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首塚ボタン プロフィール

公式のプロフィールがあまりに短いので書きました。



第1章 契約

 ツバキの花言葉――「完全なる美しさ」
 お姉ちゃんにぴったりだ、とボタンは思う。
 優しい姉。頭もよくって、いつだって頼りになって、そして綺麗で――ツバキお姉ちゃんは、いつだってボタンの自慢だったし、誇りだった。
 子供のころ、華道で上手く華を活けられないボタンに綺麗な牡丹の生け方を教えてくれたことは今でも大切な思い出だ。 
 何をやらせてもポンコツな自分を、慰めてくれるひと。温かくしてくれるひと。
 お姉ちゃんがいれば安心で……そこにボタンの世界があった。 
 
……でも、今では世界は変わってしまった。
 ボタンの花言葉――「王者の風格」
 なんて、似合わない言葉なんだろう。

「ねぇ首塚さん? 首塚さんってこういうのも食べられるの?」

 クラスメイトに差し出された弁当箱には、土がぎっしりと詰まっていた。  
 ボタンは一瞬虚を突かれたような顔になるが、すぐに泣きそうになり、というかもう完全に泣きながら、

「え……それ私のお弁当箱じゃないですか。中身すて、捨てたんですか!? どうしてそんなことするんですか!?」

「いやだって、首塚さんってお嬢様でしょう? それが昼休みにのり弁なんて、似合わないって」

 相手のクラスメートはあっけらかんと、さも当然のことかのように言った。……取り巻きたちの顔は面白がるような笑顔を浮かべていたけれど。

「土なら、似合うんですか」

 これ以上泣き顔を見せるのは恥ずかしかった。だからボタンは、涙が少しでも零れないように俯いて話した。

「首塚さんってホラ、なんだっけ?」

 隣にいた取り巻きの一人の女子に向かって聞く。

「白の巫女白の巫女!」

「そう、それ! 白の……アハハ、巫女さんなんだからさぁ。巫女修行とかあるんでしょ? あたしたちは、その手伝いをしてあげてるの。言うじゃない、土を食べて、その土の‘‘気“を感じる? みたいなやつぅ」

「そんなの、ないです」

「『そんにゃのォ~ないですぅ~!』だって。ウケんだけど。いいから食べなよ、ほら」

 ぐいっと、顔の近くにまで土が入ったお弁当箱を近づけてくる……。
 抵抗したかった。暴れてしまいたかった。でもそれで騒ぎが大事になり、退学にでもなったら……そう考えると、やっぱりボタンは何もできなかった。

「……っ! んんんぅ……!」

 遂に中身が押し当てられ、固く閉じた唇の間に、土が挟まってくる。

「え? マジで食べてんの? やば~」

 何もするわけには、いかなかった。
 ――ここは、いつかお姉ちゃんが帰ってくる学校なんだから。


***


 お姉ちゃんが失踪したのは、3カ月前だ。

 物音がして夜中に目が覚めたボタンは、音の聞こえた一階へ向かった。するとそこには、虚ろな声でぶつぶつと何事かを呟くお姉ちゃんの姿があった。

「お姉ちゃん? どうしたの?」

「――。――――」

 聞こえてないのかな? 
 近づいて、お姉ちゃんの顔を見たボタンは、本能的な恐怖を覚えた。

 笑っている。

 お姉ちゃんが、笑っている。ボタンの知らない笑い方だった。お姉ちゃんはいつも余裕のある感じで、アイドルのように可愛い笑顔を浮かべていたけれど、これは初めて見る表情だった。ボタンは言葉も失ってしまった。しかも、これは……。

(呪い、の臭いがする)

 そう、呪いの類だ。呪われ体質のボタンだからわかった。いつも普通の人はかからないような変な呪いをもらってきては、お姉ちゃんに解呪してもらっていたのだ。
 これは呪いだ。だけど、ここまでのものは実際に見たことがない。
 ボタンはどうすればいいのか見当もつかなかった。頭は真っ白。お姉ちゃんに助けを求めたいが、今呪われているのはその姉自身なのだ。
 お姉ちゃんが、ゆっくりと振り返り、ボタンの横を通り過ぎ、玄関のほうに向かう。
 恐怖。ボタンの体が固まる。
 お姉ちゃんは、一度も、私のことを見なかったんだ。
 結局そのあと、なかなかいうことを聞かない体をなんとか動かし、お姉ちゃんを追いかけたけれど、曲がり角を一つ曲がるともうその姿はどこにもなかった。


 ボタンが、学校でもお姉ちゃんに守られていたのだと気づいたのはその2週間後だった。
 靴箱に入れたはずの上履きがない。机の引き出しの中身が何故か床に散乱している。体操着がない。筆箱がない。下敷きが折られている。
 自分は、クラスメイトから疎まれていたのだ。それを、お姉ちゃんが止めてくれていたんだ。
 日々エスカレートするクラスメイトからの嫌がらせに、ボタンの心は限界を迎えようとしていた。


***


「呪い、ねぇ」

 放課後。華道部の部室で話を聞いてくれたのは、顧問の立華先生だった。立華先生は、昔から首塚家と付き合いがあり、子供のころから家にちょくちょく顔を見せに来てくれていたこともあって話しやすかったのだ。年齢はよくわからない。30から40半ばくらいだろうか。何歳だと言われても納得してしまう気がする。年齢不詳だ。落ち着いた柔らかな雰囲気の女性で、ボタンにとって話しやすい存在だった。

「私はツバキさんやボタンちゃんみたいにそういうのを検知できるわけじゃないから、そっち方面はサッパリなのよ。役に立てなくて、ごめんなさいね」

「いえ、話を聞いていただいただけでも嬉しいです!」

「明るいわねぇ、ボタンちゃんは。無理、してたりしないの?」

「……大丈夫です。お姉ちゃんのことは夜暗くなるまで、毎日探してますし。それより、華道部サボっちゃててごめんなさい」

「いいのよ、一大事なんだから。先生の方でも、できる限り情報を集めてみるから。早くまたボタンちゃんの作品が見たいわ。元気づけられるんだもの」

「そんな、私のはへたっぴですよ。お姉ちゃんのほうが……」

「私は好きだけどなぁ。ボタンちゃんの活け方」

 それはボタンにとって意外だった。そもそも自分の作品がそんなに認知されているとは思わなかったのだ。完全にお姉ちゃんの陰に隠れていると思っていた。それを嫌だと思ったことはなかったし、お姉ちゃんが認められることはボタンにとっては誇らしいことだったのだけれど。

「そう、ですか? えへへ、ありがとうございます」

 でも悪い気はしなかった。

「やっと笑ってくれたわね」

「え?」

「ボタンちゃん。ずっと、暗い顔してたから。びっくりしたのよ? 久々に顔を見せたと思ったら、やつれ切ってるんだもの」

 ……気づかなかった。ボタンは自分の容姿には無頓着なほうだ。鏡を頻繁に見たりはしない。

「呪いに勝てるような、もっと大きな力があればいいのにね」

 ふいに、立華先生が呟いた。

「大きな力……ですか。腕っぷしだけでなんとかできればいいんですけど」

「いや、案外そういうのでもいいのかも」

「ええ?」

「……何はともあれ、まずはツバキさんを見つけないとどうにもならないわね。でもね、ボタンちゃん。今日は早く帰って、温かくして寝ちゃいなさい」

「……わかりました。今日はありがとうございました」

 一礼し、部室を後にした。


『呪いに勝てるような、もっと大きな力があればいいのにね』

 立華先生の言葉が、妙に頭に残っていた。

***

 家に帰って自室のベッドで横になる。

 この部屋はお姉ちゃんと二人の部屋で、少し狭いくらいに思っていたのに、今ではひどく広く感じる。

 寝て、起きたら、また学校……。

 憂鬱な気分になるボタンだが、かといって何ができるわけでもなく、そのまま目を閉じた。


***


「ボタン、三階の女子トイレには入っちゃダメよ。まぁ、普通の人は近寄らないんだけど……あなたうっかり開けちゃいそうなんだもの」

 ――記憶。これは、ボタンが入学したばかりのころだ。放課後にお姉ちゃんの華道部の見学に行ったとき、休憩時間中に話したときの内容だった。

「何かあったっけ?」

「……言ってよかった。お母さんからも聞いたことある筈なんだけどなぁ。トイレの花子さんよ」

「あ、思い出しました」

「そう? ならいいけど。あれは、相当強力な怪異ね。ここが新しく建てられる前に廃校になった小学校……元々は、そこの怪異なのよ。それが新しい校舎になっても力が引き継がれてるなんてね」

「入ったらどうなるの?」

「さあ? その場で呪い殺されるか……体を乗っ取られたりなんかしちゃうかもね」

「ええ!? 私殺されちゃうんですか!? 嫌だよぅお姉ちゃん」

「だから、開けなきゃいいのよ。それに、正しいやり方をすればそんな突然殺すほど怒らないんじゃないかしら。永く生きた怪異ほど、プライドも高いものよ。正しい手順は、即ち礼儀だもの」

