ファイナルグライド#9
雑感:この回は、いろいろと思う所のある回です。新しい登場人物の紹介(後々、極めて重要な役割を果たします!)。 降りてしまった(競技者用語では”降る”と言います。)選手達がリフライトのためにテイクオフに戻る時の空気感は、かなりの精度で再現出来たと自負しています。回収するのを忘れた伏線(バッテリーの都合でウインドウィザードは1時間しか稼働させられないという裏設定をしておいたのに、種明かしを忘れた…)。そして、競技中に帰らぬ人となってしまった競技者仲間への追悼。1997年のカステホン・ド・ソスの世界選手権を一緒に戦うはずだったのに、その日を迎える事無く逝ってしまった和泉恭子選手が、その事故に見舞われる事無く、世界選手権を無事戦って、成果を得た世界線の延長上に、この物語は設定されています。いろいろな思いや仕掛けを施した第9回でした。
追撃
テイクオフのある尾根の南斜面にこぼれた内藤はサーマルのコアを捉えて高度を稼ぎながら、すでに第一パイロン間近まで高度を稼ぎつつある先行する2機を目で追っていた。テイクオフからは内藤の動きを見て、ばらばらと他の選手達がテイクオフしてきていた。内藤のバリオのデジタルバーグラフは1から3の間をいったりきたりしている。良いサーマルではあるが、いくらか上昇にばらつきがあるようだ。アベレージャーの表示は平均して毎秒1.5m程度で内藤のファラオが上昇している事を告げていた。その時バリオ画面の右下に小さなメッセージウインドが開いて次のメッセージを内藤に告げた。
NOW YOU ARE MISSING A CORE. IF YOU USE
GPS INFO I CAN ADVICE BETTER.
< YES I NEED ADVICE
> NO I CAN MANAGE WELL WITHOUT GPS
NAVIⅡに内蔵されている上昇率監視プログラム(リフトマネージャー)が一回のセンタリングでの上昇率のばらつきを感知してコアから外れている可能性を示唆しているのである。
「最近の機械はお節介だな。」
内藤が苦笑しながら十字スイッチの右端を押すとメッセージウインドは消えた。300m程度の高度を稼いだ内藤はサーマルを上げきる前に尾根伝いに山小屋への移動を開始した。この高岩山エリアのテイクオフのある尾根上は、サーマルコンディションになるとほとんど上昇風帯に乗ったままで移動できる”ハイウェイ”と言っていい状態になるのだ。だから上昇率の悪いサーマルにいつまでもつきあっている理由は無い。振り向くと今離脱してきたばかりのサーマルに後から続々と飛び出して来た選手達が蚊柱を形成しつつあった。慶太と赤いレックスは今山小屋のパイロンを回り込んで尾根の先端にある工場の煙突に向けてグライディングを開始していた。
木嶋冴映
冴映は困惑していた。当初の計画ではこの時点ですでに独走状態になっているはずだったのだ。ところがこの白いオメガ5はまだしつこく食い下がって来ている。テイクオフで自分の前にセットアップしている白いオメガ5を見た時、冴映はそのパイロットを「お気の毒」程度にしか考えてはいなかった。ところが今まで誰にも名前すら知られて居なかったそのノービスリーグのパイロットは冴映と全く同じ作戦を取って、冴映に先行する形で対岸のサーマルをヒットしたのだ。(これじゃまるで私があのパイロットの後についていったように思われちゃうじゃない!)そう思うと冴映は猛然と腹が立ってきた。しかし、怒りが収まるにつれて徐々に冴映の中にあせりの感情が広がってきた。(少なくとも後1時間以内にはこの白いオメガ5を充分に引き離しておかなければならない。ウインドウィザードのサポートが受けられるのは後1時間足らずなのだ。)
地上にて
