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Appreciation:感謝

Messages from
Hoag's Object


すべてのことのついて感謝しましょう。感謝することは愛のエネルギーを向けることであり、それは壮大なる宇宙の力を行使することになります。

感謝とは、愛であり、肯定であり、受容であり、和合であり、慈悲であり、謙遜であり、喜びであり、賛美です。

また感謝とは、与えることであり、受け取ることであり、相互のエネルギーのバランスが取れている状態です。

すべての事柄、ものに感謝の念を送りましょう。また言葉に出して表現しましょう。 感謝は癒しをもたらします。また感謝は奇跡を起こします。 心から感謝して生きることが、宇宙の波動と調和して生きることです。

人には感謝を行使する特権が与えられています。

それは宇宙の無限のエネルギーを用いることができるという意味です。

もし感謝することが見つからないと言うのであれば、今日一日の出来事を、事細かに書き出してみましょう。感謝できることが必ずあるはずです。

それでも見つからないと言うのであれば、生きていることを感謝しましょう。

生きていることそのものが奇跡だからです。

それでも感謝を感じることができないと言うのなら、そうできない自分をしっかりと感じてみましょう。

感謝できない自分がいるのだと...

大丈夫です。

どんなときにも、私はあなたを見守り、導いています。

あなたの存在に感謝します。

ありがとうございます。


許しとは、傲慢さの表れである

キリスト教文化の中で育った私が、とてもショックを受けた言葉がありました。それは、

「許す必要はない。許しとは傲慢さの表れだからである」

というものです。

これはとある著名なメンターの言葉です。

彼の説明によれば、許しというのは、許す、許さないという、二元性の原理の上にある概念であるということです。

つまり、許す方は、許される方に対して、「自分は正しい、あなたは間違っている」、あるいは「自分は良い(善)が、あなたは悪い」という立場から、「あなたを許します」と言うわけで、それは傲慢さ以外のなにものでもないということなのです。

キリスト教に学び、教会の牧師にまでなった私にとって、この言葉は、大変な驚きと同時に、頭を殴られたようなショックでした。


キリスト教では、

「七度の七十倍ゆるしなさい」

というキリストの教えが有名です。

当時のユダヤ教の教えの中に、同じ人から何か良くないことをされても三回までは許しなさいというものがあったと言われています。

ある時弟子の一人が、キリストに尋ねました。

「罪を犯した人がいたら何回許せばいいのですか? (一般では三回まで許せと教えられていますが)七回までですか?」

この弟子は多めに見積もって七回と言ってみたのですが、それに対してキリストは、七回の七十倍許しなさいと教えました。

ユダヤにおいて数字には意味があるのですが、7という数字は神の完全さを意味していました。それを70倍しなさいというメッセージには、「限りなく許しなさい」という意味が込められていたのです。


限りなく許すことはできるのか?

もしあなたに対してひどいことをする人がいて、あなたはその人を限りなく許すことができるでしょうか?

おそらく「自分は正しい、向こうが間違っている」とか、「自分は悪くない、向こうが悪い」「私は被害者だ、向こうが加害者だ」と思っている限りは、無制限に許すことはできないと思います。

仮に許せたとしても、何らかの条件がついた「条件付きの許し」になるのではないかと思います。

もちろん条件付きであったとしても、相手を許し、怒りや恨みのエネルギーを注ぐことをやめるのであれば、そのことがもたらす恩恵には計り知れないものがあります。

条件付きであっても、許さないよりは、遥かにましなのです。

限りなく許すことは、「無条件の許し」と言い換えることができるでしょう。

無条件の許しをもたらすものは、無条件の愛です。

これらのものは、二元性の概念を超えたところにあるものです。

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分離された自己

人が何らかの理由で、愛に満ちた状態から、バランスを崩してしまうと、それまで統合されていた一つの私の中に、「自己正当化」と「自己卑下」という2つのペルソナを作り出してしまいます。

ペルソナとは、人格や性格の元となるものであり、その人の価値観や判断基準です。

これは主に恐れの感情がもたらすものですが、その原因のほとんどはカルマによって受け継がれてきたものです。

心理学者のアドラーは、性格は自分で作り出したものだと説きましたが、その理由は、性格の大元が、恐れの感情によって作り出されているからなのです。


恐れの感情による時間の創造

恐れの感情は、数々のペルソナをも生み出しますが、同時に、過去と未来をも創り出します。

過去は記憶で構成され、その根底には感情があって、主に「罪悪感」という感情が支配しています。

未来は想像によって構成され、同じくその根底には感情があり、「恐れ」によって支配されています。

私達の本来の愛に満ちた魂は、時間や空間に支配されない「いま、ここ」にある存在です。

しかし、過去や未来を創り出すとき、私達のもっている潜在的なエネルギーは浪費されています。

過去や未来は、私達一人ひとりの心が創り出している概念でしかないからです。

こうして人は、恐れの感情によって統合された状態を見失い、自己を分離させ、時間を創り出し、ただ純粋に「今、ここ」にいることができなくなってしまいました。

このことが真理への帰還を難しくしています。

自分たちが創造した時間の世界の中で、延々と輪廻を続けているのはそのためです。

では、分離された自己を統合し、今ここに在り続けるにはどうしたらよいのでしょうか。

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六道輪廻からの解脱を願う六角堂(回転する六地蔵尊)
(群馬県渋川市・水澤寺)


