見出し画像

特別展「Dear Palmyra, 廃墟からの希望 -復活したパルミラの彫像-」

Special Display
Dear Palmyra, Hope from Ruins
-The revived Palmyrene sculptures-

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館
古代オリエント博物館
The Museum, The Archaeological Institute of Kashihara, Nara Prefecture
The Ancient Orient Museum

展示の要点

 パルミラはシリア砂漠の中心地のオアシスに建設された隊商都市である。その都市、もっと正確に言えばその居留地は、紀元前2千年紀初頭に書かれた記録に初めて現れる。それはパルミラ中央の建築物であり西暦32年に建造されたベル神殿の遺丘として知られる、塚を形成していた人々の居留地に源を発する。紀元前1世紀から紀元後3世紀はパルミラの黄金期を記録した。当時、パルミラはローマに深く縛り付けられており、また、東ローマの都市の中で好都合な位置に恵まれていた。3世紀の女王ゼノビアの統治期のその繁栄の絶頂においてローマ帝国に壊滅させられ、その都市は廃絶し、以後二度と世界史の前面に昇ることはなかった。
 様々な海外の考古学チームが我々を魅了してやまないこの古代都市の発掘を行っていた。葬送用彫像は派遣団の焦点の一つであり、また、2011年まではその博物館へ訪れた数々の者を魅了した。ベル神殿とバールシャミン神殿、そして歴史的に重要な数多の遺跡がISISによって粉砕された2015年には、大災厄がパルミラを襲った。美術館で保存されていた資料までもが大抵破壊された。その中で、最も損傷を受けたものは葬送用彫像であった。
2016年の5月には、パルミラはISISの占領から解放され、ポーランド隊の援助によりDGAMシリア(Directorate-General of Antiquities & Museums/シリア古物博物館総局)がその博物館を避難させ、また、ISISによって破壊された葬送用彫像の数多の破片をたくさんの箱に梱包し、それらを国立ダマスカス博物館に運んだ。
 2017年から、奈良県立橿原考古学研究所(以下、橿考研)はシリアの文化を保存するために、若い職員たちの技術と知識を構築するための様々な訓練計画の実行において、DGAMを支援してきた。石製品の修復は訓練計画における重要な一面である。2019年と2020年のこの訓練計画において、橿考研はISISによって破壊されたパルミラの彫像を用いた石像修復の訓練を提供した。この訓練は、パルミラの彫像の修復に対する専門家として、橿考研が要請したポーランドの管理委員の監督のもと実行された。数多の欠片と破片に粉砕されたパルミラの彫像は、指導者のもと若い訓練員の努力により、部分的にはそれらの本来の状態に戻った。橿考研は、日本の二つの博物館、つまり奈良県立橿原考古学研究所附属博物館と古代オリエント博物館においてその成果の展示を計画した。その展示は、修復された彫像を表示し、更にその彫像の修復の手法と日本の貢献の強調と共に訓練計画の内容もまた紹介する予定である。

注釈

1 このブックレットは「Dear Palmyra, 廃墟からの希望-復活したパルミラの彫像-」2022年1月15日から30日まで奈良県立橿原考古学研究所で、2022年の2月5日から27日まで古代オリエント博物館で開催された特別展に向けたものである。

2 シリア古物博物館総局に協力いただいたこの展示であるが、シリア共和国は、奈良県立橿原考古学研究所によって実施、日本政府の援助と共に国際連合開発計画(UNDP)によって設立された「パルミラの彫像を用いた石製品の保存と修復の方法論の訓練、2019.2020」の成果と紹介している。この展示はこの困難なコロナ禍のもと、彼らの企業とBartosz MarkowskiとKrzysztof Zbigniewによるダマスカスにおける二度の訓練の提供という努力により開催することができた。

3 このブックレットは、西藤清秀(奈良県立橿原考古学研究所)によって1,2,7章が、Houmam Saad(シリア古物博物館総局)によって3章が、Bartosz Markowskiによって4章が、Dagmara Wielgosz Rondolino(ワルシャワ大学)、Elenora Cussini(ヴェネツィア大学)、Bartosz Markowskiによって5章が、西藤清秀、中橋孝博(九州大学)によって6章が執筆され、また渡辺博美による助力を経て西藤清秀により編集された。

