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【つの版】倭国から日本へ12・倭為大國

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

西暦600年、120年ぶりに倭国の使者がチャイナにやって来ました。使者がいうには、倭王は姓を阿毎、名を多利思比孤、号を阿輩雞彌といい、天を兄とし日を弟とするそうです。この頃の倭国の大王は推古天皇(炊屋姫)という女性のはずですが、多利思比孤とは何者なのでしょうか。とりあえず、隋書倭国伝を読み進んで行きましょう。テキストをお開き下さい。

◆Harem◆

◆Scarem◆

中央の制度

王妻號雞彌、後宮有女六七百人。名太子為利歌彌多弗利。無城郭。
王の妻は雞彌といい、後宮には女が600から700人いる。太子を名付けて利歌彌多弗利という。(都には)城郭がない。

倭王多利思比孤には妻がおり、後宮(ハレム)もあります。40代の未亡人である推古天皇が同性愛に目覚めたのでなければ、倭王は男性のようです。妻の名(称号)の雞彌は「きみ(王、公、后)」で、大王が阿輩雞彌(おほきみ、アパケミ)と呼ばれるのに対応します。

太子は厩戸皇子かと思われますが、「利歌彌多弗利」とはいかなる倭語でしょうか。倭語は基本的にr音(ラ行)が語頭に来ないため、の字はの誤記で「和歌彌多弗利」が本字だと解釈されています。

和歌彌多弗利 中古音:ɦuɑ kɑ miᴇ ta pɨut̚ liɪH

『源氏物語』『うつほ物語』など平安文学では皇族のことを「わかんどおり」と呼び、「若御通り」ないし「別御通り」の転訛と推測されています。通りとは血統が通ることで、皇族の女性が産んだ子は「わかんどおり腹」と呼ばれました。和歌彌多弗利(ワカミタポリ)はその古形を音写したものでしょう。由緒正しい倭語(やまとことば)です。

城郭とは城壁や防御施設で、中心部の砦や王宮の周囲を守る内城が、集落全体を守る外城がと呼ばれます。戦乱が激しいチャイナやコリアの首都は立派な城郭や周濠で囲まれていますが、倭国の首都は隋使が実際に見聞したところでは城郭がありません。弥生時代には環濠集落もありましたが、広域の倭国が成立すると、海外から他国に攻め込まれる心配も少ないので城郭が不要になったのでしょうか。

内官有十二等、一曰大德、次小德、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信、員無定數。
内官には十二等級あり、初めを大徳といい、次に小徳、大仁、小仁、大義、小義、大禮、小禮、大智、小智、大信、小信。官員には定員がない。

いわゆる「冠位十二階」です。実は西暦600年には存在せず、その数年後に慌てて作ったものを、607年の遣隋使が見聞して記録したものです。『日本書紀』では徳・仁・禮(礼)・信・義・智を大小に分けますが、『隋書』では徳の下を仁・義・礼・智・信という五常の通常の配置に直しています。

地方行政と人口

有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。
軍尼(くに、国造)が一百二十人おり、中国の牧宰(国守)のようである。八十戸に一伊尼翼(伊尼冀、稲置)を置き、今の里長のようである。十伊尼翼は一軍尼に属す。

チャイナが州や郡、県を置くように、倭国の地方行政区域としてクニが置かれ、世襲首長であるクニのミヤツコ(国造)がいてヤマトへ貢納していました。倭王武の上表文にいう「東は毛人を征すること55国、西は衆夷を服すること66国」を足すと121国となり、5世紀後半には既にそれぐらいのクニが倭国にあった(倭王を盟主として倭国を形成していた)ことになります。

ヤマトに近いほど服属度は高く、河内など畿内ではアタヒ(直)、吉備や出雲などへはオミ(臣)、越国・毛野・筑紫・豊国・火国などへはキミ(君)のカバネ(姓、称号)が首長に与えられました。彼らは軍事権・裁判権などで広い裁量を持ち、時にヤマトの大王に反乱を起こしましたが、微妙なパワーバランスの上に大王を盟主として頂き、倭国を存続させています。倭王は絶対的な存在ではなく、各地に直轄地である屯倉(ミヤケ)を置き、これらの地方豪族を牽制しつつ租税を集め、人と物の交流でパイプを保ちました。

