【つの版】倭国から日本へ27・天智天皇

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

663年8月末、白村江の戦いで唐軍に敗れた倭軍は半島から撤退し、各地に防衛施設を築いて厳戒態勢に入ります。唐はこの間に高句麗討伐を行い、668年にはついに高句麗を亡ぼしました。このような状況下で、中大兄皇子は皇太子のまま称制することをやめ、倭国の大王に即位します。天智天皇です。乙巳の変から20年以上権力の座にあり、40歳過ぎの壮年となっていました。

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天智天皇

日本書紀巻第廿七 天命開別天皇 天智天皇
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皇后は倭姫王といい、彼が粛清した古人大兄皇子の娘ですが、子はいませんでした。最初の妃である蘇我遠智娘は大田皇女、鸕野(うの)皇女、建皇子を産みましたが、遠智娘の父の一族は夫に滅ぼされ、遠智娘も悲嘆のあまり早世しています。建皇子は口がきけないまま8歳で薨去し、大田皇女は叔父の大海人皇子に嫁いで大来皇女と大津皇子を産みましたが、天智天皇即位前に薨去しました。大海人皇子は鸕野皇女と再婚します。天智天皇は他にも多くの妃や側室との間に子女を儲けています。

即位すると祝賀の儀式として百済・新羅・高句麗の使者を迎え、蝦夷を饗応します。高句麗の使者は日本海経由で越国に来ていますが、百済は滅んだので国内の百済人を使者に仕立てたのでしょう。対唐の厳戒態勢は解除せず、近江で軍事訓練を行い、各地に牧場を設けて軍馬を放牧させました。

新羅支援

新羅との外交関係は断絶せず、9月には大臣の金庾信あてに「朝貢用に」との名目で船1艘を贈っています。新羅としては百済・高句麗が滅亡した後も唐軍が半島に駐留し続けるのは不本意で、倭国と組んで唐軍を追い出す計画を練っていたようです。10月には高句麗滅亡の知らせが届きました。

11月、新羅の使者・金東厳に絹50匹、綿500斤、鞣し革100枚を託し、新羅王への贈り物とします。絹や綿はともかく鞣し革は革鎧の原料で、新羅に軍事支援を行うというアピールです。倭国からも送使が送られていますから、何らかの密談が行われたものと思われます。

なおこの年、沙門(僧)の道行という者が三種の神器のひとつ「草薙の剣」を盗み、新羅へ逃げようとした事件が起きます。彼は途中で風雨に遭って道に迷い戻ってきたため剣が国外へ出ることはありませんでしたが、本当なら倭国と新羅の信頼関係を揺るがす大事件です。

道行の素性は明らかでなく、新羅人かどうかもわかりません。当時の新羅が一応の敵国とはいえ反倭主義に凝り固まっていた様子はなく、倭国のレガリアを盗んで完全に敵に回すことで得られるメリットは新羅にも唐にもありません。考えられるとすれば、倭国と新羅を敵対させて倭国に再び出兵させようと企んだ、百済か高句麗の遺民という線でしょうか。幸い道行は失敗して事件はおさまり、彼の素性も政治的意図からか記録されず、個人的な犯罪として処理されました。なおこの頃草薙の剣は熱田神宮にあったはずですが、まだ宮中にあり、宮中から盗み出されたとする説もあります。

天智8年(669年)正月、蘇我赤兄を筑紫宰(大宰帥)に任命しました。有間皇子の謀反を唆して密告した人物ですが、このような重任を与えられるほどには信頼されていたようです。3月には耽羅(済州島)から王子らが遣わされ、五穀の種を与えました。百済・高句麗が唐に制圧され、新羅も唐の属国となっている以上、耽羅は数少ない倭国の同盟国です。地理的にも倭国と半島・大陸を結ぶ位置にあり、非常に重要です。

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8月、高安山に城を築くことを相談しましたが、人民が疲弊していることを哀れんでやめました。667年に既に築いているため拡張か修理の相談でしょう。この城は生駒山地南端、大和川が流れて奈良盆地と河内平野を結ぶ要衝に置かれました。倭京を防衛するための重要拠点です。