4 この展示はUNDPシリア事務局と日本西アジア考古学会によって支援された。

5 この展示の開催と、このブックレットの出版は追記の団体と個人によって援助された。彼らに感謝の意を表する。(以下、団体と個人名)

展示の内容

第一章      パルミラとは
第二章      2011年から2016年における資料の破壊、パルミラ遺跡と博物館
第三章      美術品のパルミラ博物館からの避難
第四章      UNDPプロジェクトにおけるパルミラの葬送用彫像を用いた石製品の修復の訓練
第五章      蘇ったパルミラの彫像たち-パルミラから奈良へ:七つの修復されたパルミラの葬送用彫像-
第六章      胸像とパルミラの人々
第七章      UNDPプロジェクトにおける文化遺産に関するシリア人専門家への様々な訓練計画

第一章     パルミラとは

 パルミラはシリア砂漠の中央に位置し、1980年には世界遺産に登録された。紀元前1世紀前後から3世紀まで、パルミラはシルクロードに沿った貿易によって繁栄したが、楔形文字の記録は紀元前19世紀前後にはパルミラの人々が小アジアやメソポタミアに来訪していたことを示している。
 パルミラはシルクロードの東西のルートに沿ったペルシアとローマ間の貿易の巧みな操作により発展した。3世紀には女王ゼノビアが王位に就き、彼女の支配を遠くは小アジアからエジプトまで拡大させた。しかし彼女の手腕を恐れたローマ皇帝アウレリアヌスは、272年にパルミラを征服した。ゼノビアはユーフラテス川にて捕らえられローマに連行された。アウレリアヌス帝は273年に再来し、パルミラの反乱を鎮圧した。
 パルミラの街は、ベル神殿が中央建造物として葬送用神殿1を導く形で建築され、東西に約4km、南北に約3kmにわたるものであった。大列柱は4kmに渡る。この列柱に沿って整然とした線の列柱から伸びる道と共に、劇場、浴場、店が存在した。住居はアゴラ(公共広場)と共に列柱の北側に位置取られており、取引市場は列柱の南側に位置取られていた。
 シルクロードの主要な中継地として、パルミラは多様な商品の貿易に携わる多文化的な人々と、街の保護を確立するための洗練された税金のシステムを有していた。宗教は都市の運営に大きな役割を果たした。メソポタミア、ペルシア、アラブ、ギリシャ、そしてローマのものを含んだ60以上の神々が確認されている。ベルはメソポタミアに起源を持ち、それらの神の中心的存在であり、「神々の主」であったと考えられている。
 パルミラは人々が住んだアクロポリスと、死者のネクロポリスから構成された。4つのネクロポリス、つまり「北」、「墓の谷」、「南西」、そして「南東」のネクロポリスはアクロポリスを取り囲んだ。3種類の墓、つまり塔墓、地下墓、家屋墓は、各ネクロポリスに家族墓として建設された。それらの墓は「永久の家」としての家の形態と受容された。塔墓は紀元前1世紀に、その後地下墓が2世紀に現れた。家屋墓は3世紀に建築された。100以上の遺体のためのロークリ(高さ60cm、幅50cm、長さ200cm)が墓の内側のスペースに設置された。西暦50年以降には間もなく、胸像、子供の立ち姿、家族の宴会様式の石棺のような石灰岩で作られた埋葬用彫像が墓の内側に受け入れられた。
 特に、胸像はロークリを密閉するために使われた。胸部葬送用彫像を制作する意向は、人物の厳密な正面の位置に基づいた。パルミラの胸像は基本的に埋葬用ロークリを覆う為に使われた。
 奈良考古学パルミラ研究隊による発掘調査は、ベル神殿のおおよそ1.5km南に伸びている「南東のネクロポリス」において実行された。そこには2011年時点で未だに存在が可視であった塔墓と家屋墓を含む約20基の墓が存在した。地下墓は1950年代後半に開始されたイラクからのパイプラインの設置までよく知られていなかった。シリア政府によって約20基の墓が発見、約10基の墓が発掘された。それ以降、奈良県の努力までこの地域における考古学的事業は実行されなかった。
 1991年から2005年までに発掘された4基の墓の中の3基の特徴的な地下墓;109年にYRHY(ヤルハイ)によって建設された墓C(1996年に樋口/和泉により編集);美しい花の模様で装飾されBWLH(ボルハ)とBWRP(ボルパ)によって128年に建設された墓F(2002年に樋口/斎藤によって編集);そして113年にTYBL(タイボール)によって建設された(2005年に斎藤により編集)と家族宴会の場面が表現された完全な石棺。その中で、墓FとHの修復と復元築が実行された。