「手順って、なんだっけ……?」

「ほんとに忘れてるのね……。いい? 花子さんに会うときは――」


 ――三階の三番目の個室のドアを、三回ノックして、「花子さんいらっしゃいますか?」って言うの。

***

 思い出した。

 あった。大きな力。

 ずっと昔から、お姉ちゃんに託されてたじゃないか――。


 ボタンの行動は早かった。布団から跳ねるように起きる。時計を確認すると2時を回ったところだ。何も持たずにパジャマ姿のまま家を飛び出すと、校舎まで走る。 
 やっと見つけたかもしれない手掛かりなんだ。生きながらにして死ぬような毎日を送るくらいなら、いっそ呪い殺されようとも最後まで足掻きたい。首塚の名に懸けて、この思いを花子さんにぶつけよう。待っててね、お姉ちゃん。私がすぐに助けるから!
 10分以上全力疾走し、息が上がってくる。こんなに全力で走ったのはいつぶりだろう。浅い呼吸を繰り返す。
 やがて夜の闇の中に、校舎が見えてくる。暗闇の中にそびえる校舎は、まるで真っ黒な背景にそこだけ切り取られたようで、冷たく無機質なそれは、いつもより一回りも二回りも大きく見え、妙な存在感をもってボタンを迎えた。校門まで着くと、躊躇なくよじ登って越える。当然昇降口は閉まっていたから、別の入り口を探す。
 裏に回ると、保健室の窓の鍵がかかっていないことに気づいた。それはボタンにとって、まるで『花子さん』に導かれているような気がしたのだ。
 階段を上る。ボタンは怖がりなほうだ。特にお化けの類は苦手だった。物理が全く効かないなんて不条理だと思う。なんとなく、電気をつければお化けは出なそうと思うのだが、そんなことをして侵入がばれれば大事だろう。今になってボタンは、懐中電灯をもってくればよかった、なんて思った。

 3階の、女子トイレに着く。
 首塚のお札が何枚も貼られたおどろおどろしいその扉。クラスでも何度か話題に出ているのは耳にしたことがあるが、いずれも少しの間だけであり、長続きはしていなかった。

(こんなに、目立っているのに)

 何か、認識を阻害するような術でもかけられているのか。本能的に関わってはいけないと感じたからなのか。
 花子さんに会って、どうしようというのだろうか。お姉ちゃんを探してくれませんか? お姉ちゃんの呪いを解いてくれませんか? ……花子さんが、そんな一方的な願いを聞き入れてくれるのだろうか。 
 頭に次々浮かぶ疑念、恐怖、それらを振り払う。ここまで来たんだ、もう後には引かない。
 握った拳に力がこもる。
 さぁ、3回ノックをして――!

「むんっ!」

バキィッッッ!!!

「え?」

 トイレのドアが木っ端みじんに粉砕されていた。

 そして中では、ドアの破片の木屑まみれになった小さい女の子が、いままさに揚げパンを食べようとしているところだった。 
 ボタンは完全に固まってしまった。
 やってしまった。一番やらかしてはいけないところでやらかしてしまった。この時ばかりは自分の馬鹿力を呪った。

「………………じゃ」

「え?」

「なにしてくれとんじゃ!!」

 ですよね!

「ごめんなさい、怪我はないですか」

 果たしてかける言葉はこれであってるのだろうか。

「わしちゃんの揚げパンが……」

 購買部で売ってるものだろうか。木屑塗れになっていた。

「ごめんなさい……」

「わしちゃんのきゃわゆい髪が……」

 つやつやの黒髪に木の欠片が刺さっていた。

「ごめんなさい……」

「わしちゃんのぷりちーハウスが……」

 ピンクのヒョウ柄の壁紙(何故???)で彩られたギラギラした部屋(というかトイレ)がまるで災害の後のような散らかりっぷりになっていた。

「ごめんなさい……」

「正座」

「はい」

 素直に従うしかない、これは。

「死刑」

「申し訳ありませんでした」

 めちゃくちゃ土下座していた。それはもう、頭をぐりぐりと床にこすりつける勢いで。

「わしちゃんの至福のおやつタイムを邪魔した罪はこの世に存在するどんな罪よりも重い。まぁわしちゃんは妖怪じゃからこの世の者ではないんじゃがの。キャーカカカ! これが妖怪ジョークじゃ。ホレ、笑え」

「あはは……」

 想像していた『花子さん』と目の前の女の子との乖離っぷりにボタンは正直混乱していた。

「なんじゃ陰気な奴じゃのぅ。さてはわしちゃんのあまりのきゃわゆさに衝撃を受け見とれまくり、放心状態になっとるんじゃな? それなら仕方ないの~~~! 仕方ないじゃろて! キャッカカキャーー!! ホレ見~!! きゅわゆかろ? わしきゃわゆかろ?? そうじゃろて! では花子ちゃん特別大サービスで一枚だけなら写真を撮らせてやってもよいぞ!? きゃわゆく撮らなかったら末代まで呪っちゃるからな! とはいえそもそもわしちゃんはどこをどうとっても最高にきゃわゆい幼気な美少女じゃから問題ないのじゃが。キャッカカカ!!」

「あ……ケータイ、家に置いてきちゃって」

「ま~撮ってもらったところで妖怪だから映らんのじゃけど♪ ――これも妖怪ジョークじゃ(爆笑)。キャーーーーーーーーカカカカカカカカカカ!!!」

 帰っていいかな。
 めちゃめちゃうるさかった。正直ボタンは引いていた。
 だけども、そういうわけにはいかない。なんとか本題に入らなければ。

「ごめんなさい……緊張して力の加減ができなくって」

「オマエは緊張するとドアを破壊するのか?」

「はい。高校受験の時、面接室のドアを吹き飛ばしました」

「豪胆じゃのう、繊細で華奢なわしとはえらい違いじゃ」

 何も言うまい。

「トイレは綺麗に掃除します。パンも今度買ってきます。本当にすみませんでした」

「あたりまえじゃ。あとトイレって言うな。花子ちゃんハウス。はい復唱」

「花子ちゃんハウス」

「で、こんな時間に何をしに来たんじゃ? 揚げパンの奉納というわけじゃなかろうて。本来手ぶらで来た挙句ドアを破壊する人間の話をこんなに聞くことはないんじゃが」

 ほとんど喋ってたの花子さんですよね? という言葉を飲み込む。余計なことを言って相手を怒らせるのは私の悪いところだ。お姉ちゃんならもっと――。
 そう。

「……お姉ちゃんを、探してるんです」

「人探しか。全く興味ないのう」

 ぴしゃりと言う。心の底からどうでもいいようだった。

「本来こんなに話を聞くことはないって言いましたよね。どうして聞いてくれるんですか」

「そりゃあ揚げパンを食えなくした報復としてお前を呪い殺す前にちょっとだけなら弁明を聞いてやろうというわしのマリアナ海峡よりも深い情けじゃが」

「本当にすみませんでした」

 再び土下座する。呪い殺すのは確定らしかった。私の人生、ここで終わりかも。凶だ。大凶だ。ごめんねお姉ちゃん――。

「ん? 待て。頭を上げろ」

 そこで花子さんが、何かに気づいたように言った。

「? はい」

 頭を上げ、正座の体勢に戻る。

「オマエは首塚家の人間なのか?」

 首からかけていたお守りを指さす花子さん。お守りには、長方形と正方形を組み合わせたような模様――首塚神社の紋章が大きく描かれていた。

「はい。すみません、自己紹介もまだでしたよね。首塚ボタンです。首塚神社で巫女をしながら学校に通ってます。お姉ちゃんの名前は、ツバキといいます」

「首塚……」

 さっきまで笑うか怒るかしかなかった花子さんの表情が。急に神妙になるものだから、ボタンは少し不安になった。首塚家だと、何か問題があるのだろうか?

「わしの部屋を見て、気づかんか?」

「え?」

 部屋? ボタンはトイレ……いや花子ちゃんハウスの中を改めてじっくりと見る。
 まず目をもっていかれるのは一面のピンクのヒョウ柄の壁紙だった。あとは、姫カーテン、ピンクのタイル床、何故か光っている便座。

「……派手ですね」

「豪華絢爛と言え! わしちゃんにふさわしいぷりてぃーな内装じゃろて! ナウでヤングな妖怪はヒョウ柄も似合うんじゃ~♪ ホレもっとよく見ぃ」

「もっとって……あっ」

 ヒョウ柄に気を取られて気づけなかった。壁の奥に貼られている大きなお札――『封』の文字と、その下の紋章。あれは――。

「首塚の、お札」

「そうじゃ。ついでにいえば上にかかっているお守りもすべてオマエの家のものじゃぞ」

 視線を上に向けると、大量の首塚神社のお守りで作られたガーランドが掛けられていた。

「どうして……」

「見せしめじゃ。こんな紙切れはこの大妖怪花子ちゃん様には全く意味を為さぬということを示すためのなぁ」

「そうじゃなくて、どうして、それがここにあるんですか!?」

「そりゃあ封印したワシの様子を見に来おった首塚の人間を尽くワシがぶち殺してきたからじゃが? 決まっておるじゃろが。故に戦利品の意味合いもあるのう」

 封印した? 首塚の人間をぶち殺してきた? ボタンは一瞬固まったが、すぐに冷静に考える。
 お姉ちゃんは‘‘何か“に呪われ行方不明になってしまった。しかし、それ以外の家族――両親は無事だ。祖父母も健在のはず。つまり花子さんが言っているのは。

「……それは、いつの話ですか?」

「はてさて、もう何十年も来とらんのう。オマエが久々の来訪者というわけじゃな。いや襲撃者か? にしても丸腰とは舐められたもんじゃ」

「封印ってどういうことですか。首塚家が花子さんを封印したんですか?」

 瞬間、花子さんの目の色が変わった。

「白々しい……!」

 瞳の奥に燃えるそれは、憎悪だ。ボタンは動けなくなる。恐怖によるものなのか、花子さんの力によるものなのかはわからない。
 花子さんの、真っ白な手がボタンの首に添えられる。