イナキ(稲置)はクニの下のコホリ、ないしアガタ(県)を治める地方豪族(里長)です。およそ10人のイナキの治める範囲が1つのクニで、1イナキは80戸ですから1クニには800戸があり、倭国全体では121×800=9.68万戸、およそ10万戸です。1戸5人(房戸)なら50万人ですが、この戸が北魏・隋唐の律令制における戸(郷戸)なら平均20人で、4倍して200万人が倭国の領内にいる計算です。魏志倭人伝の時は20万戸(房戸)・100万人ですから、人口は400年で2倍になりました(奴婢などは戸籍に入らないかも知れません)。とすると1イナキは80郷戸=1600人1クニは800郷戸=1.6万人を平均して治めることになります。筑紫や吉備、出雲などの大国はより多いでしょう。

あとの方で「戸可十萬」とありますが、これは倭国全体の戸数というより、畿内とその周辺の人口を房戸で表したものでしょうか。魏志倭人伝の時代の邪馬臺國(近畿諸国連合)が7万戸でしたから、それよりは増えています。

服飾

其服飾、男子衣裙襦、其袖微小。履如屨形、漆其上、繫之於脚。人庶多跣足。不得用金銀為飾。故時衣橫幅、結束相連而無縫。頭亦無冠、但垂髮於兩耳上。至隋、其王始制冠、以錦綵為之、以金銀鏤花為飾。婦人束髮於後、亦衣裙襦、裳皆有襈。攕竹為梳、編草為薦、雜皮為表、緣以文皮。
その服飾は、男子は裙(裳裾、腰布状の下着)と襦(肌着)をつけ、袖は小さい。履物は短靴(シューズ)のような形で、その上に漆を塗り、紐で脚に繋ぐ(サンダル)。庶民は多くが裸足である。金銀を装飾に用いることがない。むかしは布の横幅を結束し、縫わずに衣としていた(貫頭衣)。また頭に冠はなく、ただ髪を両耳の上に垂らしていた(角髪)。隋の時代になって(チャイナを真似)その王が初めて冠を制定した。錦と綾絹でこれを作り、金銀で造った花をちりばめて飾りとする。婦人は髪を後ろに束ね、また裳裾と肌着をつけ、裳(スカート)にひだがある。竹で櫛を作り、草を編んで敷物とし(畳筵)、雑皮でその表を作り、彩のある皮で縁取りをする。

魏志倭人伝のような黥面文身も後で出て来るのでやめてはいませんが、少なくとも倭の首都付近は任那や百済、南朝の先進文明を取り入れて、そこそこおしゃれで文明的な暮らしをしていたようです。金銀の飾りのある冠は、藤ノ木古墳などから出土しており、チャイナというか高句麗や鮮卑の歩揺冠を真似たようです。また古代の畳は現代のように敷きっぱなしではなく、座布団めいた折りたたみ式のクッションでした(それでタタミといいます)。

武器

有弓矢、刀、矟、弩、[矛賛]、斧、漆皮為甲、骨為矢鏑。雖有兵、無征戰。其王朝會、必陳設儀仗、奏其國樂。戸可十萬。
(武器には)弓矢、刀、矛、弩、鉾、斧があり、漆を塗った皮を鎧とし、骨で鏃や鏑矢を作る。武器はあるが(今は)遠征して戦うことはない。その王は朝会に必ず儀仗を並べ設け、その国の音楽を奏でる。戸数は十万ばかり。

倭国は562年の任那(大加羅国)滅亡以来、朝鮮半島の拠点を失い、積極的に半島へ進出することはなくなりました。時代の趨勢です。日本も第二次世界大戦後は侵略戦争路線をやめて平和外交路線になりましたし、国内を整備して発展させることに注力したのでしょう。戸数十万は上述のように近畿の戸数を1戸5人で表したものと思われます。

長年倭国に鉄資源を供給してきた任那(弁韓)が新羅に奪われたため、倭国では弁韓系の技術者を用いて国内での製鉄に力を入れ、6世紀なかばには吉備地方で製鉄が行われていたことが考古学的に確かめられています。弥生時代にも行われた形跡がありますが、確実な国内製鉄の開始はこの頃です。それでも鉄は貴重品で、革鎧や骨の鏃で間に合わせています。