9人乗りのそのバンには詰め込めるだけのキャノピーが荷台に詰め込まれていた。銀色のレスキューバッグに詰め込まれたもの、ハーネスに抱き抱えられてまだバリオのスイッチすら切られていないもの、最後に詰め込まれたキャノピーは畳まれてすらいなかった。車内は人いきれでむっとするほどの熱気が立ちこめており、窓を開けはなっているにも拘わらず車内の空気は思うように循環していなかった。スイッチの入りっぱなしの誰かのバリオが車が坂を上ったり降りたりするたびに耳障りな音をたてている。ドライバーはその車に乗っている全員の、目には見えない気迫に突き動かされるように河川敷を離れてテイクオフへと向かう道を飛ばしていた。谷側の視界を遮っていた山を通り過ぎて視界が開けると、窓際に座っていた一人が声をあげた。
「レックスが工場へ向かったぞ!」
車内に一瞬どよめきが走り、それが可能な人間は総て窓にかじりついた。
「高度は?戻ってこれそうか?」
窓に近づくこともできない真ん中に座ってしまったパイロットが尋ねた。
「充分高いよ、楽勝で帰ってこれるぞこりゃ。あ!オメガもいる!」
「な、成立するのか?これ?あの二人だけいくら飛んでもな。」
そのときテイクオフ方向の視界を遮っていた山の陰を回収車が抜けた。と同時に車内に一瞬ではあるが戦慄のようなものが走った。テイクオフ近辺では彼らの見守る中、数十機のパラグライダーが第一パイロンへと向かうべく、尾根の上に立派な蚊柱を作り上げていたのだ。一言もない乗客達の重苦しい沈黙を乗せて、バンはテイクオフへと向かう坂道を登りはじめた。
内藤
内藤は驚いていた。自分がすこし競技を離れていた間にパラグライダーというものはなんと変わってしまったのだろう。自分がこれから育てるつもりだった新人パイロットは内藤のはるか前方をノービスリーグを遥かに越えるペースでデッドヒートを繰り広げながらタスクをこなしている。おまけにそのデッドヒートの相手が女性パイロットと来ている。確かに日本のコンペパイロットの女性上位ぶりは今に始まった事じゃない。外人パイロットに日本人で知っているパイロットを尋ねるとまず美由紀と恭子の名前が出てくる。それだけ1997年の世界選手権での彼女らの活躍は世界のパイロットの印象に残ったのだ。悔しい事に日本の男性パイロット達は彼女らの活躍を未だに凌駕出来ていない。しかし、今慶太とデッドヒートを繰り広げているのは美由紀でも恭子でも、ましてやナショナルリーグの誰でも無いのだ。5年前には全く考えられない事だった。時代はなんと変わってしまったのだろう。そしてこの「ファラオ」、この安定性と沈下率はいったいなんなのだろう。尾根を離れて第一パイロンの山小屋へグライディングしながら内藤は自分の組み立てていた作戦がひどく陳腐なものに思えてきた。これだけの滑空比とペネトレーションを使って冴えない飛びをしたらグライダーに失礼というものだ。内藤はひさしぶりに体中の血がたぎってくるのを感じていた。(ひとつ慶太を驚かせてやるか!)そう思うと内藤はアクセルにかけた足に力を加えた。
慶太
(なんて事だ!)慶太は思った。自分と技量の似通った人間と一緒にハイスピードで飛ぶというのはなんと素晴らしい経験なのだろう。おまけに、それは一人で同じ事をこなそうとするよりも遥かに易しいのだ。慶太は焦りの感情が徐々に充実感へと変わっていくのを感じていた。そしてまた、自分に先行しているこの赤いレックスのパイロットに対する尊敬の念がわきあがってきていた。彼女はなんて優れた資質に恵まれたパイロットなのだろう!彼女の進む所進む所いつも約束されているかのようにサーマルがあり、そこにいたるグライディングのタイミングは絶妙の一語につきた。慶太もサーマルの予測には自信があったがサーマルを離れるタイミングに関してはこうはいかなかった。しかし、いま慶太はこのレースのリズムを乾いた砂が水を吸い込むようにどん欲に吸収していた。もはや慶太の頭の中に前のパイロットをなんとかして抜こうなどという気持ちはさらさら無かった。実は全力を駆使してついていくのがやっとという所なのだ。余計な策を練って下手をすればかえって決定的に遅れてしまうだろう。今はあらゆる手を尽くして彼女にぴったりとついていくのだ、今はそれ以外にできる事は無いし、する必要も無い。なぜなら彼女がどんなに優れたパイロットであっても、人間である限りいつかはミスをする事を免れないのだから。
