【つの版】徐福伝説02・平原廣澤
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
紀元前219年、始皇帝の命令を受け、琅邪(山東省青島市黄島区)から東海に三神山を求めて船出したはずの徐福もとい徐巿(じょ・ふつ)は、9年経ってもまだ琅邪にいました。始皇帝は山東半島北岸の之罘山で大きな魚を射殺しましたが、咸陽へ戻ろうと西へ向かったところ、途中で病死しました。その後、徐巿についての記録は途絶えます。他に記録はないでしょうか。
◆JOJO◆
◆仙道◆
田斉方術
『史記』封禅書は、封禅など各地での祭祀儀礼を記録したもので、斉の祭祀や蓬莱、始皇本紀で見た始皇帝の活動についても書かれています。
それによると、泰山と梁父山での封禅を終えた始皇帝は遂に海上に東遊し、行くところの名山大川や八神を礼祠し、僊人羨門の属を求めました。八神は古代からあり、太公(斉の建国者・太公望)以来作られたともされます。
八神、一曰天主、祠天齊。天齊淵水、居臨菑南郊山下者。二曰地主、祠泰山梁父。蓋天好陰、祠之必於高山之下、小山之上、命曰畤。地貴陽、祭之必於澤中圜丘云。三曰兵主、祠蚩尤。蚩尤在東平陸監鄉、齊之西境也。四曰陰主、祠三山。五曰陽主、祠之罘。六曰月主、祠之萊山。皆在齊北并勃海。七曰日主、祠成山。成山斗入海、最居齊東北隅、以迎日出云。八曰四時主、祠瑯邪。瑯邪在齊東方。蓋歲之所始。
八神は、一を天主といい、天斉(天の臍、斉国の名の源)を祠る。天斉は淵水(泉)で、臨菑の南郊の山麓にある。二を地主といい、泰山と梁父を祠る。けだし天は(陽なので)陰を好み、必ず高山の下の小山の上で祠り、これを畤という。地は(陰なので)陽を貴び、必ず澤中の円丘で祭るという。三を兵主といい、蚩尤(軍神)を祠る。蚩尤は東平の陸監郷にあり、斉の西境である。四を陰主といい、三山(東莱の参山)を祠る。五を陽主といい、之罘山を祠る。六を月主といい、之莱山を祠る。これらの山は斉の北にあり、渤海に面する。七を日主といい、成山を祠る。成山は斗(柄杓)のように海に突入し、斉の最も東北隅にあって、以って日の出を迎えるという。八を四時主といい、瑯邪山を祠る。瑯邪は斉の東方にあり、けだし歳の始まるところである。
斉で祀られていたという神々です。斉は殷周革命の後、功臣である太公望・呂尚が封建された国で、もと姜姓でしたが、戦国時代に田氏に簒奪されました。国姓は代わっても国名は同じで、これを田斉といいます。
自齊威、宣之時、騶子之徒論著終始五德之運、及秦帝而齊人奏之、故始皇采用之。而宋毋忌、正伯僑、充尚、羨門高、最後、皆燕人、為方僊道、形解銷化、依於鬼神之事。騶衍以陰陽主運顯於諸侯、而燕齊海上之方士傳其術不能通、然則怪迂阿諛茍合之徒自此興、不可勝數也。
斉の威王(前356-前320)・宣王(前319-前301)の時、騶子(騶衍)の徒が終始五徳の運について論述した。秦帝に及んで斉人がこれを奏上し、始皇帝が採用した。宋無忌、正伯僑、充尚、羨門高、最後らはみな燕人で、方僊道をなし、形解銷化し、鬼神の事に依った。騶衍は陰陽主運をもって諸侯に顕れたが、燕斉海上の方士はその術に通じず、怪しい話を説き阿諛迎合の徒となって自らこれを興すこと数え切れない。
田斉の君主は下剋上によって君主の位を簒奪した僭主でしたから、盛んに正統政権であることを喧伝しました。また首都の西門(稷門)の近くに邸宅を設けて天下から学者を招聘し、多額の資金援助を行って学問・思想の研究と著述にあたらせました。これを「稷下の学」と呼びます。彼らは御用学者となり、自分たちが仕える王家が正統政権であるという理屈をつけて弁護・喧伝してくれる、というわけです。