「お前らが、ワシを何十年もここに閉じ込めたんじゃろが! よりによって、ここに!」

「待ってください! 私は何も知りません! それに――」

 ――よりによってって、どういう……。

 訊こうとするが、手に力が込められ、ボタンが息ができなくなってしまう。

「……っく……か……っ」

 視界が……白く染まっていく。意識が遠のく。
 こんなところで終われないのに。
 ここで、死んじゃうのかな。
 振りほどこうにも、もう、腕に力は入らなかった。
 こんなことなら、最後にもっとごはんを食べてくればよかった、とか。
 お姉ちゃんに、もう一度会いたかったな、とか。
 そんなことを……死にゆく自分をどこか冷静に、まるで他人事のように思いながら、

 ボタンの意識は、落ちていった。

***

 木造の校舎。■■■■小学校。
 放課後。
 花子は、(……これは?)先生に頼まれていたプリントの束を届けに職員室に向かうところだった。(……花子さん?)
 学級委員長だった花子は放課後よく残って先生の手伝いをすることも多かった。
 その日も、いつも通りの日になる筈だったのだ。(私、生きてる?)
 帰ったら宿題を済ませて……そしたら……そうだ、今日の夜ご飯はカレーだってお母さん、言ってたなぁ、楽しみだなぁ――とか、そんなことを考えながら、夕日が差し込む廊下を一人歩いていた。
 
 強烈な力で、腕を掴まれた。

「へ?」

 掴まれた方を振り向こうとすると、顔を思い切り殴られた。(ひっ)
 花子には何が起きたのかわからない。頭は真っ白だ。(熱い)
 床に散らばるプリント。そして、折れた乳歯。(何ですか……これは)
 血の味。(痛い)
 それはボタンにも伝わる。まるで自分の体に起こったかのように……花子さんが受けたことを、五感全部で、強制的に感じさせられる……。(痛い。痛い。痛い)
 腕を強く引っ張られる。強引に、トイレに連れ込まれる。

(これは、昔の、花子さんの……?)

「おまえが悪いんだぞ■■、おまえが……」(……やめてください)

 混乱、恐怖。吐き気、痛み。血の味。夕焼け。

「■■、可愛いよぉ、■■……」

 これは、担任の先生? (とまって!)

 服をはぎ取られる。ボタンがプチンと弾け、どこかに転がっていく。足を動かして抵抗しようとすると、お腹に蹴りが飛んできた。
 吐く。酸味。血の味。鼻につかえる吐瀉物の臭い。眩しい、夕焼け……。

「馬鹿だよなぁ。どうせ死ぬのに。なぁ。なぁ」

 顔を舐められる。唾液の……腐敗したような臭い。ざらざら、ぬめぬめ。ぬちょぬちょ。また吐く。血の味。

(待って……!? 体、動いて!)

 あそこに押し当てられる、おぞましい感触。わしゃわしゃとまさぐられ続ける胸。(動いて!!)

 そして――。

(嫌! 嫌! 嫌!)

「ぎ……っ!? 痛ぁぁ……!? ぃぃぃぃぃ……!」

「やっぱ入んねぇよな。しゃあない」

 あそこに無理やり指を一気に三本ねじ込まれ、ぐりぐりと広げようとしてくる。
 尋常ではない痛みだった。視界がホワイトアウトしそうになる。いっそ気絶してしまいたかった。けれど肉が裂ける痛みがそれを許さない。
 そんな状態なのに、もう片方の腕が目の前で振り上げられるのが見えた。

 ゴッ!!

「ぶッ!!?」

 思い切り鼻を殴られた。息ができない。折れてしまったのだろうか?あまりの痛みに吐き気がこみ上げる。鼻血がドバドバと流れ続ける。頬を殴られる。頭を殴られる。大人の男の――信頼していた担任の先生の手によって、殴られる。何回も、何回も。殴られ続ける。
 そして、あそこから指が引き抜かれ、血が流れるそこに、その男のおぞましいものがあてがわれた。そのまま無理やりに固いものがねじ込まれる。肉が引っ張られ、引き裂かれる激痛。構わず犯され続ける。花子には、その行為の意味すら理解できていない。
 汲み取り式の底から臭い立つ、便の臭い。血の味。他人の唾液の味。精液の味。

 ……。

 何時間たっただろうか?

「生きてるか? まぁ、どっちでもやること別に変わんないけどさ」

 体を抱えられる。

(まさか……)

「じゃあな、■■。化けて出んなよ」

 汲み取り式トイレの中に投げ込まれた。

(そんな! 嫌、嫌ぁああああああ――ッ!!)

……どちゅっ……。

 糞尿の臭い。ウジがもぞもぞと肌の上をうごめく感触。ハエの羽音。血の味。

「……お、かあ、さん」

(え……)

 血の味。

 小さな命が、終わっていく中、彼女が最後に求めたのは。

「お、か…………」

 家族だった。

 ……。
 …………。

 それから数日後、その小学校の教員全員が全く同じタイミングで不審な死を遂げた。
【校長】校長室の机の上で血塗れになった状態で発見。両手の爪がすべて剝がれており、錯乱状態で机を搔きむしったと思われる。

【教頭】給食室にて、カレー鍋に頭から突っ込んだ状態で発見。発見時火は消えておらず、煮込まれている状態で見つかったという。

【主任】屋上からの飛び降り自殺。運悪く途中何かに引っかかったのか、即死ではなかった。落下地点から100メートル先で死亡しており、内臓が潰れた状態で何かから逃げるために這って移動したようだ。

【教員A】家庭科室にて教員Bの腸を口に含んだ状態で発見。窒息死とみられる。胃袋からは教員Bの胃、肝臓、腎臓の欠片が見つかった。

【教員B】家庭科室にて腹が割かれた状態で発見。失血死。臓器が複数損傷していた。

 その後まもなく学校は廃校になり、当時からその地域を担当していた首塚神社により供養が行われた。
 長らくその場所は空き地であったが、数十年後、新たに学校が建てられる。その学校の名は――
 ――黒白術専女学院。

***

「お母さん! お姉ちゃんが……お姉ちゃんが、いなくなっちゃった!」

(これは……私だ)

 深夜。ツバキを見失ってから家に戻り、両親の寝室に入ったボタンは半狂乱で叫ぶ。

「お母さん! お父さん!」

「ん……なぁにボタン。突然どうしたのよ……」目を覚ました母親が応じる。

「お姉ちゃんが、いなくなっちゃったんです! 様子が変で、何かに取り憑かれてる感じでした……!」

「どういうこと?」

「私にもわかりません。突然のことで……だから、お母さんとお父さんにも、探してほしいんです! お姉ちゃんを見ればわかります。お姉ちゃんとは別の、呪いの力を感じました」

 どこかのんびりした調子の母親にボタンは少しだけイライラしてしまいそうになるが、きちんと説明するために冷静であろうとしていた。
 しかし、母親はボタンの説明を聞いてもぽかんとした様子だった。

「だから……どういうことなの? お父さん起きちゃうでしょ?」

 ボタンは焦る。これだけ言っても直ぐに動こうとしてくれないなんて。
 確かにいつも両親はボタンの言うことよりツバキの言うことをよく聞いていた。あからさまに差別されていたわけではなかったが、信用のおかれ方に明確な差異が(両親に自覚がなくても)あると、ボタンは子供のころから肌で感じていた。
 しかし、今は緊急事態なのだ。早急に信じてもらわないと困る。
 ボタンはもう一度訴える。

「だからお姉ちゃんが――」

「さっきから言ってる、お姉ちゃんってなんなの?」
 その場の空気が、ドロリと濁った。

「え……?」

「誰のことを言ってるの?」

 ……何?
 なんだろう、何か……。
 気持ち、悪い。

「ツ、ツバキお姉ちゃんです! 私のお姉ちゃんですよ! お母さんの、もう一人の娘ですよ!」

「あなた一人っ子でしょう?」

 歪んでいく。
 世界が、歪んでいく

「どうした、ボタン」

 父親が起きる。

「あら、ごめんなさいあなた。ボタンが騒いじゃって……お姉ちゃんがどうとか言って慌ててるの」

「寝ぼけてるだけじゃないのか?」

「うーん……」

 ここは、何処だろう。

「お父さんも、お姉ちゃんを知らないんですか」

「まいったね。お友達の話か?」

 この人たちは、誰なんだろう。
 私の、居場所は……。私の、世界は……。

(おねえ、ちゃん)

(おねえちゃん……!!)

***

「……っっ!! げほッ! げほッ! げほッ! かひゅ……ッ」

 ボタンは意識が戻ると同時に首の苦しさから激しくむせた。肺が酸素を求め、大げさに呼吸する。心臓がバクバクと跳ねる。
 ここは黒白術専女学院3階女子トイレ。
 花子に手を離され、ボタンはトイレの床に仰向けに倒れこんでいた。

「……オマエは、本当に何も知らんのじゃな」

 花子さんが、どこか諦めたような、寂しげな声で言った。

「けほ……ッ、今のは……? 今のは、何なんですか……?」

「お互いの記憶が逆流したのじゃろ。わしの妖力と、オマエの巫女の力……両方がないと起こらん現象じゃろな」

「お互いの……記憶」

 じゃあ、あの悪夢のような凄惨な『追体験』は……。

 花子さんに起こった、実際の出来事なんだ。

 ボタンは未だに立ち上がることができない。逆流した記憶の中で起きた出来事と、その後「妖怪」が起こしたであろう死の呪い。その衝撃に、全身が打ちのめされ、立ち上がることができない……。

「お姉ちゃんを探していると言っておったな」

 花子さんが言う。

「へ?」

「わしちゃんが手伝ってやらんこともない」

 !

