ファイナルグライド#10
雑感:ようやく第一戦の決着がつきます。この作品のテーマの一つにフライトはそれ自体が何かを表現している、というものがあります。パラグライダー競技は立て続けに訪れる判断の連続で、その一つ一つをどう裁き、どう難関をクリアするかでトップクラスの選手のフライトは何かを表現し得るという考え方です。たとえば今回、ゴール直前の裁きで、3人のパイロットの性格、判断の傾向、そしてツキが表現されています。多くの言葉を尽くすより、マージナルな決断を迫られた時、どう行動するか? それにどんな答えが返ってくるか? で、その人、そのものを判りやすく表現出来ると思うんです。今回は、3人の性格を読み取ってお楽しみください。
ミス
慶太はレックスのパイロットのミスをひたすら待ち続けていたはずだった。見つけ次第そこを突いて首位に立つために、常に緊張感を張り巡らせていたつもりだったのに、意外にも彼女のミスに気づいたのは彼女がミスを犯してからだいぶ経ってからのことだった。
北の尾根を飛び越えて最終パイロンのある平野に出た3機は、縦に長い先頭グループを作り上げて手早く湖畔の最終パイロンを回りこんだ。強くなった南風に逆らいゴールに入るという最後の難関に向けて、慶太のオメガ5とレックスとはパイロンを回り込んですぐのグランドサーマルでセンタリングをしていた。レックスは強い風に流されながらも慎重に高度を稼いでいた。慶太はそのレックスの下80m付近でセンタリングをしながら何かがおかしいことに初めて気がついた。今までだったら慶太がサーマルを離脱して次のサーマルへの移動を開始しようとすると、必ずレックスに一歩先を越されていたのだ。延々とそれを繰り返してきたので、ついつい今回も一緒にセンタリングしていたのだが、どう考えても、もう次のサーマルへ移動を開始した方が良いタイミングなのだ。確かにまだサーマルトップまで上がりきってこそいないが、海風によって空気の透明度が落ちて、なおかつ層雲に太陽を翳らされた今、サーマルの強さは目に見えて落ちてきており、上昇率の弱い所では下手をすると回して向かい風に戻される分だけロスになる。
慶太は一瞬迷った。南の尾根でのローターの一件が頭をよぎったのである。また何か自分の気づいてはいない要素があって彼女は粘っているのだろうか?しかし、自分の判断が信じられなくてなんのコンペティションだろう?慶太はセンタリングの途中からアクセルに足をかけ、加速しながら風上側にサーマルを抜けた。ちょうど入れ違いに少し低い位置に内藤が入り込んでセンタリングを始めた。目の前では北の尾根上にたまっていたセカンドグループの選手達が意を決したように一斉に平野に向けてグライディングを開始し始めた。(しめた!これでダミーが散らばってくれる。)ふと思い当たる所があって振り向くとちょうどレックスがサーマルを離脱してグライディングを始めた。(ははあ、彼女はこれを待っていたのか。)なかば納得しながら慶太は何かひどい違和感に悩まされていた。ダミーがちらばるまでスタートを切らないなんて前半の彼女の飛びとはかけ離れすぎている。まるで別人のようだ。ともあれ、彼女の方が依然として高い位置にはいるが、これで慶太は再びトップに立った。ふと気づくと内藤もまた慶太達のいたサーマルをそこそこに切り上げて慶太を追って来つつあった。内藤も先を急いでいるのだ。(もしかしたら内藤さんも僕と同じ心配をしているのかもしれないな。)慶太は思った。
内藤
内藤は焦っていた。海風が入ってコンディションが失速気味にタレるのはこのエリアのおきまりパターンなのだ。ゴールは次の尾根さえ越えてしまえば滑空比内で到達できる。今デッドヒートを繰り広げているこの3機の勝敗を決するのは、次のサーマルで北の尾根を越えられるだけの高度を確保できるか否かにかかっているのだ。つまり勝負は今入っているこの弱くて流されているサーマルでは無く、次に当てるサーマルで決まる。3人がほぼ同時にゴールした場合、タイムではあきらかに内藤がトップになるだろう。そしレックスのパイロットか慶太か、どちらか早くゴールした方が2位になるのだ。そして3人共が尾根を越えられなかった場合は全員同じ所に降りて、後からやってくる集団とともに100m刻みで距離得点を競う面白くないレースになる。そしてこれは内藤の一番恐れている展開なのだが、この3人の内誰かが尾根を越えられて、誰かが越えられないという可能性もまたある。過去に内藤は松田とともに、何度もすぐ後ろについてきているパイロット達を尻目に、ぎりぎりで尾根を越えていったことがある。そうなった場合に一番不利なのは今一番低い位置にいて一番遅れている内藤なのだ。
しかし、あのレックスのパイロットはどうしてしまったのだろう?急に飛びに切れが無くなってしまった。流されたサーマルに止まりすぎて、多分次のサーマルでは自分に追いつかれるだろう。その点慶太は良い判断をしている。内藤さえゴールしなければ今日のヒートは慶太が取るだろう。しかし、内藤としても慶太にトップを譲る気持ちなどはさらさら無かった。(こんな面白いレースで負けるなんてどう考えても悔しすぎるじゃないか!)そう思うと内藤は慶太を追うべくサーマルを離脱した。
