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【つの版】倭の五王への道11・好太王碑

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

380年頃の状況を概観しましょう。チャイナでは秦が華北と四川(巴蜀)を統一し、東晋は風前の灯です。高句麗は秦を後ろ盾として仇敵百済と睨み合い、東南の小国・新羅(慶州)と手を組んで百済の背後を牽制します。倭国は海の彼方で頼りにならず、百済は危機的状況に陥っています。

◆侵略◆

◆SOS◆

淝水の戦い

西暦383年8月、秦の皇帝・苻堅は天下統一を図り、東晋への大規模な侵攻作戦を開始します。主力軍は河南省・安徽省を川沿いに進んで東晋の首都建康(南京)を目指し、別働隊は彭城(江蘇省徐州市)から南下し、また巴蜀と漢中からも東晋領に攻め込みました。東晋は謝安を征討大都督とし、謝安の弟の謝石、甥の謝玄を将軍として秦の主力軍を防ぎます。

10月、秦軍は寿春(安徽省淮南市寿県)を陥落させ、陣営を築いて東晋軍と睨み合います。11月、謝玄は将軍の劉牢之に秦の陣営を夜襲させ、将軍梁成を討ち取るなど大きな戦果を得ます。苻堅は寿春に入ったものの、東晋軍の士気が盛んなのを恐れ、川を挟んで睨み合います。

やがて謝玄は「我が軍が渡河して対岸で決着をつけよう。少し陣営を下げるがよい」と挑戦状を送り、苻堅は「敵が渡り切る前に川の中で叩けばよい」と考えてこれを受けました。11月の末、東晋軍が淝水を渡り始め、秦軍は僅かに後退します。ところが東晋からの降将で内通していた朱序が「我らの負けだ!撤退だ!」と背後でデマを叫び回ると(銅鑼や太鼓も打ち鳴らされたでしょう)、秦軍は後退の歯止めがかからず大混乱に陥り、そのまま総崩れとなってしまいます。大軍の弱点を見事に突いた策略です。

東晋軍は秦軍を散々に撃ち破り、苻堅は這々の体で長安まで逃げ延びます。この大敗で秦に服属していた諸集団は自立し、384年正月に東方で慕容垂が離反して燕を再建します(後燕)。また慕容暐の弟の慕容泓は長安で反乱し(西燕)、苻堅は羌族の姚萇によって385年8月に殺されます。苻氏の秦はほぼ滅亡し、西燕が東へ去ると姚萇が建てた後秦が陝西を占領します。さらに甘粛省西部では呂光が自立して涼国(後涼)を興し、386年には拓跋珪が内蒙のフフホト付近に代国を復興して、魏(北魏)と改称しました。

天下統一を目前としていた秦は空中分解し、華北はまたも群雄割拠の時代を迎えたのです。秦を後ろ盾としていた高句麗は仰天したことでしょう。東晋は勝利の勢いに乗じて河南・山東へ出兵しますが、慕容垂は秦の残党や東晋と戦いつつ勢力を広げていきます。

海東情勢

百済では384年4月に(近)仇首王が逝去し、子の枕流が跡を継いでいます。同年7月には東晋に朝貢し、9月には東晋から胡僧の摩羅難陀を迎えました。百済の仏教はこの時に始まったといいます。枕流は385年2月に漢山に仏寺を開きましたが、11月に在位2年で逝去しました。子の阿華が幼かったため、弟の辰斯(余暉)が跡を継ぎます。

高句麗では384年11月に王の丘夫(小獣林王)が逝去し、子がなかったため弟の伊連(於只支、故国壌王)が跡を継ぎました。385年6月、彼は華北の混乱に乗じて遼東郡と玄菟郡を占領しますが、慕容垂は息子の慕容農を派遣して撃退し、年内には高句麗を再び燕に服属させました。慕容農は389年まで遼西に駐屯し、遼東太守に龐淵を任命して防がせ、高句麗へ亡命した多数の流民を呼び戻しました。こうなると、高句麗の矛先は南へ向かいます。