特に騶衍が説いた終始五徳説では、土・木・金・火・水という五徳(五行)がこの順番で循環し、王朝の交替にも対応するとしました。最初の王朝・虞は土、次の夏は木、殷は金、周は火徳とし、次は水徳、その次は土徳に戻ると説いたのです。たぶん周の天命が覇者・桓公によって斉(姜斉)に移り、その次は田氏に移ったのは自然の道理だとするためにオカルト理論をでっち上げたのでしょう。天地・陰陽・日月・兵・四時を祀るという八神も、さほど古いものとは思えません。
前249年、田斉の実権を握った后勝は秦の賄賂を受けて政治を行い、秦の属国のようになりました。秦の実権を握る呂不韋は、斉を含む天下から食客を集めて養い、『呂氏春秋』という百科事典を造らせています。その中では、火徳の周の次は水徳であるとされ、秦が天下に君臨するためオカルト理論をでっち上げたことがわかります。彼は前235年に失脚しますが、秦王政(始皇帝)もこの理論を受け継ぎました。
前221年、秦王政は田斉を滅ぼし、戦国七雄のうち六国を全て併合し、天下を統一しました。稷下の学士や方士らは食い扶持を求めて秦に仕え、そのオカルト理論を喧伝して「秦が天下を統一するのは予言されていました」とか主張したわけです。しかし天下統一が成ってしまえば、だからどうした、と言うことになります。そこで方士らは始皇帝の個人的な欲望、すなわち不老不死の願望を煽り立てました。
三神山
自威宣・燕昭、使人入海求蓬萊・方丈・瀛洲。此三神山者、其傅在勃海中、去人不遠。患且至則船風引而去。蓋嘗有至者、諸僊人及不死之藥皆在焉。其物禽獸盡白、而黃金銀為宮闕。未至望之如雲、及到三神山反居水下。臨之風輒引去、終莫能至云。世主莫不甘心焉。
斉の威王・宣王、燕の昭王(前312-前279)は、人を遣わして海に入らせ、蓬莱・方丈・瀛洲を求めた。この三神山は渤海の中にあり、人の住む所から遠くないが、至ろうとすれば災いがあり、船が風で吹き戻されるという。かつて至った者があり、諸々の僊人、不死の薬はみなそこに在るという。そこに棲む禽獣はことごとく白く、金銀の宮殿があるという。到達するまでは望むと雲の如く、至ってみれば三神山は返って水の下にある。これに臨めば風が吹いて引き去り、ついに至ることはできないという。これを聞いて、世々の君主は甘心を抱かないことはなかった。
宣王の次の湣王は高まった国力をもとに勢力を広げ、前288年には秦が西帝と称したのに対して東帝と称する程でしたが、前284年に燕の名将楽毅率いる五国の連合軍に攻め込まれ、ほとんどの領土を失います。湣王も部下に殺され、燕の昭王は5年ほど燕・斉にまたがる広大な領土の主となりました。前279年に昭王が薨去し、楽毅が更迭されると、田斉は襄王を担いだ田単のもとで一挙に勢力を回復しますが、かつての大国ではなくなりました。
このような時代に、方士らは王に取り入り、海の彼方に仙人が住む楽園があると喧伝しました。「望むと雲の如く、至れば水の下にあり」との描写からすると蜃気楼のことでしょう。山東省煙台市の蓬萊区は蜃気楼で有名で、沖合には遼東半島との間に廟島群島が連なっています。これらの島々そのものではなく、海上に蜃気楼として浮かび上がって見えたのが、三神山の原型であろうと思われます。なお萊(らい)は古来この地に存在した国で、前567年に斉に滅ぼされ、地名として残存しました。
及至秦始皇并天下、至海上、則方士言之不可勝數。始皇自以為至海上而恐不及矣、使人乃齎童男女入海求之。船交海中、皆以風為解、曰未能至、望見之焉。其明年、始皇復游海上、至瑯邪、過恒山、從上黨歸。後三年、游碣石、考入海方士、從上郡歸。後五年、始皇南至湘山、遂登會稽、并海上、冀遇海中三神山之奇藥。不得、還至沙丘崩。