鎌足薨去

10月、内大臣の中臣鎌足が病気により56歳で薨去しました。鎌足は見舞いに来た天皇に「なんでも望みを言うがよい」と言われ、「生きては軍略でお役に立てず、死にあたってご厄介をかけるわけには参りません。どうか私の葬儀は簡素にして頂きたい」と遺言しました。天皇は彼に大織の冠と大臣の位を授け、藤原の氏を賜いましたが、その翌日に薨去したといいます。

鎌足の長男の真人は出家して定慧と号し、653年に入唐して玄奘の弟子に学び、665年に帰国しますが同年に若くして亡くなっています。次男の不比等はまだ10歳でしかありません。中臣氏の氏上(うじのかみ、氏族の長)は鎌足の娘婿の意美麻呂が継ぎ、藤原氏とは名乗らなかったようです。

冬、高安城を造って畿内の田税(穀物租税)を集め、防衛拠点としました。12月には大蔵や法隆寺で出火があり、何らかの陰謀を感じます。同年には河内鯨を唐へ派遣し、餘自信(自身)と鬼室集斯ら百済人の男女700余人を近江国蒲生郡に移住させました。この翌年、半島で事件が起きます。

海東反乱

『旧唐書』には詳しく書かれませんが、『新唐書』や『三国史記』によるとこうです。668年の高句麗の滅亡後、唐は遺民2万8000戸あまりを内地へ移住させ、江淮以南や涼州などに住まわせました。

総章3年(670年)、唐は吐谷渾復興を名分として吐蕃(チベット)を攻撃しますが、薛仁貴率いる唐軍が大非川で大敗を喫し、撤退します。これを好機として高句麗の大長・鉗牟岑が遺民を率いて反乱し、高藏(宝蔵王)の外孫という安舜(淵蓋蘇文の弟・浄土の子の安勝とも)を君主としました。新羅王の金法敏(文武王)はこれと手を結び、唐領に侵攻します。

唐は高侃と李謹行(靺鞨人)を派遣してこれを討伐させ、遺民を奪い返したので、安舜は鉗牟岑を殺して新羅へ亡命しました。新羅は安舜(安勝)らを迎え入れ、旧百済領の金馬渚(全羅北道益山市金馬面)に住まわせ、彼を高句麗王に冊立しました。さらに671年7月には旧百済領に攻め込んで82城を奪い、泗沘と熊津に迫ります。熊津都督の扶餘隆(旧百済太子)は現地に着任するのを拒んでおり、劉仁軌・劉仁願も帰国していたため、都督府は長史の難汗、司馬の禰軍により運営されていたといいます。

唐は薛仁貴を鶏林道総管として派遣しますが、10月に黄海で新羅海軍に撃退され、泗沘は新羅の手に落ちます。旧高句麗領では高句麗復興軍が平壌を一時占領しますが、安東都護の高侃や李謹行らに奪還され、反乱は次々と鎮圧されて行きます。しかし依然として予断を許さぬ状況でした。

近江令

日本書紀に戻ると、天智9年(670年)2月には戸籍を作り、近江国蒲生郡の日野を宮を造営する地と定め、高安城に穀物や塩を蓄えました。4月には法隆寺で火災があって全て焼け落ち、怪しい童謡や怪異が現れます。9月には阿曇頬垂を新羅に遣わしました。

天智10年(671年)正月、大友皇子太政大臣とし、蘇我赤兄を左大臣、中臣金を右大臣、蘇我果安・巨勢人・紀大人らを御史大夫としました。大友皇子は天智天皇と伊賀宅子娘の子で、年齢は24歳です。跡継ぎとしては太皇弟の大海人皇子がいますが、太政大臣という位につけたのは「大海人皇子を中継ぎとし、その次は大友皇子に」という天智の意志でしょうか。

この頃に礼法を定め、大海人皇子ないし大友皇子が詔して冠位・法度を施行したとあり、これを「近江令」と呼ぶことがあります。唐の律令制にならって法令を定めたものですが、まだ律(刑法)がないなど未完成で、実在したかも定かでありません。百済の遺民問題や国防問題もありますし、なんらかの法令集は作られた可能性はあります。

「法度冠位之名、具載於新律令也(法度、冠位の名は、詳しくは新しい律令にのせてある)」として略したのは、のちの大宝律令に引き写したのでそちらをご覧下さいという意味ですが、近江令を軽んじた扱いです。そして大海人皇子ないし大友皇子が発布したというのは、天皇が後継者としてどちらかを扱ったことを示します。どっちだったでしょうか。

