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【つの版】倭の五王への道14・倭讚

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

前回のあらすじ:高句麗は西の後燕、南の百済と2つの敵を抱えていましたが、後燕が内憂外患で混乱しているうちに遼東を奪いました。百済は倭国と手を組んで高句麗に対抗しますが、連合軍の足並みが揃わず敗北し、新羅は同盟を離脱してしまいます。宗主国の東晋も海の彼方で頼りにならず、崩壊しかかっています。百済の命運はどうなるのでしょうか。(コピペ)

◆Rising◆

◆讚◆

燕と高句麗

燕の慕容熙は暴君で、407年夏に殺害され、馮跋らによって慕容雲が擁立されました。彼はもと高句麗の王族で、慕容宝の養子になっていた人物でしたが、即位すると高姓に戻しました(晋書慕容雲載記)。高句麗にとっては同族を王に頂く国が隣にできたわけですから、燕との関係は劇的に好転しました。『三国史記』高句麗本紀によると、好太王17年(永楽18年、408年)3月に高句麗は燕へ使者を送り、宗族に叙したとあります。

しかし高雲は馮跋の傀儡に過ぎず、409年冬には殺害されて馮跋が跡を継ぎます。このことで高句麗との仲は悪化したものの、馮跋は善政を敷き、20年余り燕国を長らえさせました。北魏でも409年冬に拓跋珪が殺害され、子の拓跋嗣(明元帝)が跡を継ぎました。

国号は同じでも国姓が代わったことから、高雲以後を後燕ではなく「北燕」として分ける説があります。しかし勢力としては継続していますし、国号も変えていませんから、当時の人々からは普通に「燕」と呼ばれたようです。

ともあれ、高句麗は燕との関係が良好になったことから南へ目を向けます。好太王碑文にはこうあります。

十七年丁未、教遣歩騎五萬、□□□□□□□□□城□□合戰、斬殺湯盡所稚鎧鉀一萬餘領、軍資器械不可勝數。還破沙溝城、婁城、還住城、□□□□□□那□城。
永楽17年(407年)丁未、歩兵・騎兵5万を派遣し、……城…合戦し、敵を斬殺し尽くした。甲冑1万余領を獲得し、軍資・器械は数えきれないほどであった。還って沙溝城、婁城、還住城、□□□□□□那□城を破った。

どこへ派遣したかは欠落によりわかりませんが、407年には燕で政変が起きて高句麗との関係が好転していますから、燕を攻めるはずはありません。新羅は既に属国に戻りました。ならば百済でしょう。『三国史記』百済本紀の腆支王紀には高句麗侵攻の記述はありませんが、他に甲冑や軍資を所有していそうな国は高句麗の周辺にありません。『三国史記』高句麗本紀の好太王紀には、18年(永楽19年、409年)8月に王が南を巡ったとあります。

廿年庚戌、東夫餘、舊是鄒牟王屬民中叛不貢、王躬率往討、軍到餘城、而餘城國駢□□□□□□那□ □王恩晉虚。於是旋還。又其慕化隨官來者、味仇婁鴨盧、卑斯麻鴨盧、□立婁鴨盧、肅斯舍鴨盧、□□□鴨盧。
永楽20年(410年)庚戌、東夫余はもと鄒牟王の属民であったが、叛いて朝貢しなかったので、好太王は自ら兵を率いて征討した。軍が夫余の城に到ると、夫余の城国駢……那…王恩晉虚。ここにおいて兵を転じて帰還した。またその化を慕い官に随って来降してきた者は、味仇婁鴨盧、卑斯麻鴨盧、□立婁鴨盧、肅斯舍鴨盧、□□□鴨盧であった。

高句麗の同族である夫余(遼寧省鉄嶺市)も服属させました。東とあるのであるいは夫余本国ではなく、東の沃沮(咸鏡道)でしょうか。魏志東夷伝の頃から沃沮は高句麗に隷属し、朝貢していました。まあ遼東を征服しているので夫余も従ってはいたでしょう。これで高句麗の版図は吉林省・遼寧省の東半分、北朝鮮全土、韓国北東部に及び、南は新羅を属国とする大国として覇を唱えることになりました。百済は漢江を北の国境とします。

二十二年冬十月、王薨。號爲廣開土王。(三国史記)

