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【つの版】徐福伝説03・徐州琅邪

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

徐巿/徐福は斉人の方士(魔術師)で、斉の領内であった琅邪にいました。斉に方士が多くいたのは田斉が天下から招き寄せたためですが、徐巿はどこから来たのでしょうか。斉の首都・臨淄にいないということは、古くから琅邪に住んでいたのでしょうか。

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徐氏源流

「徐(じょ、上古音 sə.la)」という字は、彳(てき)=「」と「」から成ります。「行」はもと十字路の形で(辻は日本での造字)、道や歩行、脚の動作に関わる字であることを表す部首です。「余」とは甲骨文まで遡れば取っ手のついた農具や刃物、すなわちショベルやスコップを表します。

余を用いて土を掘り、掻き分け取り除いて盛り土(阜、おか)を造るのを「除(のぞく)」といいます。泥土を余で掘るのを「塗(と、ぬる)」といい、土を掘って造られる溝や道路を「途(と、みち)」といいます。余を手に持って道を造り、農地に水を広げるさまを「叙(じょ、ひろげる、舒)」といい、食物が山積みで豊かなさまを「餘(よ、あまる)」といいます。「徐」は「緩やかに進む(徐行)」ことを表しますが、これは行く道に余裕(餘裕)があって、ゆっくり進んでも大丈夫な有様です。

『史記』秦本紀によると、徐氏は五帝のひとり黄帝の孫、顓頊に遡ります。顓頊の孫娘を女修といい、機織りをしていると玄鳥が卵を落としたので、彼女がこれを呑むと妊娠し、大業という子を産みました(殷の契と同じ始祖伝説です)。大業は少典の娘の女華を娶り、大費を儲けます。

彼は五帝の最後の虞舜に仕え、鳥獣を飼い慣らし、天下の治水を行った(夏王朝の祖)に協力しました。その功績を舜と禹から賞賛され、玄圭と柏翳(伯益)の称号及び(えい)の姓を賜り、姚姓の妻を娶りました。嬴とは盈(満ちる)の意で、月の満ち欠けを嬴縮といいます。もとは封地名で、山東省済南市萊蕪区に嬴邑があったと伝えられます。

書経禹貢によれば禹は天下を九州にわけ、東は海、南は淮河、西は大澤(沼沢地)、北は泰山(岱)に至る領域を「徐州」と名付けました。

海岱及淮惟徐州。淮沂其乂、蒙羽其藝、大野既豬、東原厎平。厥土赤埴墳、草木漸包。厥田惟上中、厥賦中中。厥貢惟土五色、羽畎夏翟、嶧陽孤桐、泗濱浮磬、淮夷蠙珠暨魚。厥篚玄纖、縞。浮于淮、泗、達于河。

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伯益の子は二人おり、兄を大廉、弟を若木と言いました。それぞれの子孫は諸侯に封じられて封地名を氏とし、大廉の子孫は西方に広がって鳥俗氏、蜚廉氏、趙氏、秦氏(秦の王室)となり、若木の子孫は東方に広がって費氏、徐氏、郯氏、莒氏、終黎(鍾離)氏、運奄氏、菟裘氏、將梁氏、黄氏、江氏、脩魚氏、白冥氏となったといいます。徐国は若木が封建された地で、現在の山東省東南部、臨沂市の郯城県にあったとされます。実態はどうあれ、これらの氏族は神話上の共通祖先を戴く同族とみなされました。

郯城県のすぐ北西に蘭陵県があります。北斉の皇族・高長恭は徐州蘭陵郡に封じられ蘭陵王となったのですから、FGOで徐福ちゃんと蘭陵王が組んでたのはそういうことなのでしょう。

若木の玄孫を費昌といい、夏の末期の桀王の時に夏王朝を見限り、商(殷)の湯王に仕えました。湯は彼を御者に任命し、桀王を鳴條で破って天下の王になったといいます。一方で大廉の玄孫は孟戲中衍といい、鳥身で人語を解する異形でしたが、商の中宗太戊の時に御者となりました。

