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【つの版】倭国から日本へ11・開皇遣使

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

『日本書紀』によれば癸丑年(西暦593年)、倭国には蘇我氏の血を引く女性の大王・豊御食炊屋姫尊(推古天皇)が即位しました。彼女は蘇我馬子を引き続き大臣とし、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として政務を委ねました。この三人は倭国をどのように導いていくのでしょうか。

◆馬◆

◆厩◆

『古事記』は推古天皇の崩御で記述を終えていますが、継体以後の記述は極めて簡潔で、諡号・宮居・系譜・陵墓の他はほとんど何の事績も記されません。そこで『日本書紀』推古紀を見ていく…前に、チャイナの史書『隋書』にこの頃現れる倭国について見ることとします。

隋帝平陳

倭国の状況を見る前に、周辺諸国の様子を見てみましょう。

577年に北斉を滅ぼし華北・蜀を統一した北周は、581年に禅譲によって隋に代わります。589年、隋の高祖文帝・楊堅は陳を滅ぼし、西晋滅亡以来273年ぶりにチャイナの南北を統一しました。184年の黄巾の乱、189年の袁紹による宦官殺戮、董卓による漢の実権掌握からはちょうど400年になります。

隋の皇帝楊堅は漢風の姓名を持ち、後漢の名臣楊震の末裔と自称していますが、父の楊忠は普六茹という鮮卑の姓を持ち、字は鮮卑語で猛獣を意味する「揜于」でした。『隋書』文帝紀の系譜を見ても、楊震から8代孫の鉉までは名が伝わりません。ゆえに漢人か鮮卑人(胡人)か怪しいうえ、皇后の独孤伽羅は匈奴の王族である独孤(屠各)氏の末裔で、明らかに胡人と自認しています。彼女の姉妹らは北周の明帝宇文毓、唐の高祖李淵の父李昞にも嫁いでおり、鮮卑拓跋部の北魏から隋唐に至る北朝の支配層は鮮卑人や匈奴人、彼らと通婚した漢人で構成されていました。そのため突厥碑文では唐を北魏の後継政権とみなし「タブガチュ(拓跋)」と呼びます。7世紀の東ローマ帝国の文献でも隋や唐を「タウガス」と記します。

北の大国・突厥は582年に内紛によって東西に分裂していました。とはいえ建国以来東部は兄の土門、西部は弟の室点蜜の子孫がカガン(皇帝)の位を受け継いでおり、両者の対立を隋が煽って介入したようでもあります。この後も隋は盛んに突厥を煽って分断させ、南下の圧力を弱めました。

東西突厥帝国

海東三国

隋は秦漢魏晋に比べ面積的には縮まっており、遼東半島や朝鮮半島の郡県は高句麗や新羅が占領したままです。百済は帯方郡の故地に建国されたものの偶然か必然か南に押し込められ、旧馬韓南部の故地にいます。およそ現在の北朝鮮と遼東半島、吉林省南部が高句麗で、韓国の忠清南道及び全羅道が百済、済州島が耽羅、残りが新羅となっています。朝鮮民族や韓民族はまだおらず、各国とも濊人・韓人・漢人・倭人らが混ざりあった多民族国家です。

高句麗平原王(高陽成、高湯)が北周に朝貢して上開府・遼東郡公・遼東王に、隋が建国されると朝貢して大将軍・高麗王に冊立されています。589年に隋が天下を統一すると、大いに恐れて防備の体制を整え、しばしば辺境を侵略しました。隋が597年に使者を送って詰問すると王は恐れて陳謝し、同年に病死します。子の高元(平陽王・嬰陽王)は上開府・儀同三司・遼東郡公・高句麗王に冊立され、衣を賜りましたが、598年に靺鞨を率い遼西に侵攻したため隋の遠征を受けています。これについては後述します。『三国史記』では詰問されたのが遅いとして590年のこととし、同年に平原王が薨去したとしています。どちらが正しいかはわかりません。

其國東西二千里、南北千餘里。都於平壤城、亦曰長安城、東西六里、隨山屈曲、南臨貝水。復有國內城、漢城、並其都會之所、其國中呼為「三京」。與新羅每相侵奪、戰爭不息。

隋の1尺は29.6cm、1歩は6尺、1里は300歩ですから533mです。すなわち、この頃の高句麗は東西2000里(1066km)、南北1000余里(533km)、平壌城(長安城)・国内城(吉林省集安の丸都城)・漢城(ソウル)を「三京」とし、新羅と領土を争っていました。漢城は新羅から奪還したようですが、漢江の北岸を奪還しただけかも知れません。また西の国境である遼河の河口部から1066km東というと現ロシア沿海州のナホトカに達しますが、ソウルの漢江北岸から北に533kmというと吉林省白山市あたりまでで、吉林市や長春市は含まれません。このあたりには濊貊と靺鞨が混在し、粟末靺鞨と呼ばれていたようです。

