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Waves of Light : 光の波動・神は私ということ
Message from CRL2688 Egg Nebula
すべては波動です。この世界はただ一つのエネルギーで満ちています。エネルギーに違いはありません。そのエネルギーの上を波動が行き交うことによって世界が生じるのです。
つまりあなたが見ているものは、単に波長の違いであり、本質的には同じものです。
違うものなど一つもありません。
神と私、天使とあなたの間には、一切の差異がないのです。
ゆえに神は普遍であり、偏在します。
神とあなたの間に差異などあるでしょうか。もしそうなら神は無限ではありません。神が無限ではないとしたら、この世界は瞬く間に消えてしまうでしょう。
しかし、あなたはここに在ます。
それこそが、神が存在するまぎれもない証拠なのです。
波動を感じて下さい。光を感じて下さい。あなたと宇宙とをつなぐ波動を感じて下さい。
つながっていないものなど一つもありません。すべてはグラデーションのように連続した密度なのです。
あなたは一人ではありません。
世界があなたと共にあり、またあなたも世界なのです。
世界がひとつなのは、神がすべてとひとつだから
星からのメッセージをお伝えしています。
今日のメッセージは、CRL2688 たまご星雲と呼ばれる美しい銀河からのメッセージです。
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二元性の世界に生きている私たちは、なにかとものごとを分けて考える癖がついています。
しかし、それらはすべて見かけ上のことであり、実際はすべてひとつなのだということなのです。
神が無限であることの理由は、「差異を見出すことができない」ということにあります。
それは、神と、これとを分けて観測することができないということなのです。
もし、神とこれとの中に、ちょっとでも差異があったとしたら、神は観測可能な対象だということができます。
観測可能になるということは、文字通り、神を測ることができるということを意味します。
もし神を測ることができるのだとしたら、その神は有限であり、無限ではなくなってしまいます。
つまり、それはもはや神ではないということになります。
この世界の真の創造主である神は無限と言われます。それは観測不可能であることを意味します。
観測不可能というのは、差異を見出すことが不可能であることを意味します。
つまり、神とこれとの間に違いがないのです。
具体的にはこうです。
神と、山との間に違いはない。
神と、川との間に違いはない。
神と、海との間に違いはない。
神と、大地との間に違いはない。
神と、空気との間に違いはない。
神と、樹木との間に違いはない。
神と、草との間に違いはない。
神と、花との間に違いはない。
神と、昆虫との間に違いはない。
神と、動物との間に違いはない。
神と、石ころとの間に違いはない。
神と、パンとの間に違いはない。
神と、目玉焼きとの間に違いはない。
神と、フライパンとの間に違いはない。
神と、人間との間に違いはない。
神と、善人との間に違いはない。
神と、悪人との間に違いはない。
神と、光との間に違いはない。
神と、闇との間に違いはない。
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神と、あなたとの間に違いはない。
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神によって、あなたと世界のありとあらゆるものとの間に違いはない。
そこには、どんな違いも見出すことができません。
神は私であるということ
人が覚醒に至るまでには次の段階を踏むと言われています。
1.私と神は一つである
人が覚醒の道へ入ると、まず神を求めるようになります。ここでいうところの神は、創造主のことを意味します(人は創造主以外の別の神になることもできますが、それについては別の機会にお話しします)。
創造主なる神をひたすら求め、自らもそのようになりたいと願い、神の性質である「愛」を実践していくと、その過程で、あらゆる「怖れ」や「判断」が剥がれ落ちていきます。それは自らのエゴと向かい合う作業でもあります。実は「苦行」の本質は、エゴと向かい合うことです。
肉体を痛めつけるような苦行は、「苦行」の本質とは異なります。真の苦行は自らのエゴである、怖れや判断と向かい合い、それを解放していく過程のことを言います。そしてそれを可能にするのが、「愛の行為の実践」です。
愛の行為を実践しようとすると、私たちの中から、さまざまな抵抗、判断、損得勘定、怖れなどが出てきます。それらと向かい合い、克服していく作業が、苦行であり修行です。
こうして、その過程を一つずつ登っていくと、やがて人は覚醒の最初の段階に到達します。それが、私と神は一つであるという認識です。
2.私は神である
さらに修行を続け、神への認識を深めていくと、人は次の覚醒のレベルに到達します。それは「私は神である」という段階です。
これは、自分と神との間に一切の差異がないことを認識し、同時に自らの神性に目覚めている状態です。ただ、意識の上で、自分と神という認識が残っています。
歴史上の人物としては、ブッダや昇天前のキリストがその状態でした。
この状態は、神からのギフトであると言われています。
人が自らの力でこの状態に至ることはできないと言われます。人は愛の実践を通して自らの怖れを解放することで、この状態に至る門の前まで行くことができます。
しかし、最終的にその門を開いて下さるのは神ご自身です。それがいつどのような形で与えられるのかは、人にもわかりません。それは神に対する100%の信頼という試験でもあります。
3.私は私である
私と神という意識上の区別もなくなり、自らの神性が完全に顕現されている状態です。この状態にある人は、もはや人でいることにこだわらず、大抵は人々の前から姿を消してしまいます。
この世界には1000年以上生きている人々が、世界各地に人知れず生活していると言われています。有名なババジもその一人ですが、実はババジのような人は他にもいると言われています。
彼らは地球の惑星意識と一つになってこの世界のバランスを保つ働きをしているのだそうです。
判断を手放すということ
判断というのは、自分の心の目にフィルターをかけることを意味します。
フィルターの原料は、観念、思い込み、決めつけ、誤解などなど...
フィルタが強すぎれば、それは独自の世界観を作り出し、その人にしか見えない世界が出来上がります。
どちらにしても、大なり小なり、人はさまざまな判断をもってこの世界を見ています。
実はそのことが、さまざまな人間関係のトラブルの原因となっています。
愛の行為の実践とは、この判断を手放し、世界をありのままに見ていく作業のことでもあります。
すべての人は、自らの判断や観念で作り上げた世界観の中に生きています。自分もそうですし、相手もそうです。
自分を理解しようとするときも、相手を理解しようとするときも、「ありのままに見る」ということが最も重要になってきます。
見たい自分も、見たくない自分も、アピールしたい自分も、隠しておきたい自分も... すべてありのままに見ていくこと。
ありのままに見ていったとき、そこに真実が明らかにされます。
その真実に対して、愛を注いでいくならば、奇跡と癒しが起きるでしょう。
そして「すべては愛なのだ」という認識に至るでしょう。
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