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【つの版】大秦への旅04・安敦遣使

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

ようやく大秦、ローマ帝国に到達しました。伝聞なりに割と正確な描写ではありますが、その西には海水があり、その彼方に河や大山があり、西王母や大夏や月氏が住むと記されています。中央アジアの大夏や月氏の分派でしょうか。それともたまたま名前が同じなのでしょうか。前回は『魏略』西戎伝を見ましたから、今回は『後漢書』西域伝を見ていきます。

◆皇帝◆

◆賛歌◆

斯賓於羅

安息から西行3400里(1475.6km)で阿蠻国に至る。阿蠻から西行3600里(1562.4km)で斯賓国に至る。斯賓から南行して河を渡り、また西南に960里(416.64km)で於羅国に至る。安息西界の極である。ここから南に船に乗って海に入ると、大秦に通じる。その国には海西の珍奇異物が多い。

この出発点となる安息は、クテシフォンではなく安息東界の木鹿(メルブ)と思われます。ここから西へ1475.6km余り行くと、カスピ海南方の交易路を通ってメディア地方の首邑ハマダーン(エクバタナ)に着きます。ここが阿蠻国でしょう。そこから1562.4kmも西へ行くとアンタルヤあたりに着きますが、既にローマ領なので2600里(1128.4km)の誤記とすれば、アルビルやモスルを経てディヤルバクルに着きます。ここに斯賓国と思しきソフェネ(Sophene)王国がありました。パルティアとアルメニアの緩衝国です。

南下してハッラーンを経てユーフラテスを渡り、於羅国と思しきアレッポ(ハラブ、ベロエア)に着きます。『魏略』西戎伝の于羅国にあたるのでしょう。アレッポからアンタキヤへ向かい、地中海を進めば大秦(ローマ)に着くわけです。ここは大秦国に属しますが、『後漢書』では誤って安息西界としています。斯羅国はその東北の河の向こうにあり、安息に属し大秦に接しているというのですから、エデッサ(ウルハイ、シャンルウルファ)を首都とするオスロエネ(Osroene)王国でしょう。

汜復は「東北の于羅を去ること340里(147.56km)で、海(沙漠?)を渡ったところにある」というのですから、アレッポの南西147.56km、オロンテス川のほとりのハマーあたりでしょうか。ハマーの東600里(260.4km)にはタドムル(パルミラ)などのオアシス都市があり、3000里を300里(130km)の誤記とすれば、ユーフラテス川に到達します。ハマーの西南の賢督国とはダマスカスでしょうか。パルミラやハマーの南には沙漠が広がり、その彼方にペルシア湾があって、珊瑚や真珠を産出します。北方にはザグロス山脈から続くアルメニアアナトリア高原が横たわります。わかってきました。

大秦王安敦

いよいよ大秦国です。『魏略』の記述とおおむね同じですが、やや異なる点もあります。

大秦国は一名を犁鞬といい、海の西にあることから海西国ともいう。領土は方数千里、四百あまりの城(都市)があり、小国数十を役属している。石で城郭を築き、郵亭を列置し、みな堊(白亜)で飾られている。松柏・諸木・百草がある。人俗は田作につとめ、多くの樹を植えて養蚕している。みな頭を短く刈り、刺繍をした衣をまとい、白い幌馬車で物資を輸送する。(軍隊が)出入りするには鼓を撃ち、旗や幟を立てる。

ローマ人の男性は短髪が基本で、長髪はガリア人など蛮族の象徴でした。髭も毎日剃刀で剃り、体毛の脱毛もしていました。これは「兵士としてふさわしい格好こそ男らしい」「髭があると掴まれるし、ギリシア人やカルタゴ人に間違われる」という理由からの風習でしたが、漢人にとって短髪は奴隷や囚人の格好ですし、髭を剃るのは女々しいとされました。

城邑(ローマ市)は周囲が100余里ある。城の中に5つの宮殿があり、互いに10里ずつ離れている。宮殿はみな水精(水晶)を柱とし、食器もまたそうである。王は一日に一つの宮殿に出遊し、政事を行って、5日で一巡りする。常にひとりの従者に袋を持たせて王の車に随行させ、何か申し出る者がいれば書き付けて袋に入れ、王が宮殿に着くと取り出して採決する。各々の宮殿には役所や公文書があり、36人の将軍を置いて国事を会議する。その王は常にある人ではなく、みな賢者を立てて代わる。国中に災異や時ならぬ風雨があると、王を廃位して新たに立てるが、追放された者は甘受して恨まない。その人民はみな背が高く姿ととのい、中国に類似するので「大秦」という。