「ほ、本当ですか! ありがとうございます! でもどうして急に」

「な~んか面白そうじゃから。記憶で見たオマエの両親、それからオマエ。どちらからも呪いの臭いがプンプンしちょる。このわしの周りでわしより強い臭いを放つとは、どんな存在なんじゃ? あと、首塚の人間がわしを頼ってきているというのもおっかしいのう」

「……ごめんなさい」

「陰気な奴じゃな。調子が狂う」

「……ごめんなさい」
 
 だって、あんな死に方をしたのに、今もなお成仏できずにいるんだ。
 怪異になったから? 首塚家が倒せずに、封印するのがやっとだったから? それで何十年も『自分が死んだ場所』に閉じ込められてしまったのだろうか。
 そんなこと……。
 だとしたら、あまりにもむごいじゃないか。花子さんが、不憫じゃないか……。

「泣いておるのか?」

「だって……だって……」

「わしは陰気臭いのが嫌いじゃ。それから納豆!甘くないやつな。あれは許せん。首塚家の次に」

「聞いてないです……」

「納豆好きか? すまん帰れ」

「言ってないです……」

 花子さんは便座に座って足を組んだ。

「で、差し当たってはオマエと契約しようと思う」

「契約、ですか?」

 脈絡ないなぁ……。

「情報は共有できた方がよかろ? 首塚の臭いと、例の呪いの臭いを感じたらオマエを呼んでやる。わしに呼ばれたことを契約者なら感じられる筈じゃ」

「契約者……」

「と言ってもわしが見れるのは学内だけじゃが。オマエが外を探している間にもわしがこっちを見といてやるのじゃ。灯台下暗しなんてこともあるかもしれんからのう」

「助かります、ありがとうございます!」

 なんだか、花子さんがあまりにも急に協力的になるものだから、ボタンはとても嬉しくなる。

「オマエ、名はなんじゃ?」

 花子さんが訊く。
 一度言ったのだが聞いてなかったらしい。

「首塚ボタンです」

 その目を、まっすぐに見て、ボタンは答えた。

 

***

 

 結局家に帰ると午前3時半だった。かなり長い時間を過ごした気がするが、家を出てからまだ1時間半しか経っていなかったことにボタンは少し驚く。ボタンは全身クタクタだった。今からもう一度シャワーを浴びる気にはなれなかった。そのまま布団に倒れこみ、目を閉じる。まもなく睡魔が訪れ、ボタンの意識は眠りの中に落ちていった。

 だからそれから3時間後に目覚ましが鳴ったときは本気でサボってしまおうかと考えた。だけどサボらない。サボるわけにはいかない。首塚家の巫女として、そしてお姉ちゃんの妹として、いい子でいなければ。それはボタンが定めた自己ルールのようなものだ。いい子でいること自体は苦痛ではないし、寧ろ気分がよかった。両親からいい子である部分を評価されたことはなかったが、それでもよかった。お姉ちゃんに褒めてもらえるから。大好きなお姉ちゃんに、褒めてもらえるから。

「痛ッ」

 ――ズキン、と頭痛が走った。昨日真夜中に出かけたせいで寝不足なせいだろうか。体の疲れも全然取れていない。少しばかり暗澹たる気分になりながら、顔を洗ってお弁当作りに取り掛かる。両親はまだ寝ていた。お姉ちゃんがいたころは朝早くから起きていたのだけれど……。

 今日の献立はのり弁と、わかめと油揚げのお味噌汁だ。昨日はいつの間にか中身を捨てられたせいで食べ損ねてしまったし、なによりボタンはのり弁が大好きだった。
 味噌汁用のお湯を火にかけつつ、ボタンは昨夜のことを思い出していた。

 花子さん。黒白学院3階トイレの怪異。

 ほんの数時間前の出来事のはずなのにどこか現実感が希薄だった。

 私は……花子さんと、契約したんだよね?
 契約……。
 それで何かが変わるだろうか。
 私は変われるだろうか。
 のり弁とお味噌汁をそれぞれよそって、お弁当の準備を終える。
 ボタンはついでに作っていたおにぎりを食べてから制服に着替え、学校へと向かった。

「行ってきます」

 返事はもちろんなかった。

***

 4限のチャイムがなり、ボタンは伸びをした。

 今日は昼休みまでの時間がとても長く感じた。寝不足なときの授業ほど早く終わって欲しいものもない。そして不思議と早く終わって欲しいと願えば願うほど時計の針を意識してしまって、余計に針の進みが遅く感じられるのだ。

 ボタンはお弁当を食べようとして机横のフックに手を伸ばした。が、弁当箱がない。

(あれ……?)

 今朝確かにここに掛けておいたはず。

 じくじくと、腹のほうに嫌なものが溜まっていくのを感じる。
 まさか、また……。
 その瞬間、

「熱ッ!」

 頭の上から何かかけられた。

「へぇ、この時間でも冷めてないんだ」

 くすくすくす、と複数の笑い声が聞こえる。
 かけられたのは……お味噌汁だ……。
 振り返ると、4人の女子たちがボタンの姿をみて笑っていた。

「アンタも懲りないよねぇ、アタシだったら購買にいくね」

 お味噌汁が入っていた容器を逆さにしてぶらぶらと降って見せてくる……。

「仕方ないでしょ~。学習できないんだから。首塚さんはね、カワイソウな子なの」

 両手を組んでわざとらしく祈るようなポーズをとるクラスメイト。

「どうして……」

 自分の声が、想像以上に暗く、細いことにボタンは内心少し驚く。

「目を覚ましてあげようかと思って」

 そうそう、とほかの3人が笑う。

「首塚さん、今日ずっとぼーっとしてるんだもの」

「ぼーっとしてるのはいつもじゃん!」

 あはははは、と何がおかしいのかひと際盛り上がっている。

「おい無視してんなよ」

 高い声で笑っていたと思ったら、急に低い声でボタンを責め始める。

「ほんと性格悪いよね。こっちが親切でやってあげてんのにさぁ」

「こういうときは『ありがとうございます』でしょ~?」

 ボタンは固く、拳を握りしめる。耐えろ。……耐えなくちゃ。

「言えよ」

「…………ありがとうございます」

「聞こえなーーーーーい! え? みんな聞こえた?」

 ぜんぜーん、と声を合わせる3人。

「ありがとうございま」

「いやもういいって。いじめてるみたいじゃん。アタシを悪者にしたいわけ?」

「そんなこと、ないです」

「じゃあ首塚さんが自分で駄目だと思うところ、10個あげてみ?」

 胃がむかむかする。お味噌汁が目に入ったせいで、目も染みて痛い……。

「は……はい」

「首塚さんのためなんだよ~? うちら歩み寄ってんのに首塚さん自己中だから無視したりするし」

「ごめんなさい」

「だから聞こえないって」

「……自己中で、ごめんなさい」

「はーい1つ目。あと9個」

「あ、と……は……」

 さらに固く両拳を握りしめても。歯を食いしばっても。両目から大粒の涙が零れた。

 弱いな、私。

 ここにはボタンの居場所はなかった。

 ボタンは勢いよく立ち上がると、教室の外へ飛び出した。後ろからボタンを嘲り笑う声が聞こえる。ボタンは無視して、その場所を目指した。階段を駆け上がる。

 ***

 3階女子トイレ。その3番目の扉の前に立つ。

(お願い……いてください……!)

 涙を拭って、3回ノックする。

「……花子さんいらっしゃいますか?」

 数秒待つが、中から返事はない。
 やっぱり妖怪だから、夜にしかいないのかな?
 そんなことを考えていた……のだが。

(あれ……?) 

 この扉、昨日壊さなかったっけ?
 木っ端みじんになっていたはずだ。それがきれいに修復されている。
 修復……? できるものなのだろうか? 相当時間をかけるか、あるいは新品に取り換えた方が早そうな有様だったのだが。
 ボタンの頭に最悪な想像が浮かぶ。
 昨夜の出来事は全部実際には起こっていなくて、疲れた自分が現実逃避の為に見た突拍子もないただの妄想でしかないということ。お姉ちゃんから聞いたことのある怪談から想像した、安直な夢だということ。
 それが一番辻褄が合う。

「あはは……」

 だとしたら、自分はなんて情けないのだろう。 お姉ちゃんは探せず、クラスではいじめられ、逃げた先は学校の怪談という妄想。トイレの前で佇む自分はただひたすらに哀れだ。

 今から教室に戻るのは嫌だった。どこにも行けない。ボタンの体は直接鉛を詰め込まれているかのように重く、手足をほんの少しでも動かすことすらできなくなっていった。視界が暗くなっていく。もう立っていることさえ――。

 と、

「揚げパンは持ってきたんじゃろうな?」

 唐突にドアが開いた。

もごもごと何か食べている。また揚げパンを食べている最中だったのだろうか。

「……ごめんなさい、ないです」

 声が震える。
 さっきまでが嘘のように、体が軽くなってゆく。

「そうか。帰れ――ん? ボタン、何でそんなに濡れちょるんじゃ?」

 妄想なんかじゃない。
 自分は確かに、花子さんと契約したのだ――。
 安心したことで、ボタンの体に力が戻っていく。

「これは……色々ありまして」

「味噌汁の匂いじゃ。弁当か? 最近は汁物を運べる弁当箱があるんじゃのう」

 そっちかい。

 ……なんとなく、花子さんに打ち明けるのは気恥ずかしかった。尊大で、自分に自信があって、明るくて、キラキラしている花子さんと、毎日虐げられどこにも居場所がない私。そのことを口に出してしまったら、余計に惨めさが増すだろう。