第二章     2011年から2016年におけるパルミラ遺跡と博物館、資料の破壊

 2011年に「アラブの春」の動きに影響を受けた紛争が開始し、次いでISISのパルミラへの侵攻が、パルミラの観光と経済の資源としての数多の重要な文化遺産の破壊と爆破によって、人間の感情の支えである資源の消失を引き起こした。
 2011年の後シリアにおける紛争は激化し、パルミラ博物館は盗掘犯から守るために、全ての地下墓の階段を土で満たし塔墓の入り口を覆った。しかし紛争の延長は、その保護作業が墓の彫像や石棺のような重要な物品の存在を盗掘者に知らせてしまったであろうことから、保護された墓までもの盗掘を引き起こした。
 2015年5月のISISによるパルミラへの侵攻の後、彼らは何ら躊躇無く、文化遺産の破壊の開始に手を付けた。博物館の前に展示されていたアラート神殿の獅子像は二年目の7月に叩き壊された。ワルシャワ大学によって発掘・修復されたこの獅子はパルミラの象徴的な物であり、箱のような鉄の板と砂で満たした箱による覆いによって保護されていたにも関わらず、それは重機によって破壊された。それから、ベル神殿、バアルシャミン神殿、そして10基の大きな塔墓といったパルミラの象徴的な建造物と建物の爆破という、このとてつもなく悲劇的な事件が彼らによって引き起こされた。そしてパルミラ博物館は2016年3月にシリア軍が彼らを掃討するまでの約9か月に渡りISISの根城になった。

第三章 美術品のパルミラ博物館からの撤退

 2016年3月の終わりに、我々はシリア軍がパルミラを奪取しISISの手から市街を開放したというニュースを得た。4月4日、DGAMのチームはパルミラに赴くことを正式に許可された。我々はワルシャワ大学のポーランドチームとフランスのICONEMと共に、午前4時に出発した。ダマスカスからホムス、ホムスからパルミラの道のりは非常に長かった。そのグループは考古学者、技術者、建築家、修復家から構成された。ホムスからパルミラへの道の最後の一息は、未だに巡回しているISISのグループのせいで危険であった。その風景は我々がパルミラに近づくほど想定された戦闘よりも暴力的であり、恐ろしかった。我々は午前10時前後に博物館の建物の前に到着し、保護門を開いたが、それらは軍が市街に入った日に即座に行われた。我々は共に博物館の中に共に入った。その光景は非常に恐ろしくまた悲しいものであり、破壊はそこら中に存在し戦いの匂いがその空気に充満していた。葬送用彫像を中心としたISISの到着の前に救出されなかった博物館の物品は、体系的に破壊され床に投げられていた。
 作業はチームに分配されたが、最初の目標は3Dモデルを作るために何かを動かす前に博物館の全ての物を記録することであった。修復家に関係した二つ目の目標は、それぞれのホールの全ての破片の改修とそれらを箱に入れることの開始であった。三つ目の目標は、建築家によって請け負われるもので、考古学的遺跡に立ち入りそれぞれの建造物の損傷を記録することであった。この作業は遺跡の地雷の除去がまだ行われていなかったため危険であり、また遺跡の全ての部分に到達することは簡単ではなかった。我々は日の出から日の入りまで作業を続ける四日間を過ごした。我々はパルミラには寝るための場所が無かったため、毎日ホムスに戻る必要があった。我々はこの作業と、準備されていたダマスカスに輸送される必要がある箱詰めを終えた。半年後、ISISは遺跡を奪取し四面門と劇場の舞台壁を破壊した。幸福なことに、DGAMは博物館の中身をダマスカスに輸送できた。
 その箱はダマスカス博物館で長い時間の期間、閉められ保たれたままであった。違法な盗掘を受けた数百もの考古学的な遺跡、破壊された数百もの建造物、略奪を受けたいくつかの博物館、特にイドゥリブとラッパ博物館の存在といった状況は、DGAMにとって非常に困難であったのである。その戦争は生活の全ての面に対し非常に悪影響を及ぼしたにも関わらず、DGAMの職員はその責務を果たす障害に挑戦していた。シリアで課された制裁は、シリアで活動的であった隊の殆どがDGAMとのコミュニケーションを停止し、更に彼らもまたシリアの文化遺産を見捨てざるを得ないという悪い結果をもたらした。しかし、この全人類の遺産の一部であるこの遺産への希望は未だ残っており、高貴にして愛すべき人々のおかげで、テロによって破壊されたパルミラの像もまたこの世に戻された。

