麓を流れる川ですから、秦氏と富士山の繋がりを思わせます。

また秦氏はそれこそ日本全国に分布しており、讃岐国の秦公から出た惟宗(これむね)氏からは薩摩島津氏や対馬宗氏などが出ていますし、藤原氏を通じて皇室とも姻戚関係があります。羽田、秦野、波多野といった地名や人名も各地にあります。仮冒も多いためアレですが、秦氏の中に始皇帝と徐福を結びつけた氏祖神話があり、さらに富士信仰や熊野信仰と結びついていった可能性はあるでしょう。イマジネーションは自由です。

関東

富士山の東、相模国西部には秦野/波多野(はだの)があります。ここは丹沢山地などに囲まれた盆地で、豊富な地下水を有します。平安時代の『倭名類聚抄』には幡多郷として現れ、地名からして秦氏が開拓した可能性が高そうです。やはり富士山の麓には秦氏がいたわけです。

東京都北区王子本町の王子神社は、旧称を王子権現といい、鎌倉時代の元亨年間(1321-1324)に領主の豊島氏が熊野新宮の浜王子より若一王子宮を勧請したものです。近くの飛鳥山も熊野新宮から阿須賀明神を分社したものといいます。寛永年間、徳川家光は社殿を修築し、神社の縁起絵巻を作成するよう命じましたが、そこに「秦の始皇帝の時、徐福が蓬莱山を訪ねて熊野に来たり、登仙して熊野の神となった」云々とあります。江戸に徐福が来たという伝説ではありませんが、江戸の人々にも徐福は身近だったのです。

若一王子(にゃくいちおうじ)とは熊野十二所権現の一柱で、十一面観音・天照大御神と同一視されます。本宮の祭神から分かれた御子神や、後から付け足した祭神を祀るものを「若宮」「王子神」といい、若一王子は本宮たる三所権現(熊野三山、神道におけるイザナギ・イザナミ・スサノオ)から分かれた五所王子(神道における地神五代)の筆頭です。

平安時代、源義家は前九年の役(1051-1062)に勝利した折、この地に祈願所を創建して敵方の冥福を祈りました。これが真言宗禅夷山東光院金輪寺です。後に荒廃しましたが、江戸初期に徳川秀忠の命で再興されました。この寺は王子権現・王子稲荷の別当寺となり、徳川将軍家の御膳所を務める格式の高い寺院でしたが、幕末の火災と神仏分離令で滅びました。現在の金輪寺は、かつての東光院の一部であった藤本坊が名を継いだものです。

房総や北関東、東北地方の太平洋側には徐福伝説は見られませんが、東京都の一部である伊豆諸島には存在します。それによると、徐福は東海の島々を霊薬を求めて探し回り、八丈島に上陸して養蚕を伝えました。彼は八丈島に五百人の童女、青ヶ島には五百人の童男を残し、それぞれ女護島、男島と呼びました。そして年に一度の逢瀬を許し、女児が生まれたら八丈島に、男子が生まれたら青ヶ島に連れて行くよう命じたといいます。

こうして見ていくと、徐福伝説の淵源となる有力な地は二つに絞られます。すなわち紀州熊野と富士山です。丹後も捨てがたいですが、浦島伝説があるからいいとして、改めてこれら二つの聖地を調べてみましょう。

◆覇穹◆

◆封神◆

【続く】

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