ラストサーマル
北尾根を離れた後続集団は尾根のすぐ北側で弱いサーマルを拾って慎重に回している。高い位置にいる彼らと、考えられるサーマルのトリガーを結んだ線上を目指して慶太はグライダーを進ませていた。日差しは目に見えて弱くなってきており、いつ彼らの回しているサーマルが終わってしまうか解らないという状況だ。眼下の北尾根は近づくにつれてゆっくりと視界の中を上へとせり上がって来つつあった。やがてゴールへの最後の壁として
立ちはだかるであろうこの尾根を越えるためには、どうしてももう一つサーマルを拾わなければならないのだ。慶太はサーマルが続いていてくれることを祈りながら上空でセンタリングをしているグループの下に入り込んだ。バリオは沈下音を鳴らしつづけており、ブレークコードにはなんの手応えも伝わってこない。オメガ5は何の兆候も慶太に伝えないまま上空のグループの下を通り過ぎようとしている。なんてことだ!このあたりに止まってサーマルを探るべきか?先行して他のサーマルを捜すか?それとも尾根の先端に向かって回り込めるかを試してみるか?いくつもの選択肢が一瞬にして頭の中を渦巻いてパニック気味になった瞬間、弱いリフトの手応えを右側のブレークコードが伝えてきた。軽く右に体重をかけるとオメガ5はサーマルに反応してすっと右に機首を傾けた。同時に軽く右のブレークコードを軽く引き込んでやるとエアスピードが増していく感触と共にバリオが
心地よいリフト音を奏で始めた。これに反応するかのように慶太を追う内藤とレックスもぐっと速度を上げた。レックスは前のサーマルで流されていたのが祟ってサーマルに取り付いた所で内藤に追いつかれた。慶太は高度を稼ぐとともに再び北尾根が眼下の景色に変わっていく感触を楽しみながら、ゴールへの切符を手にした勝利感を満喫していた。ふと下に目をやるとレックスと内藤のファラオが一瞬うろたえたように迷走した。と同時に、
ついに尾根ごしに慶太の視界にゴールが飛び込んできた。
しかし、こみ上げてきた喜びをじっくりと味わう間もなく、次の瞬間慶太は突然にリフトから放り出され、バリオのシンクアラームが不愉快な音をがなりたて始めた。サーマルの終端が暴力的な乱気流とともに慶太の居る所を今通り抜けたのだ。下の2機の動揺はこれだったのか!目を離した僅かの隙にレックスとファラオとはまっすぐに尾根を目指してグライディングを開始していた。慶太も間髪をいれずにこれを追ったが虎の子の高度をだいぶロスしてしまった。尾根を越えるには慶太の高度でもぎりぎりの線だ。下の2機はいったいどうするつもりなんだろう?慶太が下を見ると内藤が尾根の先端よりにコースを若干変更した。尾根の前よりの低くなっている所を回り込んでゴールに向かおうという作戦のようだ。再び前方の尾根に目をやると尾根はすごい勢いで視界の中を競り上がって来つつあった。
このまま突っ込むか?それとも内藤達のコースを取るか?慶太は一瞬の逡巡の後にアクセルをぐっと踏み込んで、空気抵抗を減らすためにハーネスの上に寝そべった。近づくにつれて尾根筋が競り上がってくる勢いが幾分和らいだ。尾根に集まるリフトの影響を受け
始めたのだ。しかし、吹き抜けに入ってグライダーの前進もまた足を止められた。慶太は緊張感を漲らせて殴りつけてくるように吹き付けてくるブローと格闘した。すると突然肩すかしをくらうように風がふっとやんで、慶太のオメガ5は暴力的にシューティングに入った。慶太は予期していたかのように最小限の操作で潰れを押さえ、その速度を生かしてまたわずかに前進し、尾根上に入りこんだ。(南の尾根と同じ失敗は2度と繰り返さない!)慶太は歯を食いしばりながらそう思った。しかし、今の高度ロスで慶太の下の木々の梢との高度差はわずか10mたらずにまで縮まっていた。10mとは言わずに後5m高度を落としただけでウインドグラジェンドの影響を受けて慶太はこの木々の上に降りてしまうだろう。南に落ち込んでいる斜面まではもう目と鼻の先だ。後わずかに20m足らず、なんとその距離の遠いことだろう。じりじりしながらゴールへの最終関門を慶太が睨み続けていると、南斜面を吹き上げてきた風が暴力的に慶太のオメガ5を突き上げた、このまま押し下
げられたら確実に山沈する!慶太はアクセルをぐっと踏み込みながらこの煽りをこらえ、次にくるシューティングのタイミングを待った。
この次の瞬間で総てが決まる!キャノピーがすっと前に出るのを最小限の操作でうまく走らせて慶太は沈下しながら滑るように前進した。南に落ち込む斜面の直前に立ちはだかる木々の梢がすごい勢いで慶太の数m下を通り過ぎていく。次の瞬間歯を食いしばって眼下を見守る慶太の下にぽっかりと広がる空間が出現した。ついに尾根の南側にこぼれたのである。もうゴールは眼下の手の届きそうな所にある。慶太は興奮とともにアクセルを踏み込んでファイナルグライドに入った。
あと5m!