百済も隋の建国時に朝貢し、王の余昌(威徳王)は上開府・帯方郡公・百済王に冊立されています。隋が陳を平定した589年、隋の軍船1隻が海を漂流して𨈭牟羅国(済州島)に漂着しました。百済はこれを迎えて隋へ帰還させ、あわせて陳を平定した事を祝賀する使節を派遣したため、喜んだ文帝から「毎年朝貢せずともよい」というお墨付きを頂いています。

其國東西四百五十里、南北九百餘里、南接新羅、北拒高麗。其都曰居拔城。

東西450里(240km)、南北900余里(480km)とありますが、南西の端であろう珍島から北へ480kmというと平壌付近、東へ240kmというと新羅領となった金海に及び、新羅の領土が慶尚北道だけになります。どうも百済は版図の里数を2倍誇張して報告しているようで、実際は東西225里(120km)・南北450里(240km)がせいぜいです。また北に高麗を拒むのはともかく、南には海と倭国と耽羅しかないため、接新羅ではなく接新羅の誤りでしょう。これは特に意図してのことではなく、単純な取り違えです。

新羅では579年に真平王(金真平)が即位し、大きく拡大した領土を維持管理するため中央や地方の官制を整備しています。また高句麗に対抗するため盛んに隋へ朝貢し、594年には上開府・楽浪郡公・新羅王に冊立されています。隋に「在高麗東南、居漢時樂浪之地」と報告したのでそうなったようですが、楽浪郡は高句麗の首都・平壌のことなので国際問題案件です。面積については記載がありませんが、「兼有沃沮、不耐、韓、獩之地」といいますから、鵜呑みにすれば東北は沃沮(咸鏡南道)まで及んでいたようです。

倭国の地理

それでは、いよいよ『隋書』東夷伝倭国条(隋書倭国伝)を見ていきます。魏志倭人伝以来の文量があり、なかなか詳しく記述されています。

この部分の「倭」の字を「[イ妥]」と書いている写本(汲古閣本)もあることから「これは倭国ではなく[イ妥]国だ」とか言う人もいますが、同じ『隋書』の本紀ではちゃんと「倭」になっていますし、『隋書』をほぼ丸写しした『北史』以外の史書ではみな「倭」なので、単なる誤記か異字に過ぎません。よくあることです。詳しくは下の記事を読んで下さい。隋書には他にも誤記と思われる表記がいくつかあり、『北史』などではこうした誤記が訂正されていたり、新たな誤記が増えていたりします。
倭國、在百濟・新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。魏時、譯通中國三十餘國、皆自稱王。夷人不知里數、但計以日、其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。
倭国は、百済・新羅の東南にあり、水陸3000里、大海中の山島に依って居する。魏(曹魏)の時、通訳(を介して使者を)中国に通じる国は30余国あり、みな王を自称していた(誤伝)。夷人は里数を知らず、ただ移動にかかった日数をもって距離を計るが、その国境は東西が五ヶ月、南北が三ヶ月の行程に相当し、(四方の国境の)各々は海に至る。その地勢は東が高く西が低い。邪靡(邪摩堆)に都しており、すなわち魏志にいうところの邪馬臺である。古書(後漢書)に「楽浪郡の境及び帯方郡を去ること、あわせて1万2000里。会稽の東に在り、儋耳(海南島)と相近い」という。

倭国の地理に関する総説です。1里533mとして3000里は約1600kmですが、当時の倭国の宮である奈良県明日香村から瀬戸内海を通って福岡市までは600kmほど、壱岐・対馬・耽羅(済州島)を経て百済の首都である泗沘(忠清南道扶餘郡)までは630kmほどで、合計1230kmにしかなりません。ただ黄海を横断して成山角までを加えればほぼ1600kmなので、「水陸三千里」はこのルートのことでしょう。釜山や金海は新羅領になっており、倭国から高句麗や新羅を経由せず百済を経て隋へ向かうには、これしかありません。

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東西南北の境はどうでしょうか。『唐六典』に「凡陸行之程、馬日七十里、歩及驢五十里、車三十里」とあります。1里533mとすると、1日の陸路の行程はおよそ馬で37km、徒歩やロバで27km、車で16kmとなります。1ヶ月を30日として、徒歩なら1500里(約800km)となり、南北は3ヶ月で4500里(2400km)、東西は5ヶ月で7500里(4000km)です。

