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日本馬が凱旋門賞を勝てた時代があった説


1.1999年エルコンドルパサーの凱旋門賞2着は快挙だったのか

日本馬として13年振りの凱旋門賞挑戦

2022年の凱旋門賞は当年のダービー馬ドウデュース天皇賞(春)・宝塚記念を圧倒的な強さで制したタイトルホルダーらが日本から挑戦しましたが最高で11着という惨敗に終わりました。

毎年凱旋門賞で日本馬が負けると話題になるのが過去に凱旋門賞で2着善戦したエルコンドルパサー(1999年)、ナカヤマフェスタ(2010年)、オルフェーヴル(2012・2013年)は凄いという話です。

特にエルコンドルパサーは当時も今も少ない欧州長期滞在で入念に準備をした結果の2着。メンバーレベルも高く、馬場条件は悪かったものの欧州最強馬決定戦といえる豪華メンバーでの僅差2着で、今なお高い評価を受けています。

しかし、最近でこそほぼ毎年のように日本からの挑戦馬がいる凱旋門賞ですが、1999年エルコンドルパサーの前に挑戦した日本馬は1986年のシリウスシンボリ(14着)が最後でした。

シリウスシンボリは1985年のダービー馬で、欧州に長期滞在し凱旋門賞以外にもキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス(8着)など欧州の重賞・G1に多数出走。勝利こそなかったものの凱旋門賞の前哨戦フォワ賞2着や、3100mの長距離G1ロイヤルオーク賞3着の実績を残しています。

年齢を重ねたせいもあるでしょうが、5歳(当時表記6歳)での帰国後は日本でも毎日王冠でオグリキャップの2着になったのが目立つ程度で勝てないまま引退しています。

シリウスシンボリの適性または当時の能力が不足していたというのも否めないでしょうが、彼が出走した1986年は凱旋門賞史上最高と評されるほどのメンバーが揃ったレースで、今なお欧州歴代最強馬候補に挙げられるダンシングブレーヴが勝った年だったという不運もあります。

1986年のシリウスシンボリの後、日本馬は凱旋門賞に長らく出走が無い時代が続きます。
シリウスシンボリが挑戦した時も本来ならばその前か同年にシンボリルドルフが挑戦していたはずでしたが、故障のために挑戦することなく引退となっています。

1987年~1998年は日本馬の凱旋門賞挑戦空白の時代

1969年~2002年の間に日本調教馬の凱旋門賞出走は5回、5頭しかない

その後の1988年~1990年といえばオグリキャップタマモクロスらを中心とした第二次競馬ブームが到来した時代で、日本競馬のレベルも高まっていた年でしたが、オグリキャップイナリワンなどが米国競馬挑戦を計画したことはありましたが、結局は白紙。凱旋門賞挑戦は具体的計画もなく終わっています。

また、1990年から台頭したメジロマックイーンは道悪巧者の最強ステイヤーで、欧州適性も高そうな馬で最晩年も衰えることがありませんでしたが、海外挑戦することなく故障引退となっています。

1993年には有馬記念で骨折からの奇跡の復活優勝を果たしたトウカイテイオーが現役続行、1994年には6歳にして凱旋門賞挑戦を計画という話がありましたが、これも再びの故障で引退、父シンボリルドルフと同じく凱旋門賞挑戦が実現することはありませんでした。

また、1994年といえば三冠馬ナリタブライアンが台頭した年。ナリタブライアンはその強さや走法、血統などから、凱旋門賞でも勝負できたと今でも評されることが多い名馬ですが、4歳時に故障したこともあり、具体的に凱旋門賞挑戦の話が計画されることはなく引退となりました。
ナリタブライアンと同期で凱旋門賞馬レインボウクエストを父に持つサクラローレルは1997年に凱旋門賞挑戦計画を立てますが、前哨戦のフォワ賞で故障してしまい、凱旋門賞本番には出走できずに引退となります。

1995年サンデーサイレンス時代到来直後の1996年、ダンスインザダークは早期から才能が高く評価されており、凱旋門賞挑戦も視野に入れていましたが、日本ダービーで惜敗し、海外挑戦計画は白紙になりました。後に菊花賞を勝つもののそこで故障引退となります。
そして同年ダービーでダンスインザダークを下したフサイチコンコルドの馬名はフランスにあるコンコルド広場から名付けられ、将来の凱旋門賞制覇を意識してつけられたと言われていますが、これも体質が弱く、ダンスインザダークと同じく菊花賞で故障・引退となり凱旋門賞挑戦は実現することはありませんでした。