孟戲中衍の玄孫の中潏は西戎の地に住み、蜚廉を儲けます。彼は足が早く、各地へ飛脚として派遣されました。その子は怪力で知られる悪来と季勝ですが、殷周革命の時に悪来は殺され、北方へ使いに出ていた蜚廉は殷の紂王に殉死して、山西省の霍太山に葬られたといいます。

夏王朝は『史記』によれば14世17代471年続いたはずですが、初代の禹王に仕えた伯益の玄孫の子である費昌が桀王の時に生きています。費昌と同世代のはずの孟戲中衍は、成湯の玄孫の中宗太戊に仕えており、その玄孫の子は殷の紂王に仕えています。神代に近いとはいえ長生き過ぎます。大廉や孟戲中衍や蜚廉は風神の飛廉を人間化した存在のようですが、たぶん系譜や年代が後から継ぎ足されたため、調整ミスでこうしたことになったのでしょう。よくあることです。明代の神怪小説『封神演義』では殷の側に東海の神仙や妖怪変化が味方し、周に味方する崑崙山の仙人と戦いますが、古くから東方の神々が殷に味方したと語られてはいたわけです。

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三監之乱

殷周革命の後、周の武王は紂王の子の武庚禄父を殷の旧都(河南省安陽市付近)に封建し、殷の遺民を治めさせました。また武王の弟である管叔鮮・蔡叔度・霍叔処らをその周囲に封建して「三監」とし、武庚を輔佐させると共に殷の遺民が反乱を起こさぬよう監視させました。しかし長年殷を盟主としてきた東方諸国にとって、西の彼方の周は縁遠い存在でした。

武王は革命から数年で薨去し、子の誦(成王)が即位して、武王の弟の周公旦が執政にあたります。これを好機として武庚は殷の遺民を率い、東方諸侯と手を組んで周に反乱しました。三監も周公旦への反発心から彼に味方したとされますが、逆に三監は武庚に殺されたとの記録もあります。河南省東部から山東省の諸部族(東夷)、淮河流域の諸部族(淮夷)が武庚側につき、その中には徐国も含まれていました。

『禮記』には徐君が「先君駒王、西討濟於河」と言ったとあり、周の成王の時に徐の駒王が反乱を起こし、西方へ進軍したことを言うとされます。周公旦はこれら東夷の反乱を鎮圧すると、自らの子を泰山の南(曲阜)に封じて魯国を立て、泰山の北の斉(臨淄)に功臣の太公望を封じて東夷を鎮めさせました。徐国は滅ぼされることなく東に割拠し、魯や斉と対立します。

徐之偃王

季勝の玄孫の子を造父といい、周の第5代の王(武王の玄孫)である穆王(紀元前10世紀初め)に仕えました。穆王は造父を御者とし、四頭の駿馬を馬車に繋いで西方へ赴き、西王母と会見して楽しみ、帰ることを忘れました。この時、東方の徐の偃王が乱を起こしたので、穆王は造父の御する馬車に載り、一日に千里を駆けて戻り、乱を鎮めました。この功績により造父は趙の地に封じられ、その一族は趙氏を名乗ったといいます。

また秦の王室の先祖は季勝の兄悪来の子孫で、趙氏・嬴姓だとされますが、これは秦が隣国の趙と同族だと主張し、後から系譜を繋ぎ合わせたのでしょう。趙も下剋上で晋から自立したため、東方の嬴姓諸族の系譜を借りてきて始祖神話を作り上げたのでしょう。嬴姓諸族の始祖神話も殷商や燕国からの借り物ですが、少なくとも趙や秦よりは古そうです。