秦の始皇帝は天下を併せ、海上に至り、方士の言を聞く事は限りなかった。始皇帝は自ら海上に至ることを恐れ、人(徐巿ら)をして童男女を率いて海に入らせ、これを求めた。しかし船は海中でぶつかり合い、みな風のために壊れて到達できなかったと報告され、望み見るだけで終わった。その翌年、始皇帝は再び海上に向かい、琅邪・恒山・上党を経て帰還した。それから三年して碣石に赴き、方士(盧生ら)を海に入らせ、上郡から帰還した。それから五年して、始皇帝は南の湘山に至り、ついに会稽山に登り、海沿いに北上して海中の三神山の奇薬を求めた。しかし得られずに帰る途上、沙丘において崩御した。
方士らの個人名は出ていませんが、おおよそ始皇本紀と内容は同じです。始皇帝はこうした方士らの口車に載せられ、決して手に入らぬものを求めたというわけですね。
淮南王劉安
『史記』淮南衡山列伝は、漢(前漢)の皇子が地方に封建された王家についての伝記です。始皇帝の崩御から3年後、前206年に漢の高祖劉邦は秦を滅ぼし、覇王となった楚の項羽を前202年に滅ぼした後、安徽省から江西省にかけて淮南国を設置し、黥布(英布)を淮南王に封じました。彼が反乱を起こして処刑された後、劉邦は幼い妾腹の子の劉長を淮南王とします。
しかし彼は成長すると驕慢無礼となり、前174年に謀反の罪で流刑となり、配流先に着く前に絶食して死にました。10年後の前164年、劉邦の子・文帝は旧淮南国領を劉長の三人の子に分け与え、劉安を淮南王、劉勃を衡山王、劉賜を廬江王としました。時に劉安は16歳の少年でした。
この頃、漢は西部が皇帝(天子)直轄の郡県制とし、東部や南部は皇族や異姓功臣を諸侯王とした封建制でした。前154年にこれら諸侯王が手を結び、漢の天子(文帝の子・景帝)に対して「呉楚七国の乱」を起こすと、劉安も呼応しようとしますが、臣下の張釈之が軍勢を抑えたため無事でした。
前141年に景帝が崩御し、子の武帝が即位すると、劉安は入朝して挨拶します。この時、景帝の皇后の異父弟である太尉の田蚡から「今の天子には太子がおられません。あなたは高祖の孫のうち最年長ですから、天下に変があれば天子となられるでしょう」と唆されます。喜んだ劉安は彼に財宝を与え、密かに天下を伺うようになりました。
劉安は狩猟を喜ばず、読書と音楽を愛好したインドア派の王でした。彼は来たるべき時のため仁政を敷いて民を手懐け、兵を訓練し武器を集め、多くの食客を抱え、また弁舌の士や方士を招きました。劉安が彼らとともに道家・儒家・法家・陰陽家などの思想を収集して編纂した書物を『淮南鴻烈』といい、そのうちの一部が『淮南子』として伝わっています。
その中の泰族訓には「夏の桀や殷の紂は(無道なので)王とはしない。殷の湯王や周の武王は彼らを討伐したが、王を討伐したのではない。道を行えば領地は狭くても諸侯に命令でき、道を失えば天下を失う。無道を行いながら簒奪をそしるのは無益である」という記述があり、これは田斉に仕え易姓革命を肯定した孟子の説と同様です。彼らは劉安に阿諛追従して金銭を得、彼が天子となるための思想的基盤を備え、プロパガンダを担ったのです。
武帝は年長の皇族だからと劉安を尊重しましたが、元朔5年(前124年)に劉安の太子が事件を起こし、罰として淮南国の領地を2県削りました。劉安は不満に思い、夜密かに側近の伍被・左呉らを招いて地図を机に広げ、反乱を起こそうと図ります。伍被が「国を亡ぼされるおつもりか」と諌めると、劉安は怒って彼の父母を拘束しましたが、反乱は起こしませんでした。