太元十一年(386年)夏四月、以百濟王世子餘暉爲使持節、都督、鎮東將軍、百濟王。(晋書孝武帝紀)

386年4月、辰斯(暉)は東晋から使持節・都督・鎮東将軍・百済王に冊立されます。また『三国史記』ではこれに先立ち、15歳以上の人民を用いて青木嶺(開城付近)から海まで関防(長城)を築かせています。果たして8月には高句麗が攻め込んで来ましたが、撃退に成功しました。この年、高句麗王は子の安(談徳)を世子に立てました。

この頃、高句麗では飢饉が起き、外征の余裕がなくなります。これにつけこんで389年9月、390年9月と相次いで百済が攻め込み、高句麗南部の集落を襲い、200人を虜囚として連行します。百済の侵略に対抗するため、高句麗は391年春に新羅へ使者を派遣し、服属を迫りました。新羅王奈勿は甥の実聖を人質とし、高句麗・新羅の対百済同盟は強固なものとなりました。しかし高句麗王の伊連は5月に在位7年で逝去し、世子の安が18歳で即位しました。これが有名な好太王(広開土王、永楽太王)です。

好太王碑

高句麗の首都であった丸都城(中国吉林省通化市集安)には、好太王の子によって作られた陵墓と、業績を讃えた石碑「好太王碑」が現存します。碑文によれば「甲寅年九月廿九日乙酉」に作られたもので、王が逝去した2年後の西暦414年10月28日に当たります。欠落部分も多いですが、碑文の中に「倭」に関する文言が見えることから大いに論争を巻き起こしました。

とりあえず最初から読んでみましょう。

惟昔始祖鄒牟王之創基也。出自北夫餘、天帝之子。母河伯女郎、剖卵降出生子。有聖 □□□□□□命駕巡車南下、路由夫餘奄利大水。王臨津言曰我是皇天之子、母河伯女郎、鄒牟王。為我連葭。浮亀應聲即為連葭。浮亀然後造渡於沸流、穀忽本西城山上、而建都焉永樂世位。因遣黄龍來下迎王、王於忽本東岡、黄龍負昇天。顧命世子儒留王、以道興治大朱留王紹承基業。

その昔、始祖の鄒牟王が基を創った。出自は北夫余で、天帝の子。母は河伯の娘。卵を割って出生した。聖あり… 命じて駕し、車を巡らせて南下し、路によって夫余の奄利大水にいたる。王が渡し場に臨んで言うには、「我は皇天の子、母は河伯の娘、鄒牟王である。我が為に浮橋(連葭)となれ」。その声に応じて、浮亀がたちまち浮橋となった。それから沸流の川を渡って、穀忽本西城(高句麗本渓城)山上に都を建設し、王位永楽であった。よって黄龍が下り来たって王を迎え、王は忽本の東の岡において、黄龍の背に乗って昇天した。世子の儒留王が命を顧み、以って道興り治大きく、朱留王が基業を紹ぎ承けた。

これは高句麗の始祖伝説です。『魏書(北魏書)』高句麗伝、『梁書』諸夷伝高句驪条、『三国史記』高句麗本紀にも似たような話があります。興味深いですが、先へ進みます。

□至十七世孫國岡上廣開土境平安好太王。二九登祚、號為永樂太王。恩澤洽於皇天、威武柳被四海、掃除□□、庶寧其業。國富民殷、五穀豊熟、昊天不弔、卅有九晏駕棄國。以甲寅年九月廿九日乙酉、遷就山陵、於是立碑銘記勳績、以永後世。

それから17世の子孫が、國岡上廣開土境平安好太王である。二九(2×9=18歳)で登祚(即位)し、号して永楽太王という。恩沢は皇天に及び、威武は四海を被い、○○(悪者)を掃除し、庶民はその業に寧んじた。国は富み民は賑わい、五穀豊穣であったが、皇天は哀れまず、39歳にして国を棄て(亡くな)られた。甲寅年(414年)の9月29日乙酉、山陵に葬り、この碑を立てて勲績を銘記し、永く後世に伝えることとする。