永楽22年(412年)壬子冬10月、好太王は39歳の若さで薨去しました。諡号は廣開土王(国土を広く開いた王)、好太王碑文では「國岡上廣開土境平安好太王(国都の丘の上に葬られた、国土を広げ開き、国境を平安にした、よき大王)」といいます。好太王碑はまだ続きますが、墓守や地名のことばかりで倭とは特に関わりがないため、ここまでとします。

好太王の跡を継いだのは、18歳の太子・巨連(璉)でした。彼は西暦491年まで79年間も在位し、100歳近い(百余歳とも)長寿を保って薨去したため諡号を「長寿王」といいます。彼の即位と共に百済や倭国と和平が結ばれたようで、高句麗と倭国は一緒に使者を東晋へ派遣しています。

義熙遣使

すなわち、『晋書』安帝紀にこうあります。

義熙九年(413年)…是歳、高句麗、倭国、及西南夷銅頭大帥、并献方物。

高句麗と倭国はともかく、百済や新羅がありません。西南夷の銅頭大帥という謎の国が一緒に朝貢しています。新羅は小国だからとしても、百済王は東晋から冊立(任命)されたのに、今回来ていないのはなぜでしょう。ともあれ、これが西晋建国時の臺與以来147年ぶりに史書に記録された倭国の使者です。何を朝貢品として持ってきたでしょうか。

北宋の『太平御覧』巻981・香部麝条に「義熈起居注曰、『倭國、獻貂皮、人參等。詔賜細笙麝香』」とあります。倭国が貂(テン)の毛皮や人参(高麗人参)などを献上したので、東晋は細い笙(管楽器)と麝香を賜ったというのですが、倭国に貂(ホンドテンツシマテン)はいても高麗人参は産出しません。2つとも高句麗の主要産物です。原文では「高句麗、倭國、獻貂皮、人參等。詔賜細笙麝香」とあったのを、高句麗を省いたのでしょう。

ということは、使節の主体は高句麗で、倭国の使者はそれに従属する存在として連れて来られた形です。生口(奴隷)や虜囚として献上品に数えられないだけ慈悲がありますが、似たようなものです。要は高句麗が「遠く海の彼方の倭国の使者が、我が高句麗を介して天子様に朝貢したいと願い出たため連れて参りました」と口上を述べ、海東の大国ぶりを見せつけるための道具です。百済の使者を連れて来ていないのは、東晋に冊立された百済王にそこまでさせるのは東晋に失礼だからというのと、余計なことを言われて高句麗のメンツを潰されては困るからです。また百済の後ろ盾であった倭国にこのような扱いをすることで、間接的に百済を貶めてもいます。

ところで、高句麗が東晋に朝貢するのも今回が初めてです。東晋は下賜品を贈るだけでなく、高句麗王に冊立するのが筋合いですが、『晋書』には書かれていません。『宋書』夷蛮伝東夷に書かれています。

東夷高句驪國、今治漢之遼東郡。高句驪王高璉、晉安帝義熙九年、遣長史高翼奉表、獻赭白馬。以璉為使持節、都督營州諸軍事、征東將軍、高句驪王、樂浪公。

『三国史記』高句麗本紀の長寿王紀にもこうあります。

(長寿王)元年(413年、東晋義熙九年)、遣長史高翼入晉奉表、獻赭白馬。安帝封王、高句麗王、楽浪郡公。

貂皮、人參以外に赭白馬(紅白の馬)も献上したようですね。高句麗は東晋から冊立されています。弱体化甚だしい燕から冊立されても箔が付きませんし、華北を席捲する北魏は新興国で、まだ直接国境を接していません。海の彼方で、かつ歴史と伝統ある東晋を名目上の宗主国とすれば、国際的にも箔が付きます。しかし倭国は冊立を受けていません。

『日本書紀』応神紀には、この時のことではないかという伝説があります。

卅七年春二月戊午朔、遣阿知使主・都加使主於吳、令求縫工女。爰阿知使主等、渡高麗國、欲達于吳。則至高麗、更不知道路、乞知道者於高麗。高麗王、乃副久禮波・久禮志二人爲導者、由是得通吳。吳王於是、與工女兄媛・弟媛・吳織・穴織四婦女。
応神37年春2月1日、阿知使主都加使主を呉に遣わし、縫工女を求めさせた。ここに阿知使主らは高麗(こま)国に渡り呉(くれ)に達することを欲した。高麗に至ると、さらに道路を知らず、高麗に道を知る者を乞うた。そこで高麗王は久禮波・久禮志という二人を導き手として副え、呉に通じることができた。呉王は工女兄媛・弟媛・吳織・穴織の四婦女を与えた。