邂逅
レックスを追って尾根伝いに第3パイロンのある南の尾根の付け根までたどり着いた慶太は、尾根の南側にこぼれるために踏みしめ続けてきたアクセレーターにわずかに力を加えた。この区間では最高速勝負で競り勝った慶太がレックスとの距離をいくらか詰めていた。赤いレックスはいまだに慶太の前にいるものの、もうそんなに離れてはいない。声をかければ届きそうだ。いまやレックスのパイロットのプレッシャーたるや大変なものだろうにパイロットはこちらを振り向こうともしない。声でもかけてやろうか?と思った瞬間レックスはついと機首を右に転ずると風下側であるにも関わらず、尾根に沿って移動しはじめた。慶太は一瞬とまどいを覚えた。決してこのまま尾根を越せない高度ではない。なのになぜ?不吉な予感に襲われ慶太はアクセルをゆるめた。その瞬間慶太のオメガ5のラインというラインが一瞬にして弛み風の音がやんだ。狂ったようにわめきはじめたシンクアラームを耳にすると同時にバリオに鋭い一瞥をくれた。6mまでのシンクゲージが簡単に振り切られている(不用意なコース取りでローターに入ったんだ!)。思った瞬間左の翼が前方の空気を切り裂こうとでもいうかのように鋭どく走った。慶太は辛くも翼が潰れてしまう前にこれを押さえたが、次に来た右翼のあおりまでは対処できなかった。失速を回避するためにブレークコードをリリースすると今度は殺人的な速さで翼が左斜め前方に走った。慶太の目の前で左翼端を上にしてちょうど90度に直立した形にまで翼が走った所で慶太はなんとかキャノピーを止めた。潰れるな!の願いもむなしく次の瞬間ラインの張りを失った下半分の翼が慶太の顔を打とうとでもいうかのように吹っ飛んできた。生き残った左半分の翼は反動で急速に速度をとりもどし、ダイブに入った。目の前を走っていく左の翼に最高に速度が乗ったところをブレークコードで押さえこみ、慶太は機体の旋回を止めた。コントロールを取り戻すと慶太は速やかに潰れたままの右の翼を回復させて、山際ぎりぎりを尾根の先端に向けて脱出に入った。はるか前方ではレックスがまるでそこは風が死んでいるという事をあらかじめ知っていたかのようにひょいと尾根の鞍部を越えて南斜面にこぼれていった。(いったいあいつは何者なんだ!あのローターも判っていたというのか?)レックスのパイロットの底知れない実力に対する畏怖と、ローターの中の一触即発の空域を飛ぶ緊張感から体中の毛穴からどっと冷や汗が吹き出してきた。大きな潰れの割には高度ロスは小さかったと見えて慶太はぎりぎりではあったがレックスの越えた尾根を南にこぼれる事ができた。これでS字カーブパイロンのセクター内を通過するコースを飛ぶ事ができる。しかし事態は慶太の考えていたものよりもほんの少しやっかいだった。尾根の南斜面にはまったくリフトが無かったのである。先行するレックスもパイロンを撮影しざまに為す術もなく尾根の先端へ向けてひどく高度を落としながら前進していた。慶太はパイロンに向けてグライディングしながら必死にサーマルの兆候を探した。そのときである、慶太は尾根のはるか先端、対地高度150mそこそこの場所に一機のパラグライダーが旋回しているのをみとめた。レックスもどうやらこのグライダーを目指して前進しているようだ。それにしてもあんな所にパラグライダーが飛んでいようとは?この近くに別のエリアでもあっただろうか?機種は…ブルーの「ファラオ」のようだ。フリーフライトにしてはやけに上手に回して弱いサーマルをうまくとらえている。近くでコンペをやってるんだから出ればいいのに…!ブルーの「ファラオ」?ブルーの「ファラオ」だって?まさか、いや?まさか?慶太は驚きのあまり危うくS字コーナーパイロンを撮影せずに通過する所だった。レックスとファラオはすでに合流して次第に形のはっきりしてきたサーマルで高度を稼ぎはじめていた。慶太がサーマルに飛び込んだ時にはすでに「ファラオ」と「レックス」は慶太より100m程高い位置まで高度を稼いでいた。しかしこの距離まで近づけば「ファラオ」のパイロットの正体は容易に確認する事ができた。どこをどう飛べば今ここに内藤がいる事が出来るのか慶太には皆目分からなかった。しかし今、冴映、慶太、内藤の3人がこのヒートの勝敗をめぐってここに邂逅したのである。