第四章 UNDPプロジェクトにおけるパルミラの葬送用彫像を用いた石製品の修復の訓練

 2019年と2020年に、「パルミラの彫像を用いた保存と修復の方法論の訓練」という計画が始められた。それは奈良県立橿原考古学研究所により実行され、日本政府の支援の元、UNDPによって設けられた。その計画はシリア古物博物館総局によって調整された。
 この計画の目的は、パルミラ博物館にて破壊され2016年に集められた物品のグループや石像の保存の方法論を用いて、ダマスカス国立博物館の6人の職員に対する実践的な訓練を行うことであった。
 この現任訓練は、破片の記録と目録、そして主な事業として原物維持を伴う保存方法の計画立て、箱の中の破片の適切な物品への適合、幾つかの方法による破片の接合、そして、復元の範囲と修復に対する可能な次段階に関する議論と協議に関係した。
 この実践、つまり現認訓練における最優先事項は、2016年四月のISの占領からの解放の直後にパルミラ博物館で集められた石製考古物の原物の維持であった。70以上の物品の収集物はこの計画に起因した。最良の事例の結果は、いかなる復元や見える技術的な要素無しで、彫像のオリジナルの破片のみを提供することである。
 裂け目、割れ目、ハンマーの痕を見逃すことは、破壊と最新の悲劇的な歴史の目に見える証拠として残される。この種の物的証拠は未来に保存するために最も重要である。如何なる復元や新しい要素は、2015年のパルミラ起きたことの否定のようになってしまうだろう。最近の破壊の批評を伴うそれらの彫像は、生贄として、熱狂的で偏狭な主義主張の結果に対して警鐘を鳴らすことができる最良の伝達者である。それらの非言語的な、しかし目に見えるメッセージは如何なる文化・言語においても説明や副題など無しに、普遍的で理解可能である。

第五章 蘇ったパルミラの彫像たち-パルミラから奈良へ:七つの修復されたパルミラの葬送用彫像-

パルミラの司祭の葬祭用胸像

請求番号 2687/9088
寸法:高さ56.5cm、横45cm、幅21cm
由来:「バリカイの墓」
 その葬儀用石板は短い袖のチュニックを着た成人男性を表しており、マンテル(クラミス)は左肩に丸いブローチでしっかり留めている。円筒型の被り物(所謂モディウスハット)は、描かれた人物が司祭であった事を示している。それは中心に円花飾りを用いた月桂樹の花冠で装飾された。大きな目、狭く真っ直ぐな唇、そして大きな耳のようなその個人の顔の特徴は、おおよそ紀元130-140年の間のパルミラ人の肖像画法の典型的な要素である。
 肖像画の両側の石版に刻まれたアラム語パルミラ文字(左に)とギリシャ語(右に)の碑文は、その男性の肖像がMokimuであると明らかにし、彼の正確な命日:138年8月23日をもたらす。全ての可能性において、アラム語の碑文によって示されたところによると、この彫像は138年に遂行された。浮彫の左にギリシャ語、右にアラム語という二カ国語の碑文が朱書された。