阿知使主(あちおみ)と都加使主(つかおみ)は応神20年に渡来帰化した「漢人(あやひと)」で、弁韓安羅(あら、あや)国の住民と思われます。応神16年乙巳が西暦405年とすると、応神20年は西暦409年。応神37年は426年ですから年代は合いませんが、チャイナの史書には他に「倭国が高麗国を介して呉(南朝)に使者を派遣した」記録はありません。不名誉な使者だったので年代をズラし、伝説めかして語ることでぼかしたのでしょう。

を倭訓で「くれ」と読むのは、秦を「はた(韓語で海[pada])」、漢を「あや(安羅)」、韓を「から(加羅)」と読むように、外来語や外国名を挟んでいるためです。高麗王が久禮波・久禮志という導き手を副えたから「くれ」と呼ぶのだというのは後付で、高句麗の「句麗」からでしょう。東晋に使いするなら百済を経ればいいのに高麗(高句麗)を経たというのは、漢江の北側が高句麗に抑えられていたからです。済州島から東シナ海を南西に進む道をとらず、黄海南道か遼東半島から海を渡って山東半島に向かったのでしょう。当時は東晋が南燕を滅ぼし山東を領有したばかりです。なお高句麗自体は「こま」と倭訓しますが、語源は定かでありません。

また『梁書』諸夷伝東夷諸戎倭条に「晉安帝時有倭王贊」、『南史』夷貊伝下東夷倭國条に「晉安帝時倭王讚遣使朝貢」とあり、この時の倭王が「贊(讚、讃)」であったとしますが、晋書や宋書にはないため定かではありません。後で触れます。

義熙12年丙辰(西暦416年)、負けじと百済は東晋へ単独で使者を派遣し、冊立を受けています。すなわち『宋書』夷蛮伝にこうあります。

義熙十二年、以百濟王餘映為使持節、都督百濟諸軍事、鎮東將軍、百濟王。

扶餘腆支、略して餘腆(余腆)として国書を送ったと思うのですが、現行の宋書では誤記されて餘になっています。梁の職貢図や梁書でも餘なので使者かチャイナ側が間違えたのでしょう。720年編纂の『日本書紀』に「直支」とあるからには扶餘映支ではないはずです。百済滅亡後に唐で編纂された『通典』では訂正され「義熙中、以百濟王夫餘腆為使持節、都督百濟諸軍事」となっています。『三国史記』百済本紀腆支王紀にこうあります。

十二年(腆支王12年、416年)、東晉安帝遣使冊命王爲使持節・都督百濟諸軍事・鎭東將軍・百濟王。

372年の餘句([近]肖古王)は鎮東将軍・領楽浪太守、386年の餘暉(辰斯王)は使持節・都督・鎮東将軍・百済王でしたから、都督に「百済諸軍事」が増えたぶん職域が明確になりましたが、領楽浪太守は高句麗王が楽浪公に封じられたこともあり消えています(餘暉の時からもうありません)。

また、高句麗王は東将軍、百済王は東将軍です。九品官人法によれば官吏は九つの(後にそれ以上の)品にランク分けされますが、征○将軍と鎮○将軍は共に三品でありつつ、征の方が鎮より高いとされます。百済の方が東晋に先に朝貢していたのに、国際社会では「高句麗に劣る国」と格付けされてしまいました。まあ単独で朝貢できない倭国や新羅よりはマシです。

晋宋革命

この頃、東晋は自力で意思表示もできない皇帝(安帝)をお飾りに頂き、実権は劉裕が握っていました。404年に桓玄を打倒し東晋を復活させた大功により、彼は鎮軍将軍・都督十六州諸軍事として軍権を掌握します。