大秦と呼ぶ理由が初めて記録されました。しかし『魏略』にはそう書かれていませんし、ローマやパルティアがそう呼んだ様子もありません。

土地は多くの金銀奇宝を産出し、夜光璧、明月珠、駭鶏犀(一角獣の角)、珊瑚、虎魄、琉璃、琅干、朱丹、青碧、刺金縷繍、織成金縷罽、雑色綾がある。また布に黄金を塗り火浣布を作る。また細布があり、あるいは水羊の柔毛ともいうが、野繭で作ったものである。様々な香料を調合し、汁を煎じて蘇合香とする。およそ外国の様々な珍異なものは、みなこの国から出る。

蘇合香とは南欧・中東原産のセイヨウエゴノキ(Styrax officinalis)から得られる樹脂を用いた香料で、東南アジア産の別種を「安息香」と呼びます。

金銀を銭とし、銀銭10枚が金銭1枚にあたる。安息や天竺と海中で取引を行い、利益は原価の十倍である。人々は質直で、市場では二價(吹っかけ値)がない。穀物・食糧の値段は常に安く、国は富饒である。隣国の使者がその国境に初めて着くと、駅伝に乗って王都に詣で、到着すると金銭を賜る。その王は常に漢に使者を通じたいと欲しているが、安息国が漢の絹の交易の利益を独占したいと思い、道を遮って使者が到達できないようにしている。

およそ『魏略』と同じです。天竺と海中で取引を行うというのは天竺国条に「西與大秦通、有大秦珍物」とあり、ローマ側にも『エリュトゥラー海案内記』に記されています。甘英が来る半世紀前から、ローマ商人はエジプトより紅海を抜けてアデン湾・アラビア海に出、季節風に乗って東の彼方のインドやスリランカと交易していたのです。

海路は危険もありましたが、陸路より大量のものを輸送でき、大きな利益を産みました。このため、インドでは大量のローマコインが流通しています。

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桓帝の延憙9年(166年)に至り、大秦王の安敦が使者を遣わした。その使者は日南郡(ベトナムのフエ市)の南境に来て象牙・犀角・玳瑁を献上し、初めて交流を持つことができた。しかし貢物はみな(海西の)珍異なものではなく、伝える者があやまったのではないかと疑われる。

西暦166年のローマ皇帝は、「五賢帝」の最後であるマルクス・アウレリウス・アントニヌスです。安敦とはアントニヌスに違いありません。『エリュトゥラー海案内記』にはスリランカの彼方、ベンガル湾の奥のガンジス河口や、ギリシア語でクリュセー(黄金)と呼ばれるインドシナ半島、その彼方の「チーナイ(Thinai、チャイナ)」についても記されています。

「インドの北にはチーナイと呼ばれる大きな内陸の都市があり、ここからセレス(絹商人)の羊毛・糸・織物が来る。これらはバクトリアを通じてインド西北部のバリュガザ港まで運ばれ、またガンジス川を通じてインド西南岸のリミュリケー(マラバール海岸)まで運ばれる。ティス(チーナイ人、すなわち「チャイニーズ」)の首都チーナイへ行くことは容易ではない」

既にローマ人は海路経由でチャイナの存在を知っていたのです。ベトナム南部のオケオには扶南国の港があり、クシャーナ朝の仏像やローマのアウレウス金貨も出土しています。ここまで来ればチャイナまではもう少しです。

ところで166年当時、皇帝アウレリウスは161年から5年に及んだ対パルティア戦争に勝利をおさめ、元老院から「パルティニクス・マキシムス(パルティアに勝利した偉大な人)」の称号を受けています。もっとも彼自身は戦っておらず、シリア出身の将軍カッシウスの功績ですが。

165年、カッシウスはアルメニアとオスロエネからパルティア軍を駆逐し、撤退する敵を追撃してセレウキアとクテシフォンを占領、王宮を焼き払いました。166年、カッシウスは功績により執政官に叙任され、シリア総督に任命されています。実際にチャイナへ使者を派遣したとすれば、カッシウスが皇帝アウレリウスの名において派遣したのでしょう。あいにく珍しい贈り物を持ち合わせず、本物かどうか疑われることになりましたが、状況的には来ていても不思議はないと思われます。