やられた!内藤は心の中で叫んだ。内藤とレックスが尾根を越える有効高度に達するより僅かに早く、最後のサーマルは通り過ぎていってしまったのだ。この谷でここまで雲が張ってしまうともう好転は望めない。残されたチャンスは尾根の先端を回り込んでフォローでゴールに向かうしかない。内藤は慎重に下降気流の影響のなさそうな所を選んで尾根の先端を目指した。レックスは少し高い位置で後ろについてきている。後続集団は最終パイロン付近でサーマルを見つけられずに右往左往している。どうやら今日のサーマルタイムは完全に終わってしまったようだ。高度を落としてくると、まだわずかに対流は残っているらしく、平地から吹き上げてくる上昇気流のかけらが内藤をこづくように押し上げてくれるようになった。ローターの間隙を縫う、神経をすり減らすグライディングの末に、ついに内藤のファラオとレックスは尾根が一段落ち込んでいる所で谷の南に回り込んだ。
内藤の眼前にゴール上空で慶太のオメガ5が誇らしげにスパイラルを切って高度処理している姿が飛び込んできた。(慶太め、うまいことやったな)内藤は思った。一方、内藤とレックスの置かれている状況はかなり厳しいものだった。内藤がこのコースを使ってゴールに向かったのはこれが初めてではない。しかし、これほど低い高度でアプローチしたことはかつて一度もなかった。追い風が助けてくれてもこれはかなり悲観的な賭になりそうだった。内藤は風に併せてトリムをわずかに引き込み沈下率重視のセッティングにして、わずかにブレークコードをあてるとファイナルグライドに入った。空気抵抗を減らすためにハーネスに寝そべりながらゴールを見つめていると、視線は僅かに上がったり下がったりしながら、それでも一定の位置に止まっている。これならなんとか届くかもしれない。しかし、一つだけ難点があった。
通常このエリアでは谷の入り口側に最終パイロンを設定することはない。なぜかというと低い位置にではあるがゴールの西に南北方向に電線が走っているのだ。これがゴールへ進入する時にちょうど邪魔になるので、オーガナイザーは谷の方向からファイナルグライドを切らせるのを嫌うのである。そして内藤の、ゴールと自分とを結ぶ視線の間にもしっかりとその電線は掛かっていたのである。それでも内藤はあきらめる気は無かった。後5mでいい、気まぐれな風が内藤を押し上げてくれればゴールには届くのだ。フォローに乗って内藤の眼下の景色はするすると後方に流れていった。ゴールを見つめる視線には相変わらず電線が横たわっている。慶太がゴールしてからまだ5分も経っていない。ゴールさえすればそれで内藤の勝ちなのだ。なんでここで諦められよう。
やがていよいよ高度が下がってきた。レックスは内藤の後ろをぴったりとつけてきている。あまりうまくグライディングさせられなかったと見えて、高度は内藤と大差ない位まで落ちている。そこで内藤ははたと気がついた。もしこのまま内藤が突っ込んでいったらこのレックスもついてきてしまうのではないか?そして仮に内藤が電線をクリアできたとしても、レックスの女の子が同じようにクリアできるか否かは保証の限りではない!
そのことに思い至った瞬間、内藤の中でのレースは終わった。もうパラグライダーの競技で事故は見たくない。その思いが内藤を突き動かしたのである。電線を前にして内藤は大きく機首を返してランディング態勢に入った。(これを見てレックスもあきらめるだろう。どうせ2人で同率2位になれるのだ。)しかし、そう考える内藤のファラオの頭上をレックスはなんら減速もせずに風切り音を残してすれ違っていった!