またこの月に餘自信・鬼室集斯ら多くの百済人に冠位を授けました。4月25日には漏刻(水時計)を設置し、鐘鼓を鳴らして時刻を知らせました。半島での反乱に関しては言及されませんが、6月には「百済三部の使人が要請した軍事について宣言した」とあり、援軍要請があったようです。百済(の唐の鎮将)・新羅・高句麗(安勝か)からは変わらず使者が訪れていますが、唐使が来ていることから、新羅の反乱には関わらないことにしたようです。この頃に倭国のとった行動は、栗隈王を筑紫率にしただけです。

天智崩御

心労が祟ってか、9月頃天皇は病気に罹ります。病気治癒を祈願し10月には内裏で100体の仏像の開眼供養が行われ、法興寺(飛鳥寺)に袈裟・金鉢・象牙・沈香・栴檀や数々の宝を奉納しています。しかし病は癒えず、17日には東宮の大海人皇子を呼んで「後事を託す」と遺言しました。

これに対し東宮は「私は病気ですから」と何度も固辞し、「太后(皇后)に大業を授けられ、大友皇子に政を行わせて下さい。私は天皇のために出家します」と宣言します。天皇がこれを赦すと、東宮は内裏の仏殿の南で剃髪し僧形となり、天皇は袈裟を彼に送りました。19日、東宮は近江大津宮を出て吉野へ立ち去り、大臣たちは宇治まで見送ります。

11月10日、対馬から大宰府に連絡がありました。沙門の道久筑紫君薩野馬(さやま、白村江の戦いで捕虜となった)、韓島勝裟婆布師首磐ら4人が唐から遣わされ、伝言を預かって来たというのです。それは「唐の使者である郭務悰ら600人、送使である沙宅孫登1400人は、船47艘に乗って比知島(巨済島の南の比珍島)にいる。我らの数は多いから、防人が驚いて矢を射掛けるのを恐れる。よって道久ら4人を遣わし、前もって来朝の意を明らかにする」というのです。

平時の使者に2000人・47艘もは必要ありませんから、半島の反乱に対するための唐の軍勢でしょうか。倭国が積極的に何かしたわけではありませんが、新羅・百済・高句麗の使者が往来していますし、新羅へ多少の支援はしていますから、唐も警戒して脅しつけに来たのかも知れません。天皇が病臥している時に厄介なことになりましたが、2000人ぽっちで倭国が征服できるはずもなく、適切に対処してもてなせばすむことです。あるいは倭人の捕虜を返還しに来たともいいますが、それならその旨の報告があるはずです。

なお持統紀4年条にこうあります。「天智天皇の(即位)3年(670年)、土師富杼(はじの・ほど)・氷老(ひの・おゆ)・筑紫君薩夜麻・弓削元宝(ゆげの・げんほう)の子の4人は、唐人の計画を朝廷に伝えようと思ったが、着物も食糧もないため帰国できなかった。この時、大伴部博麻(おおともべの・はかま)という筑紫上八女郡出身の兵士が捕虜として長安におり、4人と相談して自らの身を奴隷として売却し、彼らの帰国の資金とした。博麻は30年近く唐にいたが、持統4年(690年)に新羅使に発見されて帰国できた」。しかし薩夜麻(薩野馬)以外の3人の名は全然別ですし、4人は唐の郭務悰らによって派遣されたのであって、唐から逃げ出して帰国したわけではありません。博麻の話は愛国心を鼓舞するための作り話でしょう。

11月23日、大友皇子は内裏西殿に掛けられたブッダの織物の前に6人の大臣たちと集まり、天皇の詔勅を心をひとつにして承ること、違背すれば神仏が罰することを誓いました。24日には大蔵省の倉から出火する変事がありましたが、29日に大友皇子らは天皇の前に集まって再び誓います。またこの日には新羅王への贈り物を使者に賜りました。

天智10年12月3日(西暦672年壬申1月7日)、天智天皇は近江大津宮で崩御しました。享年46歳。大友皇子が跡を継ぎます(弘文天皇)が、吉野の大海人皇子とその一派も皇位を狙って動き出します。「壬申の乱」の幕開けです。

◆内◆

◆戦◆

【続く】

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