『三国史記』では好太王を高句麗19代の王とし、第二代の瑠璃(儒留)王から数えて17代(12世代)ということにしています。ここまでが序文で、次から業績を記した部分です。

焉其辭曰:永樂五年、歳在乙未、王以碑麗不息、□人躬率往討。過富山負山至鹽水上、破其丘部洛六七百當、牛馬群羊不可稱數。於是旋駕、因過襄平道、東來候城、力城、北豊、五備猶。海遊觀土境、田獵而還。

しかして、その言葉にいう。永楽5年乙未(西暦395年)、王は碑麗を以て休ませず、自ら兵を率いて討伐した。富山・負山を過ぎて鹽水上に至り、その丘(三?)部落600から700當(戸?)を破り、牛馬や羊の群れを数え切れないほど捕獲した。また方向を転じて襄平道(遼陽へ向かう道)を過ぎ、東來候城、力城、北豊、五備猶を通って帰還した。

碑文では燕や東晋の元号を用いず、好太王の即位を元年とする「永楽」という独自の元号を用いています。碑麗はおそらく高句麗の北方にいた部族で、『晋書』四夷伝に「裨離國」とあり、西晋代に朝貢したことがあります。しかし「粛慎の西北、馬行200日ばかり、領戸2万」と甚だ誇張されており、他の地名も含めどこなのかはっきりしません。また契丹とも沃沮とも言われますが、ともかく王がどこかへ遠征して勝った記事です。そして、

百殘新羅、舊是屬民由來朝貢、而辛卯年來渡海破百殘、□□、新羅以為臣民。

百残(百済の蔑称)と新羅は、もと(高句麗の)属民であり、このため彼らは高句麗に朝貢していた。しかし、辛卯年(西暦391年)以来海を渡って百残(百済)・□□(加羅か)・新羅を破り、臣民と為した。

問題の部分です。北朝鮮や韓国では「我が朝鮮/韓に『倭』が攻め込んで『破り臣民とする』ことなどあってはならない!」ということで、破・為臣民を「同じ朝鮮/韓民族の」高句麗によるものだとしています。民族主義歴史学を信奉する気持ちはわかりますが、これは高句麗王の功績を讃える文章ですので、仇敵の百済や属国の新羅を庇い立てする義理もありません。

1972年には李進熙という在日コリアンの方が「朝鮮半島を支配するのに都合がいいよう日本人によって石碑に石灰が塗られ、碑文が改竄された」と唱えて議論を呼びましたが、詳しい調査の結果、そうした改竄はなかったことが判明しています。こういう論を検証するのも意義のあることですね。

先へ進んでみましょう。

以六年丙申、王躬率水軍討科殘國軍□□。首攻取壹八城、臼模盧城、各模盧城、幹□利城、□□城、閣彌城、牟盧城、彌沙城、□舍鳥城、阿旦城、古利城、□利城、雜彌城、奧利城、勾牟城、古模耶羅城、頁□城、□□城、分而能羅城、場城、於利城、農賣城、豆奴城、沸□□利城、彌鄒城、也利城、大山韓城、掃加城、敦拔城、□□□城、 婁實城、散那城、□婁城、細城、牟婁城、弓婁城、蘇灰城、燕婁城、柝支利城、巖門至城、林城、□□城、□□城、□利城、就鄒城、□拔城、古牟婁城、閨奴城、貫奴城、豐穰城、□城、儒□羅城、仇天城、□□□□□其國城。賊不服氣、敢出百戰。王威赫怒、渡阿利水、遣刺迫城、橫□侵穴□便國城。百殘王困逼、獻出男女生白一千人、細布千匝、歸王自誓、從今以後、永為奴客。太王恩赦先迷之御、録其後順之誠。於是得五十八城、村七百。將殘王弟並大臣十人、旋師還都。

