現代的一若年男性の類型としてのトロオドン

私はトロオドンのことをよく知らない。以下のことをは推測に過ぎない。おそらく27歳の男性であり、三重県津市の郊外在住。ご実家は奈良県。お墓参りにまめに行くなど孝行者ではあるようだ。喫煙者。野球が好き。軍オタ。やや特殊な性癖がある。戸建ての借家住まい。未婚と思われる。大学は出ている。東京で映像関係の仕事をしていたが、業務の困難さから退職。現在はフリーランスあるいは非常に勤務形態が自由な形で映像編集の仕事に従事。業務の内容上、ネットワークを利用して業務を行えばよく、大都市圏に居住する必要がない。当該スキルを利用し twitch などで配信を行っている。分散型 SNS である mastodon ユーザ。 Twitter にもアカウントがある。今の糊口の性質上、時間的な自由度があり、やや昼夜逆転に近い性質の生活を送っている。中古であるらしいが、フォルクスワーゲンのポロに乗っている。そのことを考えると収入は悪くないはずである。お若いわりに初代ガンダムに詳しい。

こう考えてみると彼と私は、 mastodon で偶然にも遭遇しない限りは一生遭遇することのない二人であると思われる。まず住まいが関西と関東とで違うし、私は映像関係の仕事とはほぼ縁がない(芸能とは多少縁があるが編集はまた別)。私の休日は土日であるし、時間的な自由度は少ない。年齢にも多少の差がある。激務を終えた週末の金曜日の晩に、一杯やって帰宅したあとにホラーゲームの実況を拝見しつつ投げ銭を放りなげる程度の縁でしかないが、場末の SNS で偶然に遭遇した奇妙な縁である。

トロオドンを見ていると(敢えて敬称を略させていただく)、このような生き方というものもあるのだな、と思う。少なくとも上述のような生活をしている友人を私はすぐには思い出せない。ネットワーク越しに彼を眺めているときに感じられるのは、そのなんともいえない隠者の匂いである。彼には意外と生活感がない。食事の話は少ないし、実況中に喫煙やご不浄に行くことはあるものの、その程度である。洗濯物を干したり、自宅に掃除機をかけたり、食料品を買いに出かけたり、浴室を掃除したり、確定申告をしたり、マイクロブログにおいては何かしらのその投稿者の生活感が透けて見えるものだが、彼はそれを巧妙に秘匿しているようにすら見える。彼は mastodon において非常にまめに follower とコミュニケーションを行なっている。到底、私にはできない芸当だ。

彼は殺されたいらしい。好きな人に殺されたいそうだ。愛する者によって死せしめられるというのは古来より存在するある種の法悦であるが、字句としては矛盾しており、好意という生への希求と希死念慮がないまぜになっている。この点に仄かな厭世の念を嗅ぎ取っているのは私だけだろうか。彼は妙に謙虚に見える一方、多少なりともの虚栄心があり、それは動画配信などや今回のこの advent calendar などで顕著だが、ネットワーク越しに見て取れる彼のある種の矛盾は興味深い。本当に有名になりたいのであれば顔でもなんでも出して炎上でもしかねない行為でもすればよかろうが、彼はそういったことをするわけでもない。日々、私や彼の follower から垣間見える彼の日々はとてもつましいもので、それ以上でもそれ以下でもない。

私が大学で教鞭を取っていた頃の最後の学生たちとトロオドンは同世代にあたる。彼らとトロオドンを比較すると、キャリアという観点では異なるものの、中核的にはかなり近い行動形態を取っているように見える。無理をしない。生活が維持できればよい。できるだけ好きなことをしていく。したくないことはしない。身の丈を知る。彼がホラーゲームの実況で、ゾンビなどに驚かされたときに、「ウワー!!!!」などと叫ぶたびに、この叫びはどういうものなのだろうか、と考えていた。

過度な一般化は危険だが、彼のこの、少なくとも mastodon や twitch での実況から透けて見える彼の生き方は、現代の日本の20台後半の男性のある種のロールモデルのように見える。自分のスキルを適切に活かし、身の丈にあった生活を送り、無理をせず、仕事とプライベートの均衡を重視する。ネットワークという現代の技術の恩恵を最大限利用し、糊口を凌ぎつつも、専門性を活かして虚栄心(これは悪い意味の言葉では決してなく、誰でも持つ、有名になってみたい、注目を浴びたい、という欲求のことだ)を満たしそれを金銭に変換する。ただしそれはとても慎重かつ謙虚なもので、無理がない。この振る舞いにはある種の器用さが見てとれる。 mastodon での彼はトロオドンというやや派手な人格を持つが、その裏には隠者めいた生活を送り、厭世感を漂わせる27歳の等身大の男性がおぼろげながら見て取れる。

率直なところ、このように書き進めると、私はやや彼に羨望の念を抱いているのかもしれない。隠者という言葉を使ったが、隠者を尊ぶ東アジアの思想的根底には老子があり、「知人者智、自知者明。勝人者有力、自勝者強。知足者富、強行者有志。不失其所者久。死而不亡者壽」と言う。有名な「足るを知る」というもので、大欲なく自ら満足できその程度を知ることができるものこそ豊かである、というものだ。彼はそのように見える。もちろん、野望があるのかもしれないが。

老子のような小国寡民に憧れる人間ほど、それとは真逆の、日々の激務に追われつつ、社会の課題と対峙し血塗れならざるを得ない。しかし現代の日本において隠者めいた生活が成立しうる蓋然性、そこに何らかの安寧の可能性があることに対して私は希望を見てとっているのかもしれない。もちろん彼なりの隠された日々の努力があろう。ただ、彼のような生き方の日本社会における持続可能性の蓋然性について、正の判定を与えられるように努力したいと、週末に彼の「ウワー!!!!」という悲鳴を聴きながらふと考えている。

願わくは 花のしたにて春死なむ そのきさらぎの 望月の頃

西行『山家集』

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