エルコンドルパサーが挑戦した1999年は同世代のダービー馬スペシャルウィークも凱旋門賞挑戦計画が浮上するものの宝塚記念で2着となり挑戦を白紙撤回。その後国内で活躍し続けるも同年で引退となります。
また、エルコンドルパサー、スペシャルウィークと同世代のグラスワンダーも2000年に凱旋門賞挑戦計画を立てるものの、2000年に入ってからは不調が続き、宝塚記念で道中は復調の兆しを見せるもののレース中に故障をしてしまい引退となり挑戦は幻となってしまいます。

このように、エルコンドルパサーが凄いのは確かなのですが、1980年代後半~90年代は日本調教馬のレベルが上がってきていた時代でありながら、凱旋門賞挑戦例自体が他になく、エルコンドルパサーの比較対象がないため、エルコンドルパサーが本当に飛び抜けて凄かったかどうかは分かりません。

2.凱旋門賞とジャパンカップの適性・能力差が遠くなかった時代

1994年~1999年は凱旋門賞好走馬が毎年ジャパンカップを好走していた

1980年代後半以降、特に日本馬が海外で活躍し始めた1998年から、日本競馬のレベルが高くなったとはいっても、凱旋門賞は日本の主流G1レースとは適性が大きく異なり、日本のチャンピオンコースである東京競馬場・芝2400mを舞台とする、「ジャパンカップと凱旋門賞の両方をともに好走することは難しい」と言われています。
実際その通りだと思いますし、最近では欧州の強豪馬がジャパンカップに出てくると日本馬が凱旋門賞に出た時のごとく惨敗するのが当たり前という時代になって久しく、歴代のデータ上でも両方のレースで1着を経験してる馬は未だ1頭もいません。

しかし、凱旋門賞で好走した馬がジャパンカップでも好走することが珍しくない時代がありました。

1994年~1999年は6年続けて凱旋門賞4着内に入ったことのある馬(エルコンドルパサー以外はJCと同年の凱旋門賞)がジャパンカップでも4着内に入っています。
これを見ると、この頃は凱旋門賞とジャパンカップの適性差、双方の上位馬の能力差などが小さい時代だったのでは?という可能性が浮かんできます。


1998年~2001年は日本馬の海外G1好走率が現代と同等以上に高かった時代

90年代後半は海外遠征が少ない時代でありながら近年にも劣らない勝利数

この時代は、凱旋門賞挑戦馬こそ結果的にエルコンドルパサーしかいなかったものの、エルコンドルパサー挑戦の前年、1998年にはシーキングザパール、タイキシャトル欧州短距離・マイルG1を勝利日本調教馬の海外G1初勝利となりました。
1999年にはエルコンドルパサーアグネスワールドが欧州G1を勝利。アグネスワールドは日本国内芝G1では2着が最高でしたが、2000年にも欧州G1を勝利し、日本競馬のレベルの高さを示しました。

2001年には欧州G1挑戦こそなかったものの、香港国際競走で日本調教馬が4レースの内3勝、日本馬強しを印象づけます。
さらに勝った内の1頭ステイゴールドは国内G1では2着が最高の馬でしたが、サンデーサイレンス産駒初&日本生産馬初海外G1勝利をもたらしました。
もう1頭のエイシンプレストンも2歳時にG1勝利があるものの3歳以降は国内G1では2着が最高の馬でしたが、この年から3年連続香港G1勝利を達成しました。

エルコンドルパサーの欧州G1勝利や凱旋門賞2着も俯瞰で見ればその中の1つであり、エルコンドルパサーだけが特別というよりも、この時代の日本のトップクラスの馬は海外の芝G1レースで当然のように通用する適性と能力を兼ね揃えていた可能性が高いように思われます。

つまり、90年代半ば~00年代前半の日本でジャパンカップを優勝したり、トップクラスの成績を残せていた馬の中になら、エルコンドルパサー以外でも凱旋門賞で好勝負できた馬、凱旋門賞を勝てたかもしれない馬が沢山いたのではないかと思われるのです。

3.日本馬の欧州適性が平均的に高かった時代

日本馬による欧州G1全7勝の内5勝が1998年~2000年

近年好調な日本馬の海外実績の大半はアジア(香港)と中東(ドバイ)、欧州は90年代が最も攻略できていた

近年は昔と比べものにならないくらいに日本調教馬による海外レース挑戦、海外レース勝利が増えており、総合的には日本馬は十分世界最強クラスといっても過言ではなくなっています。
しかし、今でも芝競馬の本場といえる欧州のG1競走勝利はたった7勝しかなく、その内の5勝が1998年~2000年の3年間に集中しており、2001年以降は2023年現在に至るまで2勝しかあげていません。