「……」

 花子さんが、こちらをじっと見つめてきた。

 改めて、花子さんは相当な美少女だった。

 黒くて艶々した、真っすぐに切り揃えられた髪。幼い顔立ちながら少しきつい印象を与える凛々しい目。長い睫毛。吸い込まれそうな――紅くて綺麗な瞳。

「な、なんですか」

 スカートのポッケをまさぐる花子さん。

「ほれ」

 手に何かを持ったのか、腕を突き出してくる。
 なにかくれるのだろうか?
 花子さんが握った手の下で、両手を受け皿のようにしてみる。
 花子さんが手を開くと、

「……ストラップ?」

 デフォルメされたミニマムサイズの芳香剤を、ニコニコしたカエルが抱きかかえているデザインのストラップが、ぽてっ、と落ちてきた。

「私にくれるんですか?」

「芳香剤のおまけについてきたのじゃ。わしには要らん」

「……大切にしますね」

 ボタンはストラップを愛おしそうに見つめる。

「お昼は食べたのか?」

「いえ、まだです」

 正確には食べる予定のものがなくなってしまったのだけれど。

「なら購買で揚げパンを買ってくるんじゃ」

「……一緒に食べてくれるんですか?」

「わしもまだ食べ足りんからのう」

「わかりました」

 買って来よう。 
 ストラップをスカートのポケットにしまって、購買部に向かう。

 ***

 購買部にきたのは久しぶりだった。入学したてのころ、いろんな種類のパンがあるのにわくわくして、全種類買って食べようとした覚えがある。そんな額のお小遣いはなくて諦めたけれど。
 えっと揚げパンは……あった。
 2つ買って、花子さんのもとに戻る。

「買ってきました」

 一緒に食べる。
 花子さんは怪異とは思えないほどに無防備な、へにゃっと蕩けた顔をしてもぐもぐと揚げパンを食べている。こうしてみると、ただの人間の子供みたいだった。
 ボタンも揚げパンを一口齧る。
 ジュワッと染み出してくる油と表面のサクッとした触感が心地いい。中のもちもちとしたパンは甘く、小麦の香りが食欲をそそる。
 普段はお弁当を持っていくから食べたことはなかったけれど、購買のパンもこんなに美味しいのだ。気づかなかったな……。

「ホレとっとと教室へ帰れ」

 いつの間にか食べ終えていたらしい花子さんが足を組んでしっしと手をやる。

 教室……。

 もう、昼休みは終わるころだろうか。それで教室に戻って、午後の授業を受けて、お姉ちゃんがいない華道部に行って、立華先生に挨拶だけして帰って、お姉ちゃんがいない家にはお姉ちゃんを知らないお母さんとお父さんがいて、夜ごはんを食べてお風呂に入って宿題を済ませて一人で寝て……。

……。

「帰る場所がありません」

「なんじゃと?」

「私には、もう居場所なんてないんです」

 つい、言ってしまった。

 お姉ちゃんがおかしくなって、いなくなってしまったあの日から、ボタンの世界は変わってしまった。突然始まったいじめや、お姉ちゃんを知らない両親。同じ場所なのに、同じ場所ではない……。まるでパラレルワールドにでも迷い込んでしまったような感覚だった。お姉ちゃんが見つからない限りこの日々は変わらない。お姉ちゃんこそが、日常を取り戻す鍵……いや、お姉ちゃんこそが日常そのものなのだ。ボタンはそう信じていた。
 花子さんが、ボタンを見つめる。じっと見つめる。

「……ボタン。オマエはわしの契約者じゃ。契約者とはオマエの意思に関わらずワシが呼べば訓練されたメイドのように10秒以内に目の前に現れ『花子ちゃん様貢物の揚げパンでございます』と三つ指ついて跪く奴のことを言う」

「初耳です……」

「つまりじゃ」

 花子さんは言った。

「わしがオマエの居場所じゃ、ボタン」

 ――。

 ――どうして。

 どうしてこの怪異は、私が一番欲しかった言葉をくれるんだろう。

 ボタンがいてもいい場所。いつでも帰ってこれる場所。そうしたら誰かがいて、ボタンを待っていてくれる場所。それがボタンが求めていたものだった。お姉ちゃんを失い、誰にも苦しみを理解されず、家にも学校にも居場所がなかったボタンが一番、欲しかった言葉だった……。

 花子さんが目を見開く。

「なんで泣くんじゃ!?」

「え……?」

 いつの間にか、ボタンの頬は涙で濡れていた。

「だって……嬉しくって」

「嬉しい!? いやわかるぞ、確かにこんなにもきゃわゆいわしと契約できたのだから毎日がハッピー薔薇色花子ちゃん色じゃろて」

「えへへ」

「……気色悪い奴じゃのう」

「いいんです」

 胸が温かいもので満たされるような心地だった。

「ああそれから」と、花子さんが改めてボタンの方を見やる。

「契約者といえば、もうひとつあっての」

「? はい。なんでしょうか」

 ふむ、と花子さんが一呼吸置く。

 

「わしは契約者に憑依して身体を自由に操ることができる」

 

 ああ、なんだ。花子さんが自分に憑依して身体を自由に――。

「って何ですかそれ!?」

「嬉しかろ?」

「いや怖いです! 初耳です!」

「言ってなかったからの~」

 怖すぎる。妖怪が体の中に入ったら、自分はどうなってしまうんだろう。ボタンは頭を抱えた。大凶だ。
 花子さんがニヤリと笑う。

「試してみるか?」

「へ? ――ぶっ」

 答える前に花子さんの体が黒い粒子に包まれ、それが一本の長い触手のようになってボタンの胸のあたりに突き刺さった。
 ついでに視界も黒い粒子に覆われる。
 本能的に感じる恐怖。しかし痛みはなかった。
 ただ……なんだろう……何とも言えない感覚だ。
 ボタンの意識は残ったままだ。だけど、身体の操作権限はなかった。うまく言えないが、自分の体の舵を他人に握られている不快感がある。意識は花子さんよりも内側にあり、どこか自分自身を客観的に見ているような不思議な感覚。
 やがて視界が晴れてくる。
 黒い粒子に包まれていた花子さんの体は、いつの間にか消えていた。

「うむ。問題なく動かせるようじゃな。流石わしちゃん♡」

 ボタンの体で、花子さんが洗面台に向かって歩いていく。ボタンの意思とは関係なく、歩いていく。鏡の前に立つ。

「ふむ……これは」

(え?)

「見てみぃ」

 鏡を見ると――髪が真っ白になったボタンの姿があった。

(いやいやいや! 何ですかこれ!? なんでこんなことに!)

 イメチェンが過ぎる。いやでもこれはこれで少しお姉ちゃんっぽくてよく見るとそんなに悪く――ってやっぱり変だ! 似合わない!

「わしの妖力が人間の体に介入した副作用のようなものじゃろな。しかしこれはこれで悪くないの~。ボタン。オマエの素材がいいのもあるが、隠しきれないわしという溢れ出るきゃわパワーがみてとれるわ」

(大凶です~!)

「失礼な! ホレ見~! きゃわいかろ? わし、きゃわいかろ~?」

 自画自賛しているのか褒められているのかわからな――いや絶対前者だ。間違いない。

「この体であれば、あるいはこの学校の外にでられるかもしれんの」

(え!?)

「試してみなければわからんが……なんとなく、そんな気がするんじゃ。よりオマエの姉探しも捗るというものじゃろがい。よかったのう」

(いやそれはよかったんですけど……)

 髪が白い以外はボタンの体そのものなのだ。親やクラスメートに見つかったらなにを言われるか。そしてその時に花子さんはいい感じに誤魔化して……はくれないだろう。

(……やっぱり学校の外は私が探しますよ)

「そうか? まぁ、どうでもよいが」

 どうでもいいんかい。

「まぁボタンが呼べばわしはいつでも反応できるからのう。何か用がある時だけ呼ぶがよかろうなのじゃ」

 と、花子さんが鏡を見るとまたしても体が黒い粒子に包まれていた。刹那、ボタンの体がぶるっと震え、身体を自由に動かせるようになる。
 後ろを振り返ると、元の花子さんの姿があった。小さな体。艶々で綺麗に切り揃えられた美しい黒髪。長い睫毛に紅い瞳。
 ……やっぱり、私なんかよりよっぽど美人だ。
 鏡を見ると、ボタンの髪は元に戻っていた。本当にどういう仕組みなんだろうか。

「そういえば、花子さんはトイレに閉じ込められているわけではないんですね」

 それは昨日、校内を探すと言っていたからだ。あの時は流してしまったが、「トイレの花子さん」がトイレから自由に出られるというのはどういうことなのだろうか。

「もともとは閉じ込められておったのじゃが、ある日封印を内側からぶち破れるようになっての。あの時の首塚の男の顔はおっかしかったのう。キャカカカカ!」

 花子さんの妖怪としての力――妖力は、年を追うごとに強くなっていってるのだという。昨日ボタンが壊したトイレのドアもきっと、その魔法のような力で修復したのだろう。

「……それでも、校門からは出られなかったんですか」

「あれは封印とかそういうものではなかったんじゃ。……頑張ったらどうにかなるものではない。ワシにとってあそこは出入り口ではなく、透明な固い壁じゃ」

「そう、なんですか」

 それは花子さんが、ここで死んだ――殺された、地縛霊だからなのだろうか。本人の力がどんなに強力であっても、妖怪としての生まれ持った性質上、どうやっても出ることはできないのだ。ライオンが海を泳ぐことが出来ないように。サメが陸上に上がれないように。