とすると倭国は東西に長く南北に短い長方形になりますが、対馬を北端として真南へ2400kmだとフィリピン中部の東方沖になりますし、対馬から真東へ4000kmだと太平洋のど真ん中です。この時代の倭国の勢力圏は、東は宮城県仙台市、北は新潟県長岡市、南は鹿児島県、西は五島列島あたりまで及んでいますから、東西は仙台市から五島列島福江島までとして1700km、南北は長岡市から鹿児島県佐多岬までとして1500kmほどしかありません。

まあ倭国は大国と見せたいため誇大に言うでしょうし、この数字は当てになりませんが、東西に長く南北に短いとはおおよそ分かります。百済と同じく2倍に報告したとすれば、南北1200km東西2000kmでそれらしくはなります。なお9世紀の追儺祭文では、日本国の四至は「東が陸奥、北が佐渡、西が知訶島(五島列島)、南が土佐」としています。地図通りの東西南北ではなく、北陸道を北、南海道を南とみなしているのです。

ところで、隋書東夷伝百済条の末尾にはこのように書かれています。

其南海行三月、有𨈭牟羅國、南北千餘里、東西數百里、土多麞鹿、附庸於百濟。

𨈭牟羅國とは耽羅国、済州島です。扶餘郡から海路で済州島まで400km弱あり、3ヶ月もはかかりませんが、珍島からは100kmなので3日ならまだ分かります。6世紀初め頃に百済の属国となりました。南北1000余里(533km)、東西数百里とあるものの、済州島は東西80km、南北32kmほど。距離は誇張としても(九州より巨大です)、東西と南北が入れ替わっています。

だから東西五月行、南北三月行、各至於海とは南北に長い筑紫島に他ならない」という人がいますが、済州島の東西南北が入れ替わっていることと倭国の東西南北に何の関係があるというのでしょうか。筑紫島も日本列島も四方が海に囲まれています。「其地勢東高西下」にしたって、西の筑紫平野や熊本平野の東に英彦山や阿蘇山があると言うのであれば、畿内だって河内平野や奈良盆地の東に鈴鹿山地があります。伊都國までで留められた魏使とは違い、隋使は倭国の首都まで到達し、道中の地理を実際に見ています。魏志にいうような「会稽の東」のトリックを使う理由ももはやありません。

「都於邪靡、則魏志所謂邪馬臺者也」というのを「邪靡は邪靡の誤りだ、邪馬は邪馬だ」というのならば、『北史』には「邪摩堆」と書かれています。邪堆は邪堆の誤記で、『北史』が訂正したのです。

邪摩堆 中古音:yæ muɑ tuʌi 呉音:やまたい 漢音:やばたい

後で見る隋使の行路でも「竹斯(筑紫)国の東に秦王国があり、10余国を経て海岸に至る。竹斯国以東は、みな倭の附庸(属国)である」とあるのですから、魏の時の邪馬臺國が筑紫にあるはずがありません。○以東の以は○をも含みますから、竹斯国も倭(ヤマト)の属国です。これだと対馬や壱岐が倭から独立してしまいますが、当然この島々も倭の属国でしょう。海岸とは筑紫島の東端などではなく、瀬戸内海・大阪湾の東の河内の海岸です。

倭国の略史

漢光武時遣使入朝、自稱大夫。安帝時又遣使朝貢、謂之倭奴國。桓靈之間、其國大亂、遞相攻伐、歷年無主。有女子名卑彌呼、能以鬼道惑眾、於是國人共立為王。有男弟、佐卑彌理國。其王有侍婢千人、罕有見其面者、唯有男子二人給王飲食、通傳言語。其王有宮室樓觀、城柵皆持兵守衞、為法甚嚴。自魏至于齊梁代與中國相通。
漢の光武帝の時(西暦57年)、使者を遣して朝貢し、(使者は)大夫と自称した。安帝の時(107年)、また遣使朝貢し、倭奴国といった。桓帝・霊帝の間(146-189)にその国は大いに乱れ、互いに攻撃して長らく君主がいなかった。女子があり、名を卑彌呼といい、鬼道をもってよく衆を惑わしたので、国人は共立して王とした。男弟があり、卑弥(呼)が国を治めるのを助けた。その王(卑弥呼)は侍婢千人あり、その顔を見る者がなく、ただ男子二人だけが王に飲食を給し、言語を伝えた。その王は宮室・楼観があり、城柵はみな武器を持って守衛し、法は甚だ厳しかった。魏から南斉・梁に至るまで、代々中国と相通じた。