それもエルコンドルパサー・アグネスワールドの1998年世代、タイキシャトル・シーキングザパールの1997年世代が2世代4頭で5勝。
エルコンドルパサー、タイキシャトルは日本国内でも文句なしに最強クラスの馬でしたが、シーキングザパール、アグネスワールドは日本国内でもトップクラスとはいえ古馬G1勝利がない馬で、国内に同等以上の馬が他にもいた中で欧州G1を勝利していることも、当時の日本馬のレベルの高さを想像させます。

当時は欧州挑戦例が少ない中で好走率、勝率、勝ち数がその後とは比較にならないほど高く、最もバランスの良い適性を持っていて、能力が高かった時代だったように思われます。

2001年以降に欧州G1を勝利したのは日本ではG1を勝てなかったエイシンヒカリと欧州長期滞在で結果を出したディアドラの2頭であり、現代の日本競馬は欧州競馬とは適性が遠くなっており、純粋に日本国内の最強馬を連れていっても上手くいかなかったり、長期計画で現地の芝やペースに慣れさせる必要性を感じさせます。

エルコンドルパサーは長期滞在計画で臨みましたが、欧州初戦でもG1で2着と好走していますし、タイキシャトルやシーキングザパールはぶっつけ本番でG1を勝っています。

もったいない海外G1挑戦空白の時代

1962~1986年の日本調教馬海外G1競走挑戦史
クイーンエリザベスⅡ世C(現G1)も一応G1相当に換算

1986年のシリウスシンボリ、ギャロップダイナらを最後に日本調教馬による海外G1挑戦は長らく空白の時代が続き、1994年のフジヤマケンザンの出走もG1相当といえるレースではありましたが、厳密には国際G2であり、正真正銘の海外G1挑戦は1995年のダンスパートナーまで9年間も空白が続いてしまいました。
ただ、フジヤマケンザンは高齢馬かつ日本国内のG1は勝てなかった馬でありながらも香港国際カップ(現在の香港カップ)で優勝しています。
また、正真正銘の最強クラスの馬は海外遠征しておらず、1998年のタイキシャトルが1986年以来では初めてといえる国内最強クラスの馬の海外遠征であり、それが見事海外G1優勝という結果となりました。

タイキシャトルやエルコンドルパサーらは確かに歴代でもトップクラスの名馬ではありますが、彼らが出てくる以前の1987年~1997年の間も日本競馬は黄金時代でしたから、当時の最強クラスの名馬たちが海外挑戦していたら、彼らの挑戦を待たずに海外G1初勝利や、凱旋門賞で3着以内に好走した馬が出てきていた可能性があるのではないでしょうか。

まあ、そんな当時の名馬たちがあまり海外に行かず国内で鎬を削ったからこそ競馬が面白かった時代になっていたのですが、彼らが海外に行っていたらどうなっていたかも見てみたかったと思います。


4.まとめ 日本馬が凱旋門賞を勝てた時代

今では適性が真逆と言われているジャパンカップと凱旋門賞を両方好走した馬が1994年~1999年に集中して多かったことから、1990年代の日本馬は今よりも欧州適性が高かったのではないかという仮説を立て、当時の日本最強馬なら実は凱旋門賞好走が難しくなかったのではと論じてみました。

そこから悪く見積もっても、数少ない海外・欧州挑戦が全て成功している1998~2000年の日本最強クラスの馬は凱旋門賞で通用した可能性が特に高いのではと思います。
具体的にはタイキシャトル、エルコンドルパサーらを擁する1997年世代、1998年世代の最強馬たちサイレンススズカ、メジロブライトスペシャルウィーク、グラスワンダーらは凱旋門賞に出ていたら勝てた可能性があったと思います。

また、1990~1997年の最強馬たちも海外挑戦例が少ない時代だっただけで、挑戦していたら1998年以降と同様、または同等以上に成功していた可能性があると思います。
実際に欧州挑戦成功馬を多数出した1998~2000年と違って明確に近い根拠は提示できないものの、前述のジャパンカップと凱旋門賞の適性が近かったと思われる1994~1997年の最強馬たちなら凱旋門賞でも通用した可能性が低くないことを想像できます。

個人的には、1994年に3歳でナリタブライアン&ヒシアマゾンが凱旋門賞に出ていたら面白かったと思います。
当時の凱旋門賞は今よりも斤量面で3歳が絶対的に有利な上、2頭とも3歳時が最も強かったように思うので。

1998年以降だと比較的レベルが低かった98年の凱旋門賞に3歳でエルコンドルパサーやスペシャルウィークが出ていたら勝てる可能性が高かったと思いますし、重馬場のステイヤーズSを大差勝ちするメジロブライトも凱旋門賞でパフォーマンスを上げそうに思います。
また、セイウンスカイや、凱旋門馬を父に持つキングヘイローも面白かったと思います。


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