「やめろぉお!」
内藤は振り向きざまに思わず叫んだ。内藤の視界の隅に本部テントから駆け出してくる役員達の姿がかすかに写った。
ゴール
ランディング上の西側にある最終パイロンを撮影してランディングした慶太は谷の入り口から進入してくる2機の機体を食い入るように見つめていた。あの2機のうちのブルーのファラオに今日の慶太の成績は掛かっているのだ。しかし、慶太は内藤のゴールはやむを得ないと思っていた。あきらかに今日は慶太の負けなのだ。最後にサーマルが終わってしまったのは慶太にとってラッキーだったに過ぎない。しかし、その2機はあまりに高度が低かった。内藤が電線の手前でターンしたときには内藤の無事に対する安心と自分の勝利に対する確信がないまぜになって複雑な心境だった。しかしその感傷も次の瞬間には吹っ飛んだ。後から追ってきているレックスが内藤とほとんど変わらない高度であるにも拘わらずそのままこちらに突っ込んできているのだ。
「無理するなーっ!」
慶太は思わず叫びながら走り出した。それを聞いて大会本部に詰めていた役員達も一斉に走り出てきた。しかし、風上側には声は通りにくいもので、ましてや慶太の肉声がアプローチしてきている機体に届くわけも無かった。
電線の直前ではぎりぎりで越えられそうな高度だったレックスがふっと高度を落として慶太の視界の中で電線と重なった。慶太が歯を食いしばった次の瞬間、風に煽られたようにレックスはふわりと電線の上を飛び越えてこちらに飛び込んできた。パイロットは振り返りざまに最終パイロンを撮影しているが、もう風上に向かってターンをする高度が無い。次の瞬間レックスはパイロットがランディングの態勢を取るいとまを与えずに、慶太や役員の見守る中、フォローのまま接地した。パイロットは地面に足がつくなり走ろうと努力はしたものの、態勢が整っていないことと速度の速さに追いつけずに、派手な砂埃をあげながら前のめりにもんどりうって転がった。キャノピーは勢いをつけたままリーディングエッジから激しく地面を打ちランディングに大きな音を響かせた。。
慶太は真っ先に駆けつけると倒れたまま動かないパイロットにかがみ込んで声をかけた。
「大丈夫か?痛いところは?」
パイロットは声に応じて上体を起こすと一回頭をぶるぶるっとふるわせると顎紐を外してフルフェイスのヘルメットを脱いだ。埃にまみれた顔で慶太を睨み上げる冴映を見て慶太はドキッとした。冴映はその大きな瞳に涙を浮かべて悔しそうな目で慶太を見上げていたのである。
「けがは…、無い?」
言われて初めて気がついたかのように冴映は両手両足を試すように動かして、無事を確かめるとすっくと立ち上がった。立ち上がると冴映は意外なほどの長身で、背丈は慶太と大して違わなかった。体中埃だらけでスーツが一部すり切れている所もあるが大きな怪我は無さそうだった。ウエストバッグの上には何やらたいそうなB4サイズの液晶ディスプレイが取り付けてあったがこれはランディングの衝撃で液晶にヒビが入ってしまって、側面のコネクターは2本とも根元から折れていた。これを見つけた冴映はみるみる内に瞳に涙をためて助けを求めるように慶太の顔に視線をさまよわせてから、決意を固めるように口元をきっと結ぶとうつむいてしまった。理知的な整った顔立ちや長身から受けるイメージと子供のようなこの仕草のギャップに慶太はどぎまぎした。
「冴映、大丈夫か?」
慶太の後ろから声が聞こえてきた。慶太が振り向くとそこには30代前半ぐらいの屈強な男が慶太の肩越しに冴映を見下ろすように立っていた。冴映はこの男を見ると溜めていた涙をぽろぽろとこぼし始めた。
「ごめんなさい。ウインドウィザード壊しちゃったみたいなの。」
男は慶太と冴映の間に割り込むと冴映のハーネスのバックポケットを開き、中を一瞥した。
「大丈夫。データは壊れてないだろう。良くやったな。」
「本当に大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ。さあ、行こう。」
男はまるで誰もそこにいないかのように冴映の肩を抱いて慰めるとキャノピーを絞り始めた。慶太は何もする事がないままにそこに立っている事しかできなかった。冴映の脱いだハーネスとキャノピーを担ぐと男はすたすたと歩き始めた。冴映は男について行きかけて一度だけ振り向くときっと慶太を睨んでから歩みさってしまった。(なんだあれは?俺はあんな子供みたいなのと必死になって戦っていたのか?)慶太は一緒に飛んでいた凄腕の女性パイロットのイメージと子供のようなその実像とのギャップに混乱してしばらくそこに立ち尽くしていた。お陰で意識のどこかに引っかかっていた疑問が、再び表面まで浮かんできたのは、それからだいぶ経ってからになってしまった。
翌日に備えてベッドに入った慶太の念頭に突然浮き上がった疑問とはこれである。
「ウインドウィザードっていったいなんなんだ?」
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