「……お姉ちゃんが見つかったら」

「?」

「お姉ちゃんが見つかったら、私の体を使って、遊びに出かけませんか」

「なんじゃ急に。憑依されることを嫌がっておったじゃろがい」

「遊園地とか、興味ありませんか」

 怪異をそんなことに誘うのは、変なことだろうか。
 お姉ちゃんが聞いたら、呆れるかな。

「現代の遊園地はすごいんですよ! 昔家族で行ったんですけど、アトラクションもパレードも全部こってるというか、大仕掛けで、キラキラしてて、とにかく楽しいんです。花子さん、きっと好きになりますよ。それで、花子さんは楽しそうに笑うんです。そしてそのそばにはお姉ちゃんもいて……みんな、笑ってて……」

 花子さんは本来外には出られない存在だ。首塚家が何世代にも渡って封印してきた妖怪だ。人を何人も殺めている、恐ろしい怪異だ。それを無理やり外に連れ出すのはいけないことなのはわかっていた。
 それでも――花子さんが、外の世界で楽しそうに笑っている姿が見たくなってしまったのだ。
 こんな自分は巫女失格だろうか。
 それはそんなにいけないことだろうか。
 目の前のこの小さな女の子を、遊びに連れ出したいと願うことが、そんなにもいけないことなのだろうか……。
 花子さんがにんまりと笑う。

「そこまで言うなら付き合ってやらんこともないぞ」

「本当ですか! わーい! 行きましょう!」

「つまらんかったら直ぐに帰るがの~」

「楽しんでもらえると思います。……たぶん絶対」

「そこは自信を持たんか。……約束じゃぞ。破ったら5時間お説教じゃ」

「約束です。指切りげんまん!」

 ボタンは、約束をした。

***

  教室に戻ったとき、まだ昼休みは10分以上残っていた。
 しまったなぁ……。もっとギリギリで戻ればよかった。

「首塚さん~? どうしてたの? みんな心配してたんだよ~?」

 ……こうなるとわかっていたのに。
 黙って、席に戻ろうとする。

「は? 無視とかありえないんだけど?」

「やっぱり首塚さんってアレだよね、自分のことめちゃくちゃかわいそうだと思ってるでしょ?」

「なにそれヤバ。やっぱりお嬢様だよねぇ。今まで良い~暮らししてたんでしょう。何の苦労もしたことなさそうな顔だもん」

 花子さんとの時間で少し癒えたと思っていた傷口が、あっけなく、パックリと開く。

「お姉ちゃんが守ってくれてたんだもんね~?」

 傷口はどんどん広がる。裂けて、膿んで、もう簡単には癒えない傷が、どんどん増えて……。頑張って耐えても、傷口を修復しても、カサブタになったそばからさらに抉る、抉る。
 女子のひとりが、わざとらしくキョロキョロと人を探すような仕草をして見せる。

「あれれ~? お姉ちゃんは? お姉ちゃんはどうちたんでちゅかぁ~?」

 ああ――。

「誰かあ~! ボタンちゃんがお姉ちゃんとはぐれてしまいましたぁ~! 早く探してあげて下さ~い!」

 ボタンは想像する。実際に暴れて問題を起こすわけにはいかないから、頭の中だけで想像する。この人たちを、この手で――。

「この学校、迷子センターとかあったっけ?」きゃははははと笑うクラスメイト。

「なにそれ、首塚さん専用じゃん!」あっはははは! クスクスクス! きゃっはははははははははははははははははははははははははははははははは!!

 

――。

 

目の前に、黒い粒子が見えた。

 

(え――?)

 

「何?」「は?」「ヤバ」戸惑うクラスメイトの声が少し遠くから聞こえる。……戸惑う? 何に?

「……こんなに早く呼ばれるとは思っていなかったのじゃ」

 これは、ボタンの声。ボタンの……声? そうだ。自分の声を間違えるはずがない。
 これは……。

 ――自分の声を間違えるはずがない。

(これは――私じゃない!)

「ぷりちー花子、ただいま参上♡ キャーーーカカカカカ!」

 目の前には、口をぽかんと開けた女子たち。
 当然だ。突然頭がいかれたと思っているだろう。
 嫌な予感がした。

(花子さん、待ってください! ここでは――)

「オマエから、強く呼ぶ声が聞こえたぞボタン。助けを呼ぶ声じゃ。うるさくて落ち着いて揚げパンも食べられん」

 まだ食べていたんですか。いやそれより――。

(とにかく待ってくださ――)

「待たん」

 言うや否や、花子さん(ボタン)はどこから取り出したのか真っ赤なランドセルを手に持ち、そのロックを外した。

「あ~い、恨めしやぁ~~~!」

 ランドセルの中から、紫色の人魂のようなものが複数、飛び出してくる。それが花子さんの体の周りをぐるぐる回り、近くにいた女子の一人に当たる。

「……は?」

 当たった女子のお腹に、ぽっかりと、握りこぶしサイズの穴が開いていた。

(へ?)

 腹部を貫通させられた女子は目を大きく見開き、口から血を吐いて、ガクっと膝をつき倒れる。床に血だまりがひろがってゆく。
 この時この場で、動ける人間などいなかった。ただ目の前で起こった出来事を、突拍子もない安い演劇かなにかのように考えていただろう。そう考えるしかなかった。脳がそう判断せざるを得ないほどに現実味がほとんどない。
 続いて人魂がその隣にいる女子の胸を音もなく貫通する。倒れ、ビクンビクンと2,3回大きく体を震わせ、動かなくなる。ここまでで、時間にして10秒も経っていない。遠くの方にいるクラスメイト達はまだこっちで起こっていることに気づきもしていない。

「キャアアアーー!!」

 ようやく一人が甲高い悲鳴を上げる。何事かと、教室内のほぼ全員がこちらのほうに視線を向ける。そのうち10人程度が、倒れた生徒の方に向かってくる。(花子さん!)

「なになに?」「大丈夫?」「どうしたの?」一人が花子さんの後ろから近づいてくる。「誰?」「駄目、そいつ……そいつが」その一人が、床に広がった血だまりを見た。「ひ――」

 花子さんが、頭だけその女子に向ける。

「なんじゃ、目が要らんのか?」

 人差し指と薬指を両目に突き立て、その女子の両目を潰してしまった。
 一瞬だった。
 一切の躊躇もなかった。

「ぎいぃぃぃぃぃ!」

 両目を潰された女子が苦悶の声を上げる。
 その声を皮切りに、教室内は恐慌状態に陥る。
 きゃあああという悲鳴がそこかしこで上がる。まるで大地震か火事が起こったようだった。いや、あるいはそれよりも状況は悪いかもしれなかった。災害ならば、何人かは助かったかもしれない。だけど、それが妖怪による突然の虐殺だった場合――皆殺しだ。きっと誰も助からない。

「ああ、久々に体を動かすとすっきりするのう」(――こんなことって)

 人魂の範囲は徐々に広がっていく。(こんなの……)

 それはさらに多くの命を巻き込み、容赦なく刈り取っていった。(どうしようも、ない)

 そのとき、

「なんの騒ぎですか!」

 大きな声と同時にバンッ! と勢いよく教室のドアが開け放たれた。
 教室の入り口に立っていたのは――

(立華先生!?)

 華道部顧問の立華先生だった。
 先生は教室内を見渡し、横たわる死体の山を見て大きく目を見開く。
 そして騒ぎの中心にいる私――花子さんの方に視線を向ける。
 目が合う。

「ボタンちゃん……!?」

 名前を呼ばれた時。

 ああ――終わりだ、と思った。

 この状況を、どう言い訳できるだろう。お姉ちゃんが帰ってくるこの学校を守ろうと思って今まで耐えてきたのに、すべてが滅茶苦茶になってしまった。
 人を殺した。それも大勢。
 みんな、ボタンが嫌いな人たちだ。本気でいなくなればいいのにと思ったことは一度や二度ではない。だけど、まさかこんな……。
 殺したのは花子さんだ。だけど、やったのはボタンの体に違いないのだ。この手は血に染まってしまった。自分は警察に捕まるだろう。当然、元の日常なんて送れる筈がない。 
 そんな資格も権利もない。お姉ちゃんとは、もう一生会えない――。
 そう思った時、先生が言った。

「……ボタンちゃんじゃないわね?」

(え……?)

「なんじゃ貴様ちゃんは? わしのことをわかるとはなかなかじゃのう」

「わかるわよ。あの子の先生だもの」

(先生……)

 先生、私は……これからどうしたらいいですか。

 泣き出しそうだった。何もかも忘れて、先生に縋り付きたかった。でもそれはできない。ボタンは体を動かせない。ボタンの体の周りを回る人魂のせいで近づけない。契約が、それを許さない。

 ――その時、空間がぐにゃりと歪んだ。

(!?)

「なんじゃ!?」

 ボタンは信じられないものを見た。

 景色が捻じれていく。クラスメイトの死体も、立華先生も、黒板も、机と椅子も、掲示物も、ドアも天井も、視界に入るすべてがぐにゃりと、徐々に渦巻き状に捻じれてきている。
 ボタンと花子さん以外の時は止まってしまったようだった。まるで、写真に収めた風景をCGで歪めているような、そんな感じだ。

「夢でも見てるんでしょうか……? あれ?」

 いつの間にかボタンの体は元に戻っていた。隣をみると元の姿の花子さんもいる。

「花子さん、これはどういうことなんでしょう?」

 花子さんは鋭い目つきで辺り一帯を見渡す。

「……わしにもわからん。呪いとは違うのう。それ以外の、何か別の力じゃ」

 もう教室は元の姿すらわからないほどに捻じれきってしまっていた。
 目が回る……気持ち悪い。

「どうして私たちは無事なんでしょうか?」

 

「ヨがおまえらをスカウトしてるからだヨ~」

  空間に間の抜けた声が響いた。
 ボタンは驚いてあたりを見回す。何もない。
 上を見る。教室の天井……そこに、ひと際捻じれた空間があった。
 そこに向けて叫ぶ。

「誰ですか!?」

 間違いない。声はそこからだ。
 その捻じれた空間から、タコのような触手がぬるりと現れる。

「ヨはヨっちゃんだよ~」

 返事と同時に、それが現れる。タコのような大きな目に、ピンク色の角。それに、ふわふわと宙に浮いている。どう考えてもこの世の存在ではない。
 ボタンは固まってしまう。異常事態が立て続けに起こり、とてもではないが対処しきれない。

「お前ら、ジョーカーチェイスに興味ない~?」

「はい?」

 ジョーカー……何だろう?