孫恩の乱、桓玄の変で東晋は動揺し、統制が緩みました。405年、蜀で譙縦が反乱を起こして成都王を自称します(後蜀)。407年には陝西の後秦に服属して蜀王に封じられ、東晋に対抗しました。また南方の広東では、孫恩の後継者の盧循が広州刺史を追放して居座りましたが、東晋に使者を送って朝貢したため半自立政権として承認され、力を蓄えることになりました。

山東の南燕では405年に建国者慕容徳が逝去し、甥の慕容超が即位します。彼は後秦に服属し、409年2月に東晋国境を攻撃しました。劉裕は迎撃して北伐し、南燕の首都を包囲している隙に、広州の盧循が再び反乱して北上、東晋の首都建康を襲撃します。劉裕は410年2月に急いで南燕を滅ぼすと、とって返して盧循を撃ち破り、412年には荊州で反乱した劉毅を滅ぼし、413年に朱齢石を派遣して後蜀を平定、国内の対立勢力も粛清します。

高句麗(と倭国)の使者は、この時に東晋に来たわけです。当然劉裕の功績を讃え、ご機嫌伺いに来たに決まっています。ちょうど劉裕が南燕を滅ぼし山東半島が東晋領になりましたから、遼東・朝鮮に勢力を持つ高句麗にとってはすぐ対岸まで迫られており、機嫌をとっておくのにしくはありません。遅れて百済も朝貢し、百済王に冊立されています。

416年、後秦の名君姚興が死んで後継者争いが起きると、劉裕は8月から北伐を行い洛陽を奪還、功績により宋公の爵位を授けられます。417年には長安を陥落させて後秦を滅ぼしました。長安は418年に匈奴の夏国に奪われますが、劉裕は安帝を殺して同母弟の司馬徳文(恭帝)を擁立、宋王に爵位を進めた後、420年6月に禅譲を受けて宋(劉宋、南朝宋)の皇帝(高祖・武帝)となりました。その在位期間は3年に過ぎず、422年5月に崩御しますが、404年から数えれば18年の間政権を握っていました。

倭讚

さて、チャイナの王朝が代わったとなれば、周辺諸国は祝賀と関係締結のために朝貢使節を送らねばなりません。『宋書』夷蛮伝にあります。

高祖踐祚、詔曰「使持節、都督營州諸軍事、征東將軍、高句驪王、樂浪公璉、使持節、督百濟諸軍事、鎮東將軍、百濟王映、並執義海外、遠修貢職。惟新告始、宜荷國休、璉可征東大將軍、映可鎮東大將軍。持節、都督、王、公如故。」三年、加璉散騎常侍、增督平州諸軍事。
高祖(宋の武帝劉裕)が践祚すると(420年)詔して言った。「使持節・都督営州諸軍事・征東将軍・高句麗王・楽浪公の璉、(都)督百済諸軍事・鎮東将軍・百済王の映(腆)は、並びに義を海外に執り、遠路貢物を納めに来た。ここに新たな王朝が始まるにあたり、璉を征東大将軍、映を鎮東大将軍とする。持節、都督、王、公などの称号はもとのままとする」。永初3年(422年)、璉を散騎常侍とし、督平州諸軍事を増し加えた。

高句麗王と百済王の将軍号に「大」が着きましたが、国際的な序列はもとのままです。また高句麗王には官職が追加されていますが、百済王には何もありません。倭国についてはこう記されています。

倭國在高驪東南大海中、世修貢職。高祖永初二年、詔曰「倭讚萬里修貢、遠誠宜甄、可賜除授。」
倭国は高句麗の東南大海中に在り、世々朝貢してきた。高祖の永初2年(421年)、詔して言った。「倭讚は万里の彼方から貢物をおさめ、その遠くからの忠誠心はまことによろしい。叙勲して官位を授け賜うべし」

これだけです。『宋書』武帝紀には倭国の倭の字もないため、大したことではなかったのでしょう。また「可賜除授」とあるのに、どのような官職を受けたか省かれています。ただの倭王ないし倭国王でしょうか。臺與以来の親晋倭王の金印紫綬が残っていればいいのですが、特に言及されておらず、親宋倭王として冊立された様子もありません。

そもそも、倭讚とは誰なのでしょうか。彼はいわゆる「倭の五王」の最初のひとりですが、記紀に登場する上古天皇の誰にあたるのか、それとも誰にもあたらないのか、様々に議論があります。後で考えてみましょう。

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【続く】

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