『詩経』大雅の「常武」には、周の穆王の軍勢が「徐方」を討伐したと歌われています。徐の偃王が周に背いたというのはこれでしょう。方とは方国、地方の諸侯国を言います。後世の『韓非子』では、徐の偃王は32の諸侯国を従えていたと伝えています。偃王は穆王が西方へ出ている隙に勢力を強め、東夷諸侯を糾合して周に攻め込んだわけです。

周はの軍勢を派遣して徐を打ち破り、偃王は南の彭城(江蘇省徐州市)へ逃亡し、隠居しました。周は彼の子孫を徐に封じて子爵を与え、引き続き徐国を統治させたといいます。楚は長江流域の大国ですが、彭の同族ともされますから、古くは淮河流域にいたのでしょうか。

徐国滅亡

やがて安徽・江西の一帯には「群舒」と呼ばれる勢力が現れますが、これも徐や東夷の一派だとされます。

『春秋左氏伝』等によれば呉王闔閭3年(西暦紀元前512年)、呉国は徐国と鍾吾国へ使者を遣わし、亡命していた呉の公子の掩余と燭庸を返還するよう要請しました。闔閭は従兄の僚を暗殺して王位を奪っており、その弟たちが国外へ逃亡して反撃の機会を狙っていたのです。この徐国は山東省ではなく安徽省宿州市泗県にあり、鍾吾国は江蘇省徐州市にありました。

泗(し)とは淮河の支流で、多数の河川が交錯する沼沢地でした。漢の劉邦は泗上という田舎町の亭長(警察官)でしたし、泗県の西隣の霊璧県では項羽が最後を迎えた「垓下の戦い」が行われ、虞美人の墓があります。FGOの徐福ちゃんが虞美人の強火担当なのはそうした繋がりでしょうか。

両国は小国でしたが、呉の敵国である楚を後ろ盾としており、闔閭の要請を拒みました。しかし公子らはこのような小国にいては危ないと考え、楚の本国へ遷って楚王を頼り、対呉の最前線の将軍に任じられます。怒った闔閭は名将の伍子胥や孫武を派遣して徐国と鍾吾国を討伐させ、滅ぼしました。

(南の)徐国は滅びましたが、臨沂の徐国は細々と存続していたようです。また徐の地名や氏も長く残り、戦国時代に禹貢九州説が唱えられると「徐州」がこの一帯を指すほどになりました。『呂氏春秋』に「泗上を徐州と為す。魯なり」とあり、『爾雅』には「済東を徐州という」とあります。漢代以後も徐州の区分は続き、江蘇省徐州市に名を残しています。

琅邪争奪

徐氏の由来はわかりました。では徐福が始皇帝と面会した琅邪(琅琊、ろうや)はどうでしょうか。古くからある地名で、春秋時代に斉(姜斉)が琅邪邑を設置したといいますが、語源も定かでありません。字を見るならば、琅は良い宝玉をいい、邪は牙のように曲がった(不整形の)邑(城壁)を原義としますが、まさか牙のように曲がった玉…勾玉をいうのでしょうか。

さておき、琅邪は臨沂の東北、海に面した青島市の黄島区にありました。チンタオと言えばビールで有名ですが、海に面し膠州湾を擁する天然の良港として古来栄えました。19世紀末にはドイツがこの地に租借地を獲得し、第一次世界大戦の時に日本が英国と組んでこれを攻め取ったことでも有名です。

そのような要衝の地ですから、古くから琅邪は諸国に争奪されてきました。まず春秋時代に覇者となった斉(姜斉)の桓公(在位:前685-前643)が「東遊して南の琅邪に至った」と『管子』にあり、『孟子』には「斉の景公(在位:前547-前490)は海を遵守しようとして南へ向かい、琅邪に放逐された」とあります。彼の時代は晏嬰・司馬穰苴が輔佐となり、孔子も斉に仕えようとしたほど栄えていました。