「この世界の裏側にはサカサマシティっていうココとは全然違う世界があるんだヨ。そこではジョーカーチェイスっていう競技が大流行してるんだヨね。というわけでこっちに来ない~? あと望みをなんでも一つ叶えてやるヨ~」

 待て待て待て。ボタンはいよいよ訳が分からなくなる。いやこれまでも十分訳が分からなかったが今回ばかりは特級だ。急展開すぎる。何? 何が起きてるの? 世界の裏側? サカサマシティ? いやそれよりこの化け物は今もっと大事なことを言った気がする。

「面白そうじゃの~!」

 花子さんは乗り気だ。この切り替えの早さは本当にすごい。でもボタンには確認したいことがあった。

「望みを叶えるって、言いましたか?」

「そうだヨ~」

 それはボタンにとっては千載一遇のチャンスだった。
 お姉ちゃんに、会いたい。
 そのためにこれまでの日々を耐えてきたのだ。
 正体不明の化け物に突然望みを叶えると言われて信じる人はいないだろう。しかし、ボタンにはもう引き返す道などなかった。
 だから、望みを賭ける。

「……私、行方不明になったお姉ちゃんに会いたいんです。お姉ちゃんの名前は首塚ツバキといいます」

「そいつならもうサカサマシティにいるヨ」

「え!?」

「もう3カ月くらい前になるヨ~。とんでもない呪圧と一緒にふらふらしてたから攫っ……スカウトしたんだヨ」

「今なにか言いかけましたよね」

「気のせいだヨ~」

……とにかく、選択肢はない。

「お願いします! 私もサマサマシティに連れて行ってください! お姉ちゃんに会いたいんです!」

「それがおまえの望みかヨ?」

「はい」

「……ムピャピャピャ! こんな楽なスカウトはないヨ。こっちの世界にくる交換条件に望みを叶えてやるのに、こっちの世界に来ること自体が望みなんて」

「いいんです。それ以外に方法がないんですから」

「望みを叶えるのはタダじゃないよ~? こっちに来たらさっき言ったジョーカーチェイスに参戦してもらうヨ」

 ジョーカーチェイスとは、3対3で争う鬼ごっこ形式のゲームだという。
 しかし、それは人の魂を賭けたものだ。オニ側には武器の使用が許可されている。捕まれば容赦なく武器を振るわれ、魂を失う。なんとも恐ろしい話だった。
 だがボタンの覚悟は決まっていた。
 お姉ちゃんを取り戻すためならば、なんでもして見せる。

「大丈夫です。腕っぷしには自信ありますから」

「足の速さを鍛えた方がいいと思うヨ」

「沢山食べて、トレーニングします」

「もう行っていいのかヨ~? 忘れ物とかない~?」

「――ごちゃごちゃうるさい奴じゃのう」

(あれ!?)

 いつの間にかボタンは花子さんに憑依されていた。

「早く案内せんかいボタンが待っとるじゃろが! タコ焼きにして給食に出すぞコラ!!」

「いきなりどうしたんだヨ!?!?」

「レッツゴーじゃ♡」

「足を掴むなヨ!?」

 空間の捻じれがさらにひどくなる。もう元の景色が何だったのか、想像できないほどに。

「……じゃ、望み通り早速行くヨ~」

 ボタン達はその捻じれの中心部に、吸い込まれていった。

第2章 サカサマシティ

 ボタンが目を覚ます。原っぱの上で寝ていたようだった。隣をみると、花子さんもいる。そこは随分と奇妙な場所だった。
 例えるなら……おもちゃの国? それがボタンが抱いた、サカサマシティの第一印象だった。生える草木は一見元の世界と変わらないようだが、しかしよく見るとカラフルなキノコ(おいしそう)や見たこともないような蛍光色の花などが生えている。
 それに、空にはからくり仕掛けの巨大な魚が浮かんでおり、自由に泳いでいる。あちこちに建つ家の壁は黄色や青や緑など、色彩が目に優しくない。
 子供向けのテーマパークの中だと言われたらそのまま信じてしまいそうな景観だった。ここまでに至る経緯がなければ、ここが異世界だという実感を得ることはなかっただろう。

「花子さん……起きてください。花子さん」

「むにゃ……まずい……このままではわしがあまりにもきゃわゆすぎるせいで、国も時空も性癖も歪んでしまう」
 
 どんな寝言だ。

「起きてください!」

「んん……ここはどこじゃ? わしはかわいいか?」

「ここはサカサマシティです。花子さんはかわいいです」

「そうか……」

 むにゃむにゃと、眠そうに目を擦る花子さん。

「こんな形で、学校の外に出られるとは思わんかったわ」

「……そうですね」

 花子さんに、言いたいことはある。

(あなたのせいで、元の世界には戻れなくなりました)

 勝手にボタンの体を使ってクラスメイトを惨殺したこと……それを責める気持ちがないと言えば噓になるだろう。
 しかし、花子さんは呼ばれて来たと言っていた。精神的に限界を迎えたボタンの潜在意識が、ボタン自身も気づかないうちに花子さんを呼び出したのだろう。そしてそれは、助けを呼ぶ声だった。花子さんは契約者であるボタンを助けるために脅威を排除したのだ。妖怪である花子にとって、現実の法や倫理などどうでもいいのだろう。ただ、契約に則り力を行使した。それだけのことだった。
 それに、もとよりあの世界にはボタンの居場所はなかったのだ。
 ボタンの居場所は――。
 ――わしがオマエの居場所じゃ、ボタン。
 花子さんの、隣だった。

「とりあえず、色々見て回りませんか? ジョーカーチェイス……っていうのもまだ始まらないみたいですから」

「そうじゃのう」

 素直にボタンの後ろをついてくる花子さん。
 花子さんは、今何を考えているんだろう。
 ジョーカーチェイスを楽しみにしている? 学校の外を初めて歩いて、感動している? それとも、何も考えてない?

(私のことは……どう思っているんだろう)

 花子さんは言った。花子さんの隣がボタンの居場所だと。あの言葉は、どのくらい本気なのだろう。
 歩きながら、ボタンは何気なくポケットに手を入れ、花子さんからもらったキーホルダーを取り出そうとした。
 指先がポケットの布地に触れた。

(あれ? ……え?)

 ない。
 花子さんからもらったキーホルダーがない。
 嘘……! どうして!?
 反対のポケットも確認するがそっちにもない。
 サー……っと、全身の毛が波打つ。心臓の鼓動が早くなる。
 呼吸が苦しくなる。

(そんな……。あれは、私の、初めての……)

「どうしたボタン」

「あっ……いえ……その……」

 どうしよう。なくしたことを告げればきっと花子さんを悲しませるだろう。でも、このままでいるなんて。
 ……。

「キーホルダーを、なくしてしまいました」

 ボタンは素直に言うことにした。黙っている方が花子さんに対して不誠実だと思ったからだ。

「なんじゃと?」

「花子さんからもらったキーホルダー……なくしてしまいました。スカートのポケットに入れたはずなのに……本当にすみません」

 言葉をいくら紡いでも無意味だ。花子さんに合わせる顔がなかった。
 しかし、数秒間の沈黙の後、

「しょ~がない奴じゃの~」

 あっけらかんと言った。花子さんは少しも気にしていない……どうでもいいことのように言ったのだ。

「怒らないんですか」

「どうせ要らんものじゃしの」

「そう、ですか」

 花子さんが怒らなかったことに少しほっとしたが、どこか寂しかった。
怒って欲しかったのだろうか? ……本当に自分はおこがましいと思う。花子さんが、自分の大切なものをくれる筈がないのに。
 
……。
…………。
………………。
 
***
 

         それから、しばらく歩いていると

 
         倒れているお姉ちゃんを見つけた
 
 
 ボタンはその体を抱きかかえる。

「お姉ちゃん!!」

 しかしお姉ちゃんに反応はない。

「お姉ちゃん! ……これって、もう……死んで……」

 心臓が痛い。視界が暗くなっていく。
 もう死んじゃったの? 私、遅かったのかな。
 ごめんね、お姉ちゃん。ごめんね、お姉ちゃん。ごめんね、ごめんね、ごめんなさ――

「生きてるヨ~」

 後ろから声がした。
 このとぼけたような声は……。

「ヨっちゃん!」

 ヨっちゃんがボタンの隣まで来る。

「自分のねーちゃん勝手に殺すなヨ。……ツバキはずっと強き力をその身に封印してたんだヨ。でもいくら呪力つよつよの黒巫女でもその呪圧に体がついていけなかったっぽいね~。キャパオーバーだヨ」

 お姉ちゃんが、生まれながらにしてなにか特別な力を宿していたのはボタンも知っている……が、その力がなんなのか、詳しいことはボタンにもわからなかった。両親も、お姉ちゃんも、教えてくれなかったのだ。
 首塚家のことを、実際のところボタンはほとんど知らないのだ。
 姉妹である私たちが、なぜ黒巫女と白巫女として育てられてきたのか。花子さんを封印したのが首塚家であったこと。
 ボタンには知らないことで溢れている……。