ある説では、その国の西に弱水・流沙があり、西王母の居るところに近く、日の入るところにも近いという。『漢書』には「條支から西へ200余日行くと、日の入るところに近い」とある。だが今の書物(魏略)とは異なっている。かつて漢の使者は烏弋までで帰還し、條支に到達した者はいなかった。また(魏略に)「安息から陸路で海北を巡って行くと、海西に出て大秦に至る。人民は連続し、10里ごとに1亭、30里ごとに1置があり、盗賊に警戒することはない。しかし道路には猛虎や獅子が多く、旅行の邪魔をする。100人余りが兵器を持って進んでも食われることがある」とある。また「飛橋があり、海北へ数百里も渡る」とある。奇異な玉石諸物を産出し、奇怪な話は数え切れないほどあるので、ここに記さないことにする。

『後漢書』は『魏略』を参考にしたか、共通の史料(甘英の報告書)に拠ったはずです。しかしあまりに奇怪なので省略されてしまい、西王母については魏略の方が詳しく記載されています。

大秦伝説

その他の史書では、『魏書(北魏書)』西域列伝にほぼ『魏略』と同じ文面があります。魏書が編纂された西暦554年には、ローマ帝国はコンスタンティノポリスに遷都し、東西に分裂して西ローマが滅んでいますが、特にそうしたことは記されず、前代の文章をほぼ丸写ししたようです。

『晋書』四夷列伝には大秦国条があり、おおよそ『後漢書』の記述を簡略化したような文章がありますが、その末尾に「武帝太康中、其王遣使貢獻」とあります。武帝紀の太康5年(284年)条に「林邑、大秦国、各遣使来献」とあり、林邑はベトナム南部のチャンパ王国なので、またも南海経由で使者が来たようです。本物でしょうか。

284年というとローマでは皇帝ディオクレティアヌスが即位した年ですが、282年にペルシア遠征に出た皇帝プロブスが暗殺されたり、跡を継いだカルスが283年に落雷に遭って死亡したり、カルスの子ヌメリアヌスとカリヌスが相次いで殺されたり混乱していました。晋の武帝が孫呉を滅ぼして天下を統一したので、南蛮の諸国からも使者が来たという体裁づくりのため、それっぽく使者を仕立て上げた感じもしますね。

また晋の張華の『博物志』には、こうあります。

漢の使者である張騫は西海を渡り、大秦に至った。大秦の西には鳥遲国(烏遅散城)があり、その西にもまた海があるという。西海の濱には小崑崙がある。高さは万仞、方800里。

張騫が大秦に至ったというのは伝説ですし、小崑崙があるというのは西王母の住む白玉山がどうのという魏略の話によるのでしょう。

また『梁書』諸夷伝の中天竺国条にこうあります。

中天竺国は…西は大秦・安息と海中で交易し、大秦の珍奇な品物が多い。…大秦人は香料を絞って蘇合を調合する。…漢の桓帝の延熹9年、大秦王安敦が使者を遣わして日南郡の南境に来たのが漢代では唯一である。その国の人は扶南・日南・交趾へ貿易に訪れるが、大秦から至る者は少ない。
孫権の黄武5年(226年)、大秦の商人で字(あざな)を秦論という人が交趾に来て、交趾太守の呉邈は彼を孫権のもとへ送った。孫権は大秦の地理や習俗について質問し、秦論はこれにつぶさに答えた。時に諸葛恪が丹陽を討ったが、肌が浅黒く背丈の低い人(黝歙短人)を獲た。秦論はこれを見て「大秦にはこのような人はまれです」と言った。孫権は男女10人ずつと数人の官吏を添え、秦論を会稽出身の劉咸に送らせた。しかし劉咸は途中で物故したので、秦論はそのまま本国へ帰還した。

なんと、孫権のもとを大秦の商人が訪れたというのです。しかし「交趾太守の呉邈」なる人物は実在しません。226年にはちょうど長年交趾太守であった士燮が90歳で薨去しており、孫権は陳時を派遣して交替させました。また交阯県以南を交州として戴良を交州刺史とし、合浦県以北を分割して広州とし、呂岱を広州刺史としましたが、呉邈の名はありません。秦論という字も「大秦を論じる」という程度の名で実在性に乏しく、伝説と思われます。

ともあれ、チャイナもローマもおぼろげながら互いの存在を認識してはいたようです。しかし、なぜチャイナではローマ帝国を「大秦」と呼んでいたのでしょうか。また、大秦の西にいる西王母や崑崙とは何なのでしょうか。

◆海西◆

◆王母◆

【続く】

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