永楽6年丙申(西暦397年)、王は自ら水軍を率いて百残(百済)を討伐した。多数の城(集落)を攻め取ったが、賊(百済)は服属せず、敢えて出撃して来た。王は激怒し、阿利水(漢江)を渡って(百済の)首都に迫り、横穴を掘って攻め立てた。百残(百済)王は困って逼迫し、男女の生白(奴隷)千人、細布千匝を献上して王に帰伏し、自ら「今後は永遠に奴客(しもべ)となります」と誓った。太王は先の(百済の)血迷った行為を恩赦し、従順になってからの誠意を記録した。ここにおいて58城、村700を獲得し、[百]残(百済)王の弟ならびに大臣10人を引き連れて、軍を巡らして都(丸都)に帰還した。

高句麗の大勝利です。しかし百済が既に高句麗の臣民となっていたならば、高句麗の攻撃を受ける理由はありません。前後の文脈からして、辛卯年に百済や新羅が倭国の臣民だか同盟国だかになったというのは、永楽6年の戦功の前置きであって、これがなければ文脈が繋がりません。「高句麗の属国を、倭が不当にも破り臣民にしたから、高句麗王自ら兵を率いて出征した。まず百残(百済)を撃ち破り、再び服属させた」となるはずです。

碑文は高句麗側の大本営発表ですから、支配層の出自が同じとはいえ激しく敵対していた百済を「高句麗の属民」とするなど、誇張や嘘はあります。しかし百済と倭国が手を組んでいたのは、考古学上も歴史上も裏付けがあります。高句麗が地続きの百済や新羅を攻めるのに渡海するはずもなく(水軍は率いていますが各地の城を陥落させています)、倭が井上英雄氏のいうような「半島南部の倭人」なら渡海の必要もありません。百済が公的な外交関係を結び、高句麗が「百済・加羅・新羅を臣民とした」と(戦績を誇るため)強敵として表現する存在が、九州だけの小勢力だとは思えません。

つまり、ヤマト(佐紀か河内)の倭王を盟主に頂く倭国連合の軍隊が、大挙して攻め込んで来たと見なければ辻褄が合わないのです。かつ倭人の侵攻はこれで終わりではなく、碑文にもまだまだ出て来ますし、倭王がチャイナの皇帝に対して使者を派遣し、半島南部諸国に対する権威を承認するよう求めるにまで及びます。

三国史記での描写

『三国史記』を見てみると、好太王は碑文とは異なり、即位の年から百済と激しく戦っています。

秋七月、南伐百濟、拔十城。九月、北伐契丹、虜男女五百口。又招諭本國陷沒民口一萬而歸。冬十月、攻陷百濟關彌城。其城四面峭絶、海水環繞、王分軍七道、攻撃二十日、乃拔。二年(392年)秋八月、百濟侵南邊、命將拒之。創九寺於平壤。三年(393年)秋七月、百濟來侵。王率精騎五千、逆撃敗之、餘寇夜走。八月、築國南七城、以備百濟之寇。四年(394年)秋八月、王與百濟戰於水之上、大敗之、虜獲八千餘級。

確かに、水軍を率いて百済と戦っていますね。好太王碑文でもそうですし、やはり高句麗軍は渡海して百済を攻めたのでしょうか。しかし肝心の在位5年から6年にかけては記録がなく、在位9年まで空白があります。倭についても一言も言及がありません。

では、新羅本紀はどうでしょう。当時の新羅王は奈勿です。391年に相当する36年には何もなく、37年には前述のように高句麗に人質を送っています。

三十八年夏五月、倭人來圍金城、五日不解。將士皆請出戰。王曰、今賊棄舟深入、在於死地。鋒不可當。乃閉城門、賊無功而退、王先遣勇騎二百、遮其歸路。又遣歩卒一千、追於獨山、夾撃大敗之、殺獲甚衆。