倭奴国王に後漢の光武帝より金印紫綬が授けられてから、帥升・卑彌呼らを経て梁に至るまでの倭の略史です。『隋書』『晋書』『梁書』『南史』『北史』は唐代初期に編纂されましたが、『漢書』『三国志』『後漢書』『宋書』『南斉書』などは全て隋代に閲覧可能であり、それらに記載された倭の状況も隋の史官であれば把握できます。問題は次です。

多利思

開皇二十年、倭王、姓阿毎、字多利思北孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言「倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云『委我弟』」。高祖曰「此太無義理。」於是訓令改之。
開皇二十年(600年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩雞彌が、使者を遣わして宮廷に詣らせた。上(おかみ、隋の高祖文帝楊堅)は役人にその風俗を尋ねさせた。使者は「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟とします。天が未だ明けない時に出て聴政し、跏趺坐(あぐら)し、日が昇れば政務を停め、『我が弟に委ねよう』といいます」と答えた。高祖は「これは甚だ道理のないことだ」と申され、訓令してこれを改めさせた。

西暦600年、倭王から120年ぶりにチャイナの王朝へ使者が派遣されました。何を朝貢したかは記されませんが、手土産に何か持って来なければ門前払いされますから何かは持って来たでしょう。阿毎多利思北孤・阿輩雞彌とかいう蛮夷丸出しの名の倭王の使者は、天子である隋の皇帝に対して蛮夷らしくおかしな世界観を語り、「倭王は天を兄とし日を弟とし、日が昇れば政務を停めます」とかぬかします。天子は呆れて改めるよう訓令を下しました。

『隋書』高祖文帝紀には「(開皇)二十年春正月辛酉朔、上在仁壽宮。突厥、高麗、契丹並遣使貢方物」とあり、突厥・高句麗・契丹が朝貢したとあっても倭国が朝貢したとはありません。魏志や晋書でも東夷伝にある倭国の朝貢が本紀で省かれたりしましたから、重要視されなかったのでしょう。

多利思北孤は『北史』では多利思孤となっており、倭語の「タリシピコ」ないし「タラシピコ」であろうと思われます。阿毎は「アマ/アメ(天)」、阿輩雞彌は「アパキミ(おほきみ)」でしょうから、「あめたらしひこ・おほきみ(天足彦大王)」という倭王の称号と解釈されています。各々の漢字の中古音(隋唐代の陝西付近での漢字音)はこうです。

阿毎    ʔɑ muʌiX
多利思比孤 ta liɪH sɨ piɪX kuo
阿輩鶏彌  ʔɑ puʌiH kei miᴇ

孝安天皇の和風諡号が日本足彦国押人、景行天皇が大足彦忍代別、成務天皇が稚足彦、仲哀天皇が、神功皇后が気長足姫ですから古くからあったように見えますが、応神天皇(誉田別)から推古天皇(豊御食炊屋姫)まではタラシヒコ・タラシヒメの称号が見えません。推古の次の舒明天皇(息長日広額)、皇極天皇(天豊財重日足姫)とあるのを最後に天皇の和風諡号からは消えます。実際は短期間に使用された称号で、雄略以来の「治天下大王」を倭語で翻訳した読みのひとつかも知れません。神功以前のタラシの号は例によって後付でしょう。

「治」は「おさめる、しらす(知らす)、しろしめす(知ろし食す)」などと読みますが、漢字としては「耜(すき)で水(川)をおさめる」の意で、工事による治水のことです。現在は「治天下大王」を「あめがした・しろしめす・おほきみ」と読みますが、「あめ(天の)たらし(下を治める)[ひこ(高貴な男性の)]おほきみ(大王)」と読めなくもありません。

ただ問題は、西暦600年の倭国には『日本書紀』によれば推古天皇という女帝(女王)が在位していたのに、『隋書』における阿毎多利思比孤・阿輩雞彌は「比孤」、男性であるかのように記されています。じゃあ多利思比孤は『日本書紀』における誰なのでしょうか。蘇我馬子や厩戸皇子を男王として紹介したのか、推古が女王だと紹介するとナメられるから男と偽ったのか(これが一番穏当なところです)、あるいは『日本書紀』の記述や年代がデタラメで、この時男王が在位していたのか、ヤマトとは別の王なのか、論争は続いています。とりあえず今は保留し、先へ読み進んで行きましょう。

◆Who Are You◆

◆Who◆

【続く】

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三宅つの
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