修復作業
 赤い層で構成された質の密な石灰岩で作られたその葬祭用男性胸像は、赤の6行の碑文を背景の両側に有する。その彫像は過去に破壊され、それからエポキシ樹脂とミネラルモルタルを用いて修理された。
 2015年に、これは甚だしく傷つけられた。その石板は8つの大きな破片と40の小さな破片に砕かれた。ヒビの幾らかはそれらが以前修復されたところと同じ個所に存在した。古い樹脂とモルタルは鑿を使って除去された。それから、大小の破片はそれぞれの段階で接着されていった。

男女の葬祭用胸像

請求番号 1765(SadurskaとBounni1994:161の1775/6589)
寸法:高さ49cm、横65.5cm、幅22cm
由来:「シャラマラトの墓」
 その葬祭用石板は二名の個人:前面に描写された男女を描いている。女性は長袖のチュニックと外套、そして薄いターバンを覆うベールという典型的なパルミラの装いをしている。彼女の額はヘッドバンドで装飾された。その髪は、束に分けて彫刻された波状の房に整えられた。それらは後ろにかき上げられ、ベールの下でほとんど見えない。その女性の左手は掲げられ、彼女のマントに触れている。彼女は男性像よりも細く掘られている。彼は顎髭のある成人男性でキトンとヒマティオンを着ていた。彼の右腕はきつく彼の吊り帯のようにアレンジされたマントに包まれており、一方で彼の左手は衣服の折れ目を握っている。髪型は3世紀のパルミラの男性肖像に典型的に見られる:それは細緻に彫刻された髪の鋭利に形作られた房から構成された。その男性の熟年は額に刻まれた皺と両側の生え際の後退によりはっきりと示される。
 その顔面の特徴から、それは両方の人物の彫刻された虹彩を伴うアーモンド形の尖った目と窪んだ瞳孔を未だに記録できている。
原初の碑文は消失。
日付:三世紀前半

修復作業
 その密な石灰岩で作られた男女の葬祭用対胸像は、2015年に激しく破壊された。その石板は三つの大きな部位と20以上の小さな破片に砕かれた。その顔面と詳細は傷つけられた。大きな破片はそれらがダマスカス博物館に持ち込まれた後に分けられ、私たちはその計画の開始時では女性胸像の部分を見つけかれなかった。幸運なことに、2020年四月の第二段階において、その女性胸像は発見され、段階ごとに小さな破片は揃えられた。
 彫像の三つの大きな部位の接合は、直径10mmで二つの長さ12cmと24cmのステンレス鋼の棒で補強された。その接着は、構成部分の回転が求められたことから、幾らかの段階にて進められた。

パルミラ人女性の葬祭用胸像

請求番号 9772
寸法:高さ50.5cm、横40cm、幅20cm
 その葬祭用胸像は全面に女性の姿を描写している。その女性は、蔦の葉のペンダントを伴って終わりにする3つの吊り下がった鎖を用いた円形のブローチによって左肩のより下に留められたチュニックと外套から構成されるパルミラの共通的な女性衣類を着ている。
 頭部では、彼女は真珠とターバンとベールの間にアカンサスの葉の模様に刺繍されたヘッドバンドを着用している。その目は落窪んだ瞳孔を伴うアーモンド型であり、瞼は可塑的に表現される。首は水平な溝で印付けられている。その髪は、かき上げられた側面の張りを覗いて、ほとんどベールによって完全に隠されており、二つの長い髪の房が首の両側に流れ下っている。彼女は平面の棒と真珠を用いたイヤリングとペンダントを伴うネックレスと鎖、そして両手首に捻じられたブレスレットを含む宝石で飾られている。更には、頭の両側の丸い構成部分を伴う鎖が、彼女の被り物を仕上げている。その女性は左手で軽く外套のふちを握っており、右手で外套を自身に引き寄せている。
 幾分か冗長なパルミラのアラム語の碑文がその両側に刻まれており、彼女がShalmatであることを明らかにし、彼女の夫の名前Malikuを記録している。その文字は赤顔料を含む。

修復作業
 その女性の葬祭用胸像は灰色の層を伴う質の細かい石灰岩で作られており、背景の右側に6行、左側に7行の二つの碑文を有している。その碑文は赤で書かれていた。
 その浮彫は2015年委大きく破壊された。彫像の上部は傷つけられ、4つの大きな部分と20以上の小さな破片に砕かれた。全ての破片はいずれの補強も無く接着された。

