僕の香水
僕が彼女に会ったのは旅先の美術館の彫刻の前だった。
Auguste Glaize の The Women of Gaulの前に置かれたハープを弾く少年の像を笑ってしまうくらい真剣な顔して模写していた彼女が気になった僕は「Grossièreté」と横に腰掛けスケッチブックとペンを取り出しスケッチすることにした。彼女はチラッと僕を見た後またすぐにスケッチブックの上に視線を落とした。しばらくして僕が大体の輪郭を捉えた頃、突然彼女が口を開いた。「あなた日本人でしょ、絵がうまいのね」驚いて「日本語がわかるんですか」と返す。11歳まで日本で過ごしたという彼女は流暢に日本語を話した。彼女の日本にいた頃の話、僕が1人でここまでくることにした経緯など話しながら僕らはそれぞれに筆を進める。人数が減ってきてシャッターの音もまばらになり僕らも美術館を出ることにした。閉館ギリギリの出口は混雑していた。「あなた、特に予定がないならお食事にいかない?」彼女の言葉に乗りおすすめのビストロに連れて行ってもらうことになった。
ビストロまで彼女と電動キックボードに二人乗りした。さらさら揺れるブロンドからふんわりと香るフランス人には珍しく控えめな香水の香り。まさか絵のように美しいパリジェンヌにぴったりくっ付いて食事に行けるなんて思ってもいなかった。濁ったセーヌ川とあざやかな夕焼け。風の強さが心地よい。彼女の日本語はフランス語なまりでたまにおかしかったがそこがまた愛らしかった。川を渡って少し走るとここよ!と彼女が飛び降りた。その瞬間バランスが崩れる。「あぶないってば」僕の言葉を鮮やかに無視して浮いた声で「わたしは1番はセーラームーンのコスプレがすきなの。日本のアニメの少女って儚くて強くてステキ」といって彼女はなれた手つきでドアを開けフランス語で店主と会話をし始めた。フランス語を話している時の彼女は日本語を話してる時のような言葉を探している感じがなくてまるで別人だった。大学でフランス語を専攻していた僕は言葉の端くれは拾えたもののあまりに早くて流暢なネイティブを前にすると話のメインを理解することしかできなかった。諦めて店の装飾をぐるりと見渡す。どうやらここは日本の漫画やアニメが好きな人がくるレストランなようでそんなようなポスターが沢山貼られていた。彼女が僕を店主に紹介する。“にほんじんなんだね!」と嬉しそうに握手を求める大柄なおじさんの手は優しく分厚くひじきのように毛が生えていた。
席につき彼女一押しのワインを飲む。
本場なだけあって酸味と渋みのバランスが良く甘味も感じるフルーティーで豊かな味だった。「今まで飲んだ中で1番美味しいよ」
ほんとう?と彼女が左眉を上げいたずらっ子のように笑った。「これはまだはじまりよ」
店主がお決まりのフランスパンを持ってくる。カリカリでもちもちしていてとても美味しい。
僕より速いペースで飲む彼女は煙草をくわえた。まるで映画のワンシーンのように魅力的であった。「そういえば何才?」と聞くと18!と元気よく答える。僕は驚いた。自分より3つも下だった。たしかに欧米のティーンは日本の女の子より大人びているが僕は自分と同じくらいかそれ以上だと思った。「日本では20にならないと酒もタバコもだめなんだ」ちょうどサラダを持ってきた店主はジッポを取り出し彼女のタバコに火をつけ頭をぐりぐり撫で「ミラはどちらも16からだよ」と笑った。「もー余計なことを言わないで」と上目遣いで店主を見上げた彼女は僕と目が合うとペロッと舌を出した。店主は彼女の手からタバコをとるとひと吸いしてまた戻し失礼とバーカウンターへ戻っていった。彼女と店主の仲は親密でふわりと微かに色の香りがした。
「お兄ちゃんてばいつも余計なことばっかり」と軽く肩をすくめて見せる。鴨テリーヌとフォアグラの乗ったステーキが運ばれてくる。豪快に美味しかったが彼女と店主の関係がどうしても気になった。「彼は君の恋人か?」と聞くと「いいえ、腹違いの兄なの」とフランス語で答えた。何故か少し安堵して「そうなんだてっきり恋仲だと思ったよ」と返す。「わかっちゃうのね」と小さく答えた彼女はぼうっとバーカウンターを見ていた。運ばれた料理を半分も食べずに「お客さんだしわたし飲みすぎちゃってお腹いっぱい。あげるわ」と僕の方に皿をずらす。今夜は特別だぞと店主が持ってきたいかにも高そうなアンティークワインはその香りからもう並のものとは違って奥深く物凄く美味しかった。「ね、まだはじまりって言ったでしょ」酔った彼女は耳たぶまで赤く染まっていた。これはおまけよ、と今度は品のある茶色い髪をした綺麗なお姉さんがバニラアイスを持ってきてくれた。「merci, la sœur」と伏した目をした彼女がいう。彼女と髪も目も色が違ったから少し驚いて「あの店員はおねえちゃんなの?」そう聞くと「まあね、というか兄のお嫁さんなの」そう答えた。それを聞いて僕はいろいろわかってしまったような気がした。
外に出ると冷たい雨がさらさらと降っていた。結局僕らは連絡先も交換せずビストロの前で静かに別れた。
空港で母に頼まれた香水を探してる時に店員が勧めてきたのは別れ際の雨の中僕の鼻をかすめた香水と同じだった。多分シャネルの5番のオープルミエール。僕は自分の為に初めて女物の香水を買った。
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