法律

其俗殺人強盜及姦皆死、盜者計贓酬物、無財者沒身為奴。自餘輕重、或流或杖。毎訊究獄訟、不承引者、以木壓膝。或張強弓、以弦鋸其項。或置小石於沸湯中、令所競者探之、云理曲者即手爛。或置蛇甕中、令取之、云曲者即螫手矣。人頗恬靜、罕爭訟、少盜賊。
その俗では、殺人と強盗と姦淫はみな死刑とし、盗んだ者は盗品を計って贖わせ、財産がない者は身体を没収して奴隷とする。それ以外の犯罪は、罪の軽重に応じて流刑にしたり杖で撃ったりする。訴訟を問いただす時に承知しない者は、木で膝を抑えつける(後の石抱き・搾木)。あるいは強弓を張ってその弓弦でうなじを鋸のように引く。あるいは小石を沸騰する湯の中に置き、競う者にこれを探り取らせ、理が曲がっていれば手が爛れるという(探湯)。あるいは蛇を壺の中に置いてこれを取らせ、曲者は噛まれるという。人々はすこぶる物静かで、争いや訴訟は少なく、盗賊も少ない。

治安維持のためには裁判と刑罰が必要ですし、自白を求める拷問も行われました。神明裁判も世界中で行われています。こうした厳しい法律のゆえか、倭国は外来の人々が結構いた割には、比較的治安がよかったようです。

習俗

樂有五弦琴、笛。男女多黥臂點面文身、沒水捕魚。無文字、唯刻木結繩。敬佛法、於百濟求得佛經、始有文字。知卜筮、尤信巫覡。毎至正月一日、必射戲飲酒、其餘節略與華同。好棋博、握槊、樗蒲之戲。
楽器には五絃の琴や笛がある。男女は多く腕や顔や体に刺青し、水に潜って魚を捕る。(昔は)文字はなく、ただ木を刻み縄を結んでしるしとしていた。仏法を敬い、百済から仏教の経典を求め得、初めて文字を用いるようになった。卜筮(うらない)を知り、巫覡(みこ・かんなぎ)を信じる。毎年正月一日には必ず射戯や飲酒し、その他の節句はおよそ中華と同じである。囲碁盤双六(バックギャモン)・樗蒲などの遊戯を好む。

黥面文身はまだあったようです。文字が仏教経典によって初めて入ったというのは事実ではありませんが(弥生時代に楽浪郡の硯が出土しています)、そういう言い伝えがあったのでしょう。ただし文字の読み書きは特殊技術であり、当時は文字教育を受けた限られた人間しかできません。縄を結んで情報を伝えることは世界中に見られ、「刻木結繩」は無文字社会をいう漢文熟語です。節句や射的、囲碁、ダイスを用いたボードゲームも百済を経由して伝わったものですが、別に百済で発明されたわけではありません。

氣候溫暖、草木冬青、土地膏腴、水多陸少。以小環挂鸕鷀項、令入水捕魚、日得百餘頭。俗無盤俎、藉以檞葉、食用手餔之。性質直、有雅風。
気候は温暖で、草木は冬でも青々としており、土地は肥沃で、水(河川・湖沼・湿地)が多く陸地は少ない。鸕鷀(鵜)の首に小さな輪をかけ、水に入って魚を捕らえさせ、一日に百余の魚を得る(鵜飼い)。食器は皿がなく、カシワの葉を代わりに用い、手づかみで食べる。人々の性格は質朴で素直であり、雅な雰囲気がある。

蛮夷ではありますが、なかなか良い国のようです。気候温暖云々は、魏志倭人伝で南国らしく記述されていたのが残ったものでしょうか。魏志では籩豆(たかつき)があったようですが、カシワの葉を用いたりもしたようです。箸はまだ普及せず、手づかみです。

鵜飼いは古くから存在した漁法で、5世紀末から6世紀初めに築造された群馬県の保渡田古墳群では鵜飼いで使われる鵜の埴輪が出土しています。魏志倭人伝では報告されていないので、その後に出現したのでしょうか。チャイナでは965年の『清異録』に安徽省の漁民が鵜飼いを行うとあるのが記録上の初出で、倭国より新しくなります。倭国からチャイナへ伝わったのか、より古くからチャイナにあって倭国へ伝わったのか、別々に発明されたのか判然としません。なんらかの関係はあると思います。

婚姻

女多男少、婚嫁不取同姓、男女相悅者即為婚。婦入夫家、必先跨犬、乃與夫相見。婦人不淫妬。
女が多く男は少なく、嫁は同姓の家から娶らない(同姓不婚)が、男女が互いに悦びあうと結婚したとみなす。妻が夫の家に入る時は、必ず先に犬をまたいでから夫にまみえる。婦人は淫乱でなく、嫉妬しない。