パルミラ人司祭の葬送用胸像

請求番号 9765
寸法:高さ55cm、横46cm、幅20cm
 その葬祭用胸像は、丸いブローチで右肩に括り付けられた外套(クラミス)に覆われ、刺繍された縁で装飾された袖のあるチュニックを着た髭の無い男性を描写している。頭には、円筒状の被り物(モディウス)を被っている。彼は礼拝用の物品を持っている:左手に乳香を含んだ小箱(ピキシス)、右手に献酒のための水差し(アラバストロン)を持っている。彼の顔面の特徴は彫られた同心円を成す瞳孔を伴う円形の目、穴の空いた瞳孔、大きな耳と、真っ直ぐで小さい鼻を表す。
 右に刻まれたパルミラのアラム語で綴られた日付の無い簡潔な碑文は、彼がYaddayであることを明らかにする。その文字は赤い顔料を含んでいる。

修復作業
 とても僅かな黄褐色の層から成る質の細かい石灰岩で作られたその葬送用男性胸像は、背景の左角に赤で書かれた三行の碑文を有している。
 その現物は2015年に大きく傷つけられた。その彫像は約15の破片に破壊された。それらは幾らかの段階において接着された。ステンレス鋼の補強は不要であった。幾らかの破片は2020年4月の計画の二段階目において発見された。その胸像は殆ど完成された。

宴会の場面の男性頭像

請求番号 7221または7222
寸法:高さ27cm、横20cm、幅24cm
 その頭像は巻き毛の髭を蓄えた男性を描写している。その頭は僅かに右に傾いている。殆ど正方形の顔は重く上瞼;下瞼は薄く頬に隠れる傾向がある、を伴うアーモンド形の目を有している。瞳孔は彫られた円によって示される。その眉は写実的に短い彫刻の一筋で表されている。鼻の現存している部分は唇がふっくらしていたことを示している。
 その頭像はことによると、パルミラの葬送用芸術においてごく一般的な、宴会場面の殆ど丸彫りに彫られた彫像であったかもしれない。
日付:紀元3世紀

修復作業
 赤い層を伴う質の細かい石灰岩で作られたその男性頭像は未確認の宴会場面の葬送用彫像の破片であったかもしれない。その全体の顔面は5つの破片に傷つけられた。それらは発見され接着された。

パルミラ人司祭の頭像

請求番号 7223
寸法:高さ33.5cm、横:21cm、幅23cm
 その頭像は花輪にされたモディウス帽を被っている。その月桂樹の花輪は中央において、小型の小胸像を取り囲んでいるトンド(絵画又は彫刻のいずれかの円形作品)によって装飾されている。その今日は殆ど完全に失われた個性が描かれた卵型の顔は、深く窪んだアーモンド形の目、鋭利に切られた上瞼、そして刻まれた眉を表している。その鼻はまっすぐである。
 その口は狭い溝によって分けられた両唇を以て写実的に表現された。その男性は小さなえくぼが示される際立って特異な顎を有している。
 首のその位置は、その頭像が本来は前面に面していたことを示している。それは、後ろ側における支柱としての首を示していることから、殆ど丸彫りに彫られた彫像の一部であったに違いなく、また宴会場面のものであった可能性がある。
日付:紀元3世紀

修復作業
 その男頭像は宴会場面を伴う同定できない葬送用石板の断片である。その石はピンク色を有する質の細かい石灰岩であり、その像の台に準じて類を見ないものである。その顔は大3、小6の9個の破片に砕かれ、それらは発見され接着された。