38年(西暦393年)夏5月、倭人が金城(慶州)を包囲し、5日間解けなかった。将兵はみな出て戦うことを王に願ったが、王は「いま賊は船を捨てて敵地に深入りしており、死地にある。鋒先に当たるべきではない」と答えた。そして城門を閉め、賊が功なく退却する時、王は勇敢な騎兵200を先に派遣して帰路を遮らせた。さらに歩兵1000を送って独山へ追撃させ、挟み撃ちにしてこれを大いに撃ち破り、殺したり虜囚にした者は甚だ多かった。

なんと、新羅は倭人を打ち破っています。この先の記事にも倭人の倭の字もなく、倭人問題は解決したようです。それなら、百済はどうでしょう。

七年春正月、重修宮室、穿池造山。以養奇禽異卉。夏四月、靺鞨攻陷北鄙赤城。秋七月、獵國西大島。王親射鹿。八月、又獵橫岳之西。

391年にあたる辰斯王7年には、「靺鞨」が北辺を攻めた以外は何もありません。宮殿を改築して豪華にしたとか、狩猟に行って鹿を射たとか呑気な話です。倭人の倭の字もありません。

八年夏五月丁卯朔、日有食之。秋七月、高句麗王談德、帥兵四萬、來攻北鄙、陷石硯等十餘城。王聞談德能用兵、不得出拒、漢水北諸部落多沒焉。冬十月、高句麗攻拔關彌城。王田於狗原、經旬不返。十一月、薨於狗原行宮。

392年にあたる辰斯王8年には、高句麗王の談徳(好太王)が攻め寄せています。冬10月、辰斯王は於狗原へ「田(狩猟)」に出かけますが、旬(10日)を経ても返らず、11月にそこの行宮(仮宮)で薨去しました。呑気な話ですが、高句麗に首都を追われたのでしょうか。そして、倭は出てきません。

日本書紀での描写

ならば、倭国(日本)側の記録はどうでしょうか。神功皇后摂政52年が西暦252年改め372年にあたるとすれば、神功はその17年後の摂政69年(269年改め389年)に崩御していますから、応神天皇(ホムダワケ)がようやく70歳で即位(270年→390年)したばかりです。wikisourceの日本書紀はなんか表示されない文字が多いので、下記をご参照下さい。

日本書紀巻第十 譽田天皇 應神天皇
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_10.html

元年春正月丁亥朔、皇太子卽位。是年也、太歲庚寅。

元年と二年は即位と皇后と子女、それらの系譜が並べられています。元年が庚寅なら、二年はまさに辛卯年ですが、遠征らしき記録は何もありません。しかし応神三年(西暦392年)に事件があります。

是歲、百濟辰斯王立之、失禮於貴國天皇。故遣紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰、嘖讓其无禮狀。由是、百濟國殺辰斯王以謝之、紀角宿禰等、便立阿華爲王而歸。

この年、百済の辰斯王が立ったが、貴国の天皇(倭国の大王?)に失礼であった。そこで紀角宿禰、羽田矢代宿禰、石川宿禰、木菟宿禰を遣わし、その無礼なありさまを責めた。このため、百済の国(の人々)は辰斯王を殺して謝罪し、紀角宿禰らは阿華を王に立てて帰った。

大変なことが起きました。百済の辰斯王の死の理由が書かれています。好太王碑文の記述より1年遅れていますが、倭国は百済を破って臣民とし、王の首をすげかえたのです。しかし、本当でしょうか。ひょっとして辰斯王は高句麗王に責められて殺され、後から倭国が「実はこうだ」と書いているだけではないでしょうか。『三国史記』の記述通りならそうですが、それならば好太王碑文の文言は何だと言うのでしょうか。

阿華王

ここで立てられた阿華は枕流王の子で、辰斯王の甥にあたります。『三国史記』では阿辛(草冠に辛)としますが、おそらく阿華が元の字で、辛や芳は華の誤記と思われます。年代的に、好太王碑文で高句麗に服従した百済王は阿華のはずです。392年11月に即位したのなら、その年が元年です。再び『三国史記』百済本紀を見てみましょう。