三ヶ月後、劉安が伍被に再び問うと、彼はかつて秦が数々の無道を行って人民を虐げ、民心を失ったがゆえにたやすく亡ぼされたことを述べ、次いで呉楚七国の乱が失敗した例を挙げます。そして「大王の兵力は呉楚の10分の1しかなく、天下が安寧なことは秦の時に万倍します。いま挙兵するのはこの国を亡ぼすだけです」と諌めました。劉安はやむなく引き下がりましたが、なおも不穏な動きをやめず、ついに伍被は彼のことを武帝に密告しました。
元狩元年(前122年)、武帝は淮南王劉安を謀反の罪で捕え、劉安は自決しました。彼の臣下や食客数千人も誅され、伍被は武帝により罪を許されそうになりましたが、廷尉(刑罰と法律を司る)の張湯が「淮南王に計略を授けたのは彼です」と主張し、ついに誅されたといいます。ほぼ同文が『漢書』淮南王列伝、伍被列伝にあります。
それはさておき、この時に伍被が劉安に対して述べた「秦の無道」のひとつとして、徐福伝説が語られています。読んでみましょう。
平原廣澤
又使徐福入海求神異物、還為偽辭曰『臣見海中大神、言曰「汝西皇之使邪」臣答曰「然」「汝何求」曰「願請延年益壽藥」神曰「汝秦王之禮薄、得觀而不得取」即從臣東南至蓬萊山。
(始皇帝は)また徐福を遣わして海に入らせ神異の物を求めさせましたが、彼は還って来ると偽りの報告をし、こう言いました。『私が海中で大神にまみえますと「汝は西皇(西の皇帝)の使いか」と尋ねられました。私が「そうです」と答えますと、「何を求めるか」と問いますので、「延年益寿の薬を頂きたく」と答えました。神は「秦王の礼が薄いゆえ、見ることはできても得ることはできぬ」と答え、私を東南の蓬莱山に連れてゆきました。
見芝成宮闕、有使者銅色而龍形、光上照天。於是臣再拜問曰「宜何資以獻」海神曰「以令名男子若振女與百工之事、即得之矣」』秦皇帝大說、遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行。徐福得平原廣澤、止王不來。於是百姓悲痛相思、欲為亂者十家而六。
そこには霊芝が宮殿を囲んで生え、仙人の使者は銅色で龍形をし、光が立ち上って天まで照らしていました。私が再拝して「何を献上すればよろしいでしょうか」と尋ねますと、海神は「令名の男子と若く振(さか)んな女を百工と共に献ずれば、望みのものは得られよう」と答えました』始皇帝は大いに喜び、振男女三千人を遣わし、五穀や種種百工を副えて行かせました。徐福は平原廣澤を得て、とどまって王となり、戻ってきませんでした。人民は嘆き悲しみ、反乱しようとする者は十家のうち六家に及びました。
始皇本紀より話が詳しくなっており、徐巿あらため徐福のその後についても語られています。劉安が呼び集めた方士らによって語り継がれていたのでしょう。巿(ふつ)が福になったのは、やはり市(し)と紛らわしいので似た音に変えたのでしょうか。海神は始皇帝が夢に見たのでなく、徐福の作り話の中に出てきます。霊芝とは霊的なパワーを持つ芝(きのこ、薬草)です。
また男女数千人だけでなく、五穀や種々百工(職人たち)を伴って出発し、蓬莱ならぬ平原と広い沢を得て王になった、と書かれています。徐福は琅邪の東南、東海の彼方の土地に移住し、王国を築いたというのです。そこは日本列島のどこかでしょうか。それとも済州島や朝鮮半島、あるいは台湾でしょうか。そしてそれは本当でしょうか。劉安が編纂した『淮南子』には蓬莱も徐福も出てきませんが、彼が徐福を知らなかったはずはありません。
◆不老◆
◆不死◆
次回は徐福の行方を追う前に、徐という姓、琅邪という地について調べてみましょう。彼はいったい何者なのでしょうか。
【続く】
◆