女性の姿を伴う葬送用石板の破片

請求番号 1771(シャドゥルスカとボウニにおいて19994:153)
寸法:高さ24cm、横36cm、幅26cm
由来:シャラマレットの墓
 この破片は、パルミラの葬送用彫像で最も知られる葬送用肖像の一部だった。それはベールで被われた頭を伴う若い女性を描いている。彼女の額は花模様に豪華に刺繍されたヘッドバンドで装飾されている。女性の卵型の顔は、二つの同心円によって示された虹彩と瞳孔、そして刻まれた眉を伴う、角の外側まで引き伸ばされた大きな目を表している。その鼻は真っ直ぐであり、人中は写実的に表現された。彼女の彫刻された溝によって分けられた両唇を伴う口は小さい。その耳は大きくブドウ型のイヤリングで飾られていた。ヘッドバンドの下の現れているそれぞれの小さい巻き毛を除いて、その髪は見えない。
 彼女の碑文は現在消失しているが、おそらくその浮彫の左側に存在した。
日付:約2世紀中頃

修復作業
 石灰岩で作られた葬送用女性胸像の一部は、頭部と右側の背景の破片である。2015年にその顔は一つの欠片に削ぎ落され、左頬には幾らかの小さな損傷もまた存在する。その破片はステンレス鋼の棒(直径6mmで長さ8cm)の補強を用いて接着された。

第六章 胸像とパルミラの人々

 地下墓である墓CはYRHYによって紀元109年に建てられた。彼の房室を塞いでいたYARYの胸部彫像は長方形の板が刻み出されたもので、高さ57.6cm、横45.1cm、幅約10.3cmである。彼の左肩の上には三行の碑文が存在し、YRHYとLSMSの息子、HTR`と呼ばれたMLKの息子。YRHYの目は、二つの刻まれたものと虹彩と瞳孔の境界を混在した同心円によって表現されている。彼の目は大きく開き、わずかに上を見ている。その頬はこけ、落ち窪んで見える。その髪はS字型に軽くウェーブしている。その首はなだらかに終らされ、水平の線を伴った写実的な像を示している。
 YRHYは逞しい成人男性(40-59歳)である。その頭蓋骨は一般に大きく、眼窩円環と筋肉挿入が発達した。その頭蓋は墓Cの遺体の中で最も大きかった。頭骨の最長は203mmであり、墓Cの遺体の頭骨の平均長さは186.5mmであった。その頭蓋骨は長頭的な特徴を表している。その左半分は失われ、その顔は他のものの横幅よりも高い。眼窩円環は強く突出し、深い鼻腔の陥没が見られる。鼻骨の頂点は破損しているにもかかわらず、その高い鼻頂が特徴付けられている。眼窩(orbit)は広く、墓Cの遺体の平均に対し低い眼窩形を表す。その下顎は逞しく下顎枝は広い。その顎の角度の突出は珍しい。上顎の突出は顕著ではない。歯の咬合は強く、端から端の嚙み合わせを示す。
 YRHYの頭蓋骨を用いた復顔はロシアと日本で実行された。両方とも、頭蓋骨の形状と頭蓋骨のそれぞれの位置における組織の幅を基本的に理解した。そのロシアと日本における復顔の結果は、その顔の頬や顎といった概要の共通した特性を表すが、目の感情的な感覚は全体的に異なる。双方の製作者は共通した特徴を表現し、骸骨に組織を塗る非常に正確な技術を見せた。
 そのYRHYの骸骨の復顔と、再現された顔と彼の彫刻された顔の比較を通して、パルミラの葬送用胸像は死亡者の肖像であると言える。YRHYの彫像は彼らの存命中に制作されたか、彼らの存命中に描かれた肖像を元に制作された。その彫像は彼らの生き生きとした表現、特に頬と顎の顔面的特徴の概要を反映する。そして、彫像の顔は死亡時よりも若く見えるように制作された。彫刻家は葬送用彫像の彫刻において、その死の前の知識を持っていたに違いない。南西ネクロポリスの地下墓には、とても精密な壁画が存在する。パルミラの人々は彼らが存命中に、芸術家に重要な家族の構成員の肖像画を描くように頼み、それから、彫刻家に彼らの死後に胸像を基礎づけるように頼んでいたであろう。その家族は死亡者についての更なる情報を、彫刻家を更に助けるために提供していたであろう。それは、2世紀ごろ以降、芸術家がパルミラの肖像を作成するために働いたことを示す。それらの葬送用胸像は、最終的に肖像画として死者を象徴し、死者の記念写真として振る舞った。パルミラにおける葬送用胸像の出現はパルミラの葬儀習慣に対して非常に重要である。死亡者の家族の構成員は、彼らがその墓を訪問するといつでもその彫像を通して死者を思い出すことができた。死者に関係した人々は、「永久の家」において死者を見るために、こうして墓を訪問したであろう。

