僕の命は羽毛ほどに軽く舞う

何をしても気分が晴れない。腕を切ったら痛みを感じるし、瀉血をすれば血の温かみを感じる。それがなんだ。死に限りなく近い生。死にたい。それだけが救いだ。きょうも眠剤を飲む、ラリれない。物質以外に救われたくない。人間に話してよかったと思ったことがあったか?精神科医も信じない。「まあまあです、処方ください」で診療が終わる。親は「何かあったら相談してね」と言う。お前に相談して事態が好転したことなど一度もない。人間全てを見限っている。僕を救うのは薬、刃物、瀉血針だけではないか。哲学的ゾンビ。僕は素粒子までバラバラになってもう一度組み立てられた人間だ。三子の魂百までなんて嘘だ。僕は赤子の頃にこにことよく笑う"いい子"だった。アムカを覚えたのは小5-6の頃。2013年の1月10日に初めて精神科にかかった。一人暮らしだから精神科に通えた。親は精神科に偏見を持っていたから、高校まではかかれなかった。高校で中国語の教師にアムカと瀉血の話をした。中学の教師と違って親にアウティングしなかったので感謝している。鬱屈とした感情。僕は死んでしまうのか、こんな苦悩も癒せずに。カフェインを致死量飲んだときに病院で点滴に繋がれながらこの世界が終わってしまえばいいと思った。数cmしか開かない閉鎖病棟の窓。僕が最後に自殺未遂したとき、看護師は「お母さんが一番つらいんだから」と言った。そうですねえ、僕は死んだってつらくないもんですねえ。一向に降り止まない雨。永遠に訪れない黎明。長い長いトンネルを抜けると人は喩えるけれど、僕のトンネルは眼前で崩落している。先日精神科で「君が死んだら悲しむ人がいるでしょう」と言われた。「僕が死んだら僕の世界は無に帰するから僕は知覚できない」と答えたが、伝わっているようでたぶん伝わっていない。僕の命は羽毛ほどに軽く舞う。けれどもこの状態を"治す"気はさらさらない。自傷することのなにがいけないのか、自殺することの何がいけないのか、"明るく"生きることは誰にとっても善なのか。僕を雁字搦めにする関係の鎖。理解などとうに諦めた。人は死んでもわかりあえない。もはや救われたいとも思わない。これをひとは絶望と呼ぶのだろうか。


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