この頃、南では呉王闔閭が楚や越と激しく戦っていました。闔閭は前506年に楚を大いに破り、首都の郢(湖北省荊州市)を陥落させましたが、越王の允常に本国を攻撃されて撤退せざるを得ませんでした。その10年後に允常が薨去すると、闔閭は恨みを晴らすべく越を攻めましたが、允常の子の勾践は奇策をもって迎え撃ち、闔閭を負傷させて死に至らしめています。

のち闔閭の子の夫差は越を攻撃して屈服させ、勾践に屈辱(会稽の恥)を味わわせましたが、勾践はこれを忍耐して力を蓄えます。増長した夫差は北上して中原諸国を攻め、魯や斉を打ち破って会盟を行い、覇者となりました。しかし勾践はこの隙に呉本国を攻撃し、前473年に滅ぼします。

越王勾践は呉の旧領を併合し、北上して中原諸国と会盟を行い、新たな覇者となります。この時、勾践は越の首都を会稽(浙江省紹興市)から遥か北の琅邪に遷し、浙江省・江蘇省・山東省南部に至る海沿いの広大な領域を越の領土としました。また琅邪に台(楼閣)を築いたといいます。これを青島でなく江蘇省北端の連雲港市だとする説もありますが、後付の話のようです。

勾践がこの地に都を置いたのは、越人が得意とした水運・海運の技術によるものです。浙江・長江・淮河水系は複雑な水路の絡まりによって繋がっており、海もまたそのルートのひとつでした。呉人も周の分家筋と自称しましたが後付で、越人と同じ長江下流域の文化圏に属しています。勾践は越・呉に加えて淮河流域の諸族、すなわち淮夷を支配下におさめ、その北の東夷をも取り込もうとしたのでしょう。このような呉・越の北上運動は海を越え、遼東半島や朝鮮半島、日本列島にも影響が及んだのではないかと言われます。

勾践の死後、4代後の越王翳は前378年に呉(蘇州)へ遷都しますが、琅邪はなお越の領地でした。斉では前481年のクーデターで姜姓の君主が実権を失い、田恒とその子孫が実権を握っていましたが、前391年には田和が傀儡の斉君を海中の島へ追放し、前386年に周王から斉侯に封建されます。ここに正式に田斉が成立し、前379年に姜斉は断絶しました。

田斉は東方における最強国となり、威王の代になってついに王位を称し、宋・魯・衛など泗上十二諸侯を朝貢させました。この中には莒(日照市莒県)・郯(臨沂市郯城県)・費(臨沂市費県)などはあっても徐はなく、もはや滅んだか、微小な勢力になっていたものと思われます。

前334年、越は楚に滅ぼされ、その領土はことごとく楚のものとなり、琅邪もまた楚の領地となりました。田斉はこれに対抗するため諸国と連合しますが、勢力を強めすぎて反発に遭い、前284年に燕などの連合軍に滅ぼされかけました。田斉は琅邪の北の莒と即墨を拠点として反撃し、どうにか領土を回復したのは前回見たとおりです。しかしもはや覇権国とはなれず、秦に服属して生きながらえた末、前221年に滅亡しました。

琅邪郡

始皇帝は斉を滅ぼして天下を統一すると、旧田斉領を分割して郡県を設置しました。斉の首都であった臨淄付近には斉郡(臨淄郡)、琅邪及び山東半島の大部分には琅邪郡が置かれます。後に斉郡が分割されて泰山付近に済北郡が、琅邪郡が分割されて東部に膠東郡が置かれ、琅邪郡は山東省東南部から江蘇省北部にかけての領域となりました。

始皇帝が徐福と出会った時、琅邪はこのような状況でした。古来の東夷に加えて斉・越・楚・燕などの文化が混じり合い、宗教的にも複雑な層をなしていたことでしょう。秦に対して恨みを持つ者も多くいたに違いなく、秦の支配から逃れ去りたい者もいたはずです。徐福は彼らを率いて、どこへ行こうとしたのでしょうか。

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【続く】

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