権謀術数
高度を少しづつ稼ぐにつれて慶太には内藤の取ったコースが見えてきた。どうやら内藤は工場のパイロンを撮影しざまに、風に逆らって尾根の先端を繋ぐ形で南下してきたようなのだ。平地よりのサーマルは比較的に出るのが遅く、南風に逆らっての前進はひどくリスクの大きい冒険だったに違いない。しかし、必要な程度にはサーマルが強く、パラグライダーの滑空比で目的地に有効高度で取り付ける程度には南風が弱いほんのわずかの時間、それこそ一日でほんの20分か30分程度しかない時間をとらえて、内藤は一気にこの尾根の先端まで飛んできたに違いない。その証拠に内藤に釣られてダイレクトコースを取ったパイロット達がうまく尾根を乗り継げずにコース上の所どころで必死になってサーマルを探している。つまりリターンのコースにはまんべんなく絶好のダミーが低い位置に散らばっているのだ。慶太はこれも内藤の作戦の一つである事に確信をもった。もしこの推論が正しければ内藤はこのサーマルを上げきった後にS字コーナーを撮影してここまで戻ってきて上げ直さなければならない。その遅れは5分?10分?いずれにせよ慶太と内藤のテイクオフの時間差よりは小さいだろう。慶太は今初めて内藤の底知れない実力を実感していた。案の定サーマルトップまで上げきった所で内藤とレックスは2手に別れた。内藤はS字コーナーパイロンに向かい。レックスはそのまままっすぐに北をめざしてグライディングを開始したのである。強くなりつつある南風と内藤がそれぞれの尾根の先端に散らばらせておいてくれたダミーのおかげで、追い風に乗って北に向かうダイレクトコースにはもはやなんのリスクも無かった。
浜田
(畜生!畜生!畜生!畜生!)工場パイロンに向けてアクセルを踏み込みながら、いらだちと焦りに浜田の頭の中は混乱しきっていた。(いったい今回の大会はどうなっちまってるんだ?)浜田が混乱するのも当然だった。リフライトのためにあわててテイクオフにたどりついた時、浜田が見たのは工場を回り込みざまにまっすぐに南へ向けてコースを取る青いファラオとそれにつられたようについていく選手達の姿だった。そんな飛び方を浜田は見たことも無かった。そして死にものぐるいでペースを上げて浜田がやっと工場パイロンをとったと思っていたら、今度は「レックス」と「オメガ」と「ファラオ」が10分足らずの間に次々ともの凄い勢いで浜田のいる尾根を飛び越えていったのだ。行き先は明白だ。彼らは最終パイロンに向かっているのだ。ノービスリーグで一番だと思っていた浜田の己の実力に対する自信はあえなく崩れさっていた。それでも浜田はまだ諦めてはいなかった。競技はゴールに着くまで何が起こるか判らないのだ。浜田にとっても、そして先頭を行くあの3人にとってもだ。
勝敗の行方
勝敗の行方を左右するその何かは海風とともに南から徐々に近づいてきていた。慶太が賭けに出てテイクオフしたときも、内藤がぎりぎりの高度で尾根の先端にとりついた時も冴映が南に向かってアクセルを踏んでいた時も、間断無く海上を渡って吹き込んでいた海風は陸地に充分に水分を含んだ空気を供給し、内陸の乾燥した大気に取って変わろうとしていたのだ。勝利を納めつつある海風は今、大気の透明度をひどく低下させ、中高度付近にきわめて薄い層雲を作りだしつつあった。
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