二元性を超えた概念を体現する

この二元性の世界にあっても、二元性を超えた統合された生き方を実践することは可能です。

そして二元性を実践している人々の特徴は以下のとおりです。

・判断を手放す
・喜びと悲しみを受け入れる
・すべてのことに感謝する

このことを実践することが、無条件の愛、無条件の許しに至り、また解脱へ至る道です。


判断を手放す

判断というものは、自分が得するか損するか、益があるかないか、害があるかないかといった、基準でなされるのがほとんどです。そしてそれは自分が損をしないようにといった恐れからくるものです。

恐れの感情に支配されている人は、何に対してもこういった判断をします。

恐れを手放すことの第一歩は、判断を手放してみるということから始まります。


喜びと悲しみを受け入れる

「悲」という漢字には、「悲しい」という意味と同時に、「恵み」という意味もあります。悲しいさと、恵みが一緒にあるのが、「悲」であり、いつくしみという意味の「慈」と合わせて「慈悲」と書きますが、単に苦を取り除いて楽になるということではなく、そこにこそ神の恵みがあるのだという深い教えです。

実際、悲しみの伴わない幸せはありませんし、幸せの伴わない悲しみもありません。

人は悲しみを感じるからこそ、幸せを感じられるのであり、また幸せだからこそ、悲しみを体験することができるのです。

それらは陰陽の如く、セットであり、どちらも切り離して存在することはできません。

善悪も同じですし、光と闇も同じです。

苦痛と快楽も同じです。

苦痛を感じている人は、それと同じだけの快楽を感じているはずですし、快楽を感じている人も、それと同じだけの苦痛を味わっています。

どちらか片方だけに偏っているように感じるのは、単なる錯覚であり、一方にフォーカスしているだけだからです。

要するに、ここでも損得の判断や、恐れの感情が、一方だけにフォーカスするように働いているに過ぎません。

苦痛を感じている人は、その状態に居続けるメリットを感じています。それがあまりに無意識なので、自分でも気づかないでいるのですが、もし、本当に苦痛しか感じないのであれば、そこから真っ先に逃げるでしょう。熱いお湯に誤って手を突っ込んだら、瞬間的に手を引くように、逃げ出すはずです。

しかし、そうしようとしないのは、苦痛と同じだけの快楽や、なにかメリットや得することがあるからに他なりません。

その事実に気がついたとき、双方のバランスを取ることができるようになってきます。

そこそこの快楽と苦痛で十分だと思えるようになってくるのです。

平和とはバランスです。


すべてのことに感謝する

「私はあなたを許します」と言う時、あなたはあなたに対して「申し訳ありません」「ごめんなさい」という人を引き付けているということに気づいているでしょうか。

つまり「許します」「申し訳ない」の土台には「罪悪感」があるのです。

罪悪感は過去に生じた未完了の感情であり、自分への嫌悪感です。

「自己正当化」と「自己卑下」は光と闇と同じようにセットなのです。

・許します = 自己正当化
・申し訳ない = 自己卑下

しかしこれは罪悪感がもたらす感情の裏表でしかありません。

許す人は罪悪感を感じている人を引き寄せ、哀れな罪人は許してくれる人を引き寄せます。

被害者と加害者も全く同じ関係です。

・被害者 = 許す人
・加害者 = 許される人

あなたが誰かを許そうという傲慢さを持っている限り、加害者を引き寄せ続けます。

加害者も同じく、自分を許してくれる人を求めて、罪を犯し続けるのです。

このようなことに気づき、自分の中にある、たくさんのペルソナ、判断、価値観に気が付き、分離しているそれらのものを受け入れられるようになってくると「統合」がおきてきます。

分離しているものが統合し始めると、二元性を超えることができるようになってきます。

つまり、許すとか許さないを超えた状態。

許しを超えた状態こそが「感謝」です。

幸せにも不幸せにも、喜びにも悲しみにも、苦痛にも快楽にも、ありとあらゆることに感謝できる状態こそが、真の超越的な許しの状態、つまり「無条件の許し」「限りない許し」です。


この世界は学びのためにある

「この経験を授けてくれてありがとう」

これがこの世界の歩き方の極意です。

私たちが、様々な人と出会い、その関係性の中で、楽しいことも悲しいことも体験するのは、その経験を通して、自分が見ないようにし、愛してこなかった部分に気づかせてくれ、しかも愛する機会までも与えてもらい、自らの内でバラバラになっていたペルソナを統合する機会を得るためです。

感謝し愛することを通して、カルマはなくなります。

感謝し愛することを通して、分離が統合されていきます。

感謝し愛することを通して、魂は解脱に導かれます。

出会ってくれて、ありがとうございます。

この経験を授けてくださり、ありがとうございます。

愛する機会を与えてくださり、ありがとうございます。

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