阿華王、或云阿芳、枕流王之元子。初生於漢城別宮、神光照夜、及壯志氣豪邁、好鷹馬。王薨時年少、故叔父辰斯繼位、八年薨、即位位。

二年春正月、謁東明廟。又祭天地於南壇、拜眞武爲左將、委以兵馬事。武、王之親舅、沈毅有大略、時人服之。秋八月、王謂武曰、關彌城者、我北鄙之襟要也。今爲高句麗所有、此寡人之所痛惜、而卿之所宜用心而雪恥也。遂謀將兵一萬、伐高句麗南鄙。武身先士卒、以冒矢石、意復石等五城、先圍關彌城。麗人城固守、武以糧道不繼、引而歸。

三年春二月、立元子腆支爲太子、大赦。拜庶弟洪爲内臣佐平。秋七月、與高句麗戰於水谷城下、敗績。太白晝見。

四年春二月、星孛于西北、二十日而滅。秋八月、王命左將眞武等、伐高句麗。麗王談德、親帥兵七千、陣於貝水之上拒戰。我軍大敗、死者八千人。冬十一月、王欲報貝水之役、親帥兵七千人。過漢水、次於靑木嶺下、會大雪、士卒多凍死。廻軍至漢山城、勞軍士。

在位2年目から4年目(西暦393-395年)にかけて、盛んに高句麗と戦っていますね。高句麗本紀にもある通りです。在位5年目は記録がありません。

六年夏五月、王與倭國結好、以太子腆支爲質。秋七月、大閲於漢水之南。

在位6年目(397年)、ついに倭国が出て来ました。しかも太子の腆支を人質にしたとあります。このことは日本書紀にも書かれています。

八年春三月、百濟人來朝。百濟記云「阿華王立旡禮於貴國、故奪我枕彌多禮・及峴南・支侵・谷那・東韓之地。是以、遣王子直支于天朝、以脩先王之好也。」(応神紀)

応神8年(丁酉、西暦397年)春3月、百済人が来朝した。『百済記』にいう。「阿華王は即位したが、貴国(倭国)に無礼であったため、我が(百済の)枕彌多禮・及峴南・支侵・谷那・東韓の地を(倭国に)奪われた。そこで王子の直支(腆支)を天朝(倭国)に遣わし、以て先王のよしみを修復させた」

日本書紀の引用なので、倭国を貴国やら天朝やらに書き換えており、あまり信頼がおけませんが、彼我の資料で百済の王子が倭国の人質として派遣されたことは確かめられます。腆支は実在の人物で、後に百済王となっており、『宋書』等に百済王余(腆の誤記)として現れます。

整理推察

一旦整理しましょう。西暦391年は辛卯で、永楽5年が乙未と碑文にありますから、好太王即位元年(永楽元年)にあたります。三国史記の高句麗本紀では、好太王は即位元年から4年まで百済と盛んに戦っており、百済本紀にも書かれていますが、好太王碑文では永楽5年乙未(395年)まで何の記録もなく、百済を攻撃したのは永楽6年です。

『三国史記』に記される功績が永楽元年から4年までにあったのなら、それを碑文に書かないのは道理に合いません。同時代史である好太王碑文を正しいとするなら、730年も後に編纂された『三国史記』の方が誤っているのです。もしくは意図的に年代を改め、不都合なことを隠しています。つまり、碑文に記された永楽5年から6年のことを繰り上げ、永楽元年から4年までに振り分けたのです(永楽元年9月の「北伐契丹」は、碑文における永楽5年の碑麗討伐にあたります)。永楽元年から4年まで、好太王碑文には何の功業も残されていません。剥落したのではなく最初から書かれていないのです。そして永楽元年にあたる辛卯年(391年)には、繰り返しますが「倭が渡海して云々」とあります。何があったのでしょうか。

◆悪魔◆

◆人間◆

【続く】

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