「女多男少」は後漢書が筆のすさびで生み出したファンタジーですが、同姓不婚は儒教圏の伝統であり、結婚して「姓を変える」など蛮夷の行いです。鮮卑姓を漢姓に変えたタブガチュ(北魏・隋唐)に言えた義理はありませんし、いとこ婚や異母兄弟姉妹婚はよくあることですが。儒教的にはちょっとアレですが、野合もとい恋愛結婚もあったようです(歌垣とかしますし)。

犬をまたぐ風習は『北史』では「をまたぐ」としており、どちらが正しいかわかりません。ただ犬は大勢子を生むから多産の象徴かも知れませんし、火をまたぐと火がケガレるとか言われそうです。

喪儀

死者斂以棺槨、親賓就屍歌舞、妻子兄弟以白布製服。貴人三年殯於外、庶人卜日而瘞。及葬、置屍船上、陸地牽之、或以小輿。
死者は棺と槨におさめ(斂)、親しい賓客は屍体の傍らで歌舞し、妻子や兄弟は白布で喪服を作る。死者が貴人であれば、遺族は三年間家の外で殯(服喪)し、庶人であれば(葬儀に適した)日を占って埋葬(瘞)する。葬儀に及んでは屍体を船の上に置き、これを陸地で牽引するか、小さな輿(こし)に載せて運ぶ。

魏志倭人伝では槨がありませんでしたが、ここではあります。棺をオヒガンへ渡る船とみなす思想は世界中にあり、古代エジプトの「クフ王の船」、中世ノルウェーの「オーセベリ船」もそのようなものだったでしょう。棺そのものを「フネ」と呼ぶ習俗もあります。倭国は水運・海運の盛んな地域であり、海の彼方や川の向こうに常世があるという思想は、受け入れられやすい考えだったでしょう。また祖霊は山に住むとも考えられました。

阿蘇山

有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禱祭。
阿蘇山があり、その石は故なく火を起こして天に接する。人々は異となし、このため祈祷して祭を行う。

唐突に阿蘇山が出てきます。「そらみろ!だから倭国、いやイ妥國は筑紫島に存在したはずだ!」落ち着いて下さい。どこにも阿蘇山の近くだけが倭国だなどとは書かれていません。だいたい隋の使者は竹斯國から東へ進んで倭国の都へと向かっており、阿蘇山の近くを通ってはいませんから、これは倭人からの伝聞に過ぎません。あるいは活火山ですから噴煙を吹き上げていたのが筑紫からも視えて驚いたのかも知れず、それを祀っていたのを見たのでしょう。倭人が阿蘇山だけを祀っていたとも書かれていません。

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如意寶珠

有如意寶珠、其色青、大如雞卵、夜則有光、云魚眼精也。
如意宝珠がある。その色は青く、大きさは鶏卵ほどあり、夜は光る。これは魚の眼精(目玉)であるという。

如意宝珠は仏教においてブッダや仏法の象徴とされますが、現世利益をもたらすとして信仰されました。なんだかよくわかりませんが、青くて光る宝珠というと、前に考察した糸魚川産のヒスイの勾玉でしょうか。5世紀から6世紀にかけて、朝鮮半島南部では倭地から多数のヒスイの勾玉が輸出されており、交易品として珍重されていたようです。

新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。
新羅、百済は、みな倭を多くの珍しい物を産出する大国とみなしており、ともにこれを敬い仰ぎ、常に使者が通じ往来している。

如意宝珠の話がこう繋がるわけです。もし倭国だかイ妥國だかが北部九州だけの小国だとしたら、百済や新羅が大国とみなしてくれるでしょうか。九州島全体の面積は3.67万km2で、現代の大韓民国は10万km2ほどです。それとも筑紫の倭王が日本列島を広く支配し、出雲や吉備やヤマトや毛野は筑紫に従っていたとでも言いたいのでしょうか。その状況は3世紀初めに卑彌呼が共立された時点で終わっています。現実を直視して下さい。

◆大◆

◆國◆

7世紀初頭の倭国は、このような感じです。次いで隋の煬帝の大業3年(605年)、再び倭国の使者が訪れ、翌年には隋から倭国へ使者が派遣されます。引き続き見ていきましょう。

【続く】

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