第七章 UNDPプロジェクトにおける文化遺産に関するシリア人専門家への様々な訓練計画

 2011年から、DGAMは危機に瀕した文化遺産の保護の多くの挑戦に面している。器具と資料の不足と同様に、能力の低下、人員の欠乏は、この悪影響の多い時代の間、シリアの文化遺産の保存への業務についての深刻な問題になった。シリアの日本大使館は、シリアの文化遺産の保存のために、UNDPを通したDGAMへの幾らかの支援を表明した。その日本の支援は、価値あるシリアの文化遺産をUNDPシリアのもと、未来に向けて保存し役立たせるために、DGAMの若いシリア人技術スタッフの能力育成を優先した。
 その計画は、文化遺産の分野におけるシリア博物館古物総局のスタッフとシリア人考古学専門家に対する専門化された訓練の提示により、シリアの専門家の能力を強化するだろう。この計画は「シルクロード友好計画」と名付けられ、UNDPとの連携において2017年から橿考研によって実行されている。
 その計画の開始を印付けるのは、「次世代に向けたシリアの文化遺産の保存:パルミラ―奈良からのメッセージ」(A)と題されたシリアの文化遺産に関する日本における国際会議が2017年7月に組織されたことと(西藤、杉山2018年版)、2018年2月と3月における最初の訓練計画「次世代に向けたシリアの文化遺産の保存:ベイルートのワークショップ」(B)である。それら二つのイベントを通して、カティハル研究所(インド)とUNDPシリアは訓練計画を実行するための様々な重要な点を確認した。その追随した計画は、UNDPによって後援された日本、ポーランド、そしてレバノンの他の大学と研究所の協同を伴う橿考研による活動の指導により実行された。
 2018年5月から2018年12月の2017年計画にて、六つの訓練計画、即ち⑴文書化、⑵建築物の損傷評価、⑶人工物の保存と復元、⑷紙や本の保存と処理、⑸考古学的特徴の電磁石的探査、⑹人工物の展示と保管、が日本で実行され、そして三つの訓練計画、即ち(7-a)文書化(追加訓練)、(7-b)建築物の損傷評価、(7-c)人工物の保存のための環境処理、がレバノンの古物総局の協同を伴って実行された。19人のシリア人が日本における訓練計画に参加し、12人のシリア人がレバノンにおける訓練計画に参加した。
 2018年8月から2019年8月の2019年計画にて、六つの訓練計画、即ち⑻文書化、⑼建築物の損傷評価、⑽人工物の移送、⑾人工物の保存、⑿木造建築物の修復、⒀鎮火システムを含む歴史的建造物の保存、が日本において実行され、一つの訓練計画、即ち⒁文化遺産遺跡と博物館の防衛に焦点を当てた意識の向上、が実行された。15人のシリア人が日本において参加し、50人のシリア人がレバノンにおける二日間の計画に参加した。
 2019年11月から2020年四月の2019年計画にて、二つの計画が実行された。⒂「石製品の保存と修復の方法論の訓練―パルミラの彫像への保存と修復に向けて」がポーランドのワルシャワ大学で実行された、そして⒃「パルミラの彫像を用いた石製品の保存と修復の方法論の訓練」(第四章を参照)がシリアのダマスカス国立博物館で実行された。ポーランドの三人のシリア人が約二か月に渡ってその計画に参加した。最低でも11人のシリア人が、コロナ禍のもと3か月に渡りダマスカス国立博物館でのその計画に参加した。日本における2019年計画はコロナによって実施されなかった。
 唯一の2020年計画にて、⒄「ダマスカスにおけるパルミラの彫像の修復に向けた追加訓練」(第四章を参照)はコロナ禍下の困難でも、ポーランドの保存家の努力により、2021年の3月から4月にダマスカスにおいて実行された。4人のシリア人がそのプログラムに参加した。


これは上記企画展で無料頒布されていた英語冊子を、個人的な学習のために超拙訳したものです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?