「ツバキを助けるにはウラテンゴクに行くしかないヨ」

 ヨっちゃんの説明によれば、ウラテンゴクというところにあるツバキの魂体を解放すればお姉ちゃんは復活するらしい。

「ではすぐに行きましょう!」

「ツバキの気配を辿っていけばすぐだヨ」

 と、ヨっちゃんが黒いサングラスを渡してきた。

「サングラス?」

「ウラテンゴクは真っ白で眩しいからそれつけてないと失明するヨ」

「怖すぎませんか!?」

 さらっととんでもないこというなぁ。

「ま、せいぜい頑張れヨ~」

 ヨっちゃんはすーっとどこかに行ってしまう。
 お姉ちゃんの気配なら、ボタンは感じることが出来た。それは同じ首塚家だからなのか。巫女の力によるものなのかはわからなかったけれど。
 ただ一つわかるのは――。
 ボタンは、お姉ちゃんを助けるためにここまでやってきたのだ。

「待っててねお姉ちゃん……私が今助けるから! ぜったい絶対!」
 
***

 お姉ちゃんの気配を辿っていくと、あっさりその場所にたどり着いた。
ウラテンゴク……名前からはどんな場所なのか想像できなかったけれど、どうやらそれは洞窟のようだった。少なくとも、入り口の形は。

「……と、サングラスですね」

 黒いサングラスをかける。鏡を見たわけではないけれど、きっと自分は今めちゃくちゃ不審者っぽいだろう。けれど気にしている場合ではない。この先にお姉ちゃんがいるのだから。

(……れっつらごー)

 両手で頬をパチンと叩いて、ボタンはその洞窟……ウラテンゴクの中へと足を踏み入れた。
 
 中は本当に明るかった。この光はどこから来ているのだろう? とても不思議だった。
 いたるところに謎の骨やら棺桶やらが無造作に転がっている。これで暗かったら怖がりなボタンにとってはかなりきつかっただろう。
 中は意外と広々としていたが、構造自体は複雑なものではなく、お姉ちゃんの気配を辿っていけばあっさりとその地点に行くことが出来た。
 お姉ちゃんの気配が一番濃いところ……。ボタンの前には鎖でぐるぐる巻きにされた黒い棺桶があった。ほんとうにこの中に? 

(お姉ちゃん、今助けます!)

バキィ!!!!!!!!!!!!!!!

 とりあえず少し鎖をひっぱってみると、バラバラに砕け散ったので、ボタンはそのまま棺桶の蓋を開ける。
 中には、すやすやと寝息を立てて眠るお姉ちゃんの姿。

「お姉ちゃん!」

 生きてる……! お姉ちゃんが、あれだけ探しても見つからなかったお姉ちゃんが、目の前に!

「……ふぁー。よく寝た」

 お姉ちゃんが目を覚ます。久しぶりに聞いた、大好きなお姉ちゃんの声だった。
 ボタンはお姉ちゃんの体を抱きしめる。強く抱きしめる。

「お姉ちゃん……無事でよかった……!」

「なぁに? 知らない場所だわ。それに、なんだか楽しそうな場所ね? 私も見て回りたーい♪」

 お姉ちゃんはすっくと起き上がるとスタスタと先へ行ってしまう。
 いつものお姉ちゃんだ。ボタンは嬉しくなる。お姉ちゃんはマイペースで、周りを振り回すけれど、だけどいつだってかっこいいんだ。

「待ってお姉ちゃん! 私もついていきますー!」

 こんな場所で迷子になったら大変だ。
 来た道を引き返さないと。
 ボタンはお姉ちゃんの手を取って出口の方へ案内する。
 お姉ちゃんはボタンの方を見てやさしく微笑んだ。
 ツバキの花言葉――「完全なる美しさ」
 やっぱりお姉ちゃんは綺麗だ。ボタンは、少しの間見惚れてしまっていた。

***

 出口に着く。

「あぁ、なんだか目に痛い色彩の世界が向こうに見える……。私こっちのほうが居心地よかったわ。戻っていい?」

「駄目です! ここにいすぎると元の世界に戻ってこれない気がします」

 元の世界……言ってて少しおかしかった。ボタンとお姉ちゃんにとって元の世界は、サカサマシティではないのに。

「ほら、サカサマシティに帰りますよ、お姉ちゃん!」

 駄々をこねるお姉ちゃんを引きずっていく。

 こうしてお姉ちゃんはボタンのもとに戻ってきた。
 良かった。本当に、良かった。
 お姉ちゃんは優しかった。
 ボタンは今まで抑えてきた気持ちが抑えきれなくなって泣いてしまう。
 泣いて、泣いて、涙が止まらなくなる。
 強く、お姉ちゃんの体を抱きしめる。
 お姉ちゃんには、すべて打ち明けた。
 お姉ちゃんがいなくなってしまってからの日々のことを。
 学校のこと。両親のこと。変わってしまった世界のことを。

「今までよく頑張ったわね、ボタン」

 ああ……。お姉ちゃんの言葉は、酷く甘い。
 身も心も、全部蕩けてしまいそうだった。まるで禁断の果実を絞り、そのどろりとした甘い中身を体に直接流しこまれているよう。
 お姉ちゃんは、ボタンが欲しかった言葉を全部言ってくれる。

「ボタン、可愛い子。ボタンは私の大切な妹よ」
 甘い、甘い……その言葉。意識が落ちてしまいそうになる。

「ボタン、可愛い子。ボタンは私の大切な妹よ」

 ――違和感を覚えた。

「ボタン、可愛い子。ボタンは私の大切な妹よ」

 お姉ちゃんは、優しい……。

「ボタン、可愛い子。ボタンは私の大切な妹よ」

 でも……。

「ボタン、可愛い子。ボタンは私の大切な妹よ」

 お姉ちゃんって、こんなに優しかったっけ?

「ボタン、可愛い子。ボタンは私の大切な妹よ」

 これは……まさか……。

「ボタン、可愛い子。ボタンは私の大切な妹よ」

 ……。

「誰……ですか」
 
 刹那、空間がぐにゃりと歪んだ。
 お姉ちゃんの顔も、渦に飲み込まれるようにぐにゃりと捻じれていく。

「ボタン。カワイイコ。ボタンハワタシノノイセツナイモウトノタイセセセセ」

「ひ……っ」

 抱きしめていたお姉ちゃんからバッと離れる。
 なに……? なにが起きてるの?

「案外早く気づいたな」

 頭に響く声。

「ヨっちゃん……」

「気づかなければ幸せだったのに、馬鹿だよな~」

「どうしてですか。どうして、こんなこと」

 悲しみと、……この感情は、怒りか。

「望みを叶えたんだヨ。お姉ちゃんに会いたいっていってたもんな~」

「こんな、こんなことは望んでいません! 私は、本物のお姉ちゃんに会いに来たんです! 現実の世界で一緒にいた、あのお姉ちゃんに!」

 ヨッちゃんははぁ、とため息を吐いた。

「だからそれならここに来た時見せたヨな? 意識を失ってるんだヨ」

「でも……! だってそれは、ウラテンゴクに行けば、復活するって」

「お前のために用意したプレゼントのつもりだったんだけどな~。本物のねーちゃん復活させるのってお前にとって本当にいいことなのかな~? ムピャピャピャ!」

「どういう意味ですか!?」

「それを聞いちゃったなら、もう仕方ないヨね」

 ヨっちゃんは語り始める。

「お前が知っての通りそのツバキは幻だヨ。だって現実のツバキはお前に優しくしてくれたことなんて一度もなかったもんな~?」

 ぐらり、と体がふらつく。
 痛い……頭が、痛い!

「そんなこと、ないです。適当なこと言わないでください」

「よく思い出してみろヨ」

 嫌……! 嫌!
 違う、違う、違う、違うぅぅ……!
 何かが頭に突っかかる。脳みそに何か鋭い棘のようなものが突き刺さり、しかもそれは返しがついていて、抜こうとすると強烈な痛みが襲うのだ。気づかなければ全く気にもならないが、しかし一度意識してしまえば二度とその痛みを無視できない。

***

 5年前。
 ボタンの家。夜。
 ボタンはトイレに行こうと一階に降りる。
 キッチンの明かりがついていた。

「で、ボタンの方はどうなの?」

 これは……お母さんの声。

「ボタン? ……ああ」

 これは……お姉ちゃんの声。

「ツバキ。ボタンは■■に……■■■というのは……」

 お母さんがお姉ちゃんに何かを言っているが、よく聞き取れない。

「――無理ね」

 冷たい声だった。

「そんな。でもね、お母さんは――」

「駄目よ」

 冷たい、その声が……。

「あんな出来損ない。無理に決まっているもの」

 ――。
 
***

「お、姉ちゃんは……私のことを……。でも、私たちは、仲がよくって……」

「思い出したかヨ? でも願いは願いだから、それは叶えたしな~。ボタン、お前はもう帰れないヨ。というより、帰った瞬間に死ぬヨ」

 何を言っているのかよくわからない。心臓がドクンと脈打つ。鳥肌がブツブツと全身に立ち、吐き気がこみ上げる。

「でも安心しろヨ。サカサマシティではヒトは死なないからね~。でも、元の世界に戻ったら間もなく死ぬヨ。怪異の呪いがお前を侵食しているから。馬鹿だよな~、人を平気で殺すような、怨念の塊みたいな奴と契約して、あまつさえ体に憑依することを許すなんてヨ」

 頭が痛い。何を言っているんだろう? 怪異? 怪異って何だっけ? 死ぬ? 誰が? 帰れない? どうして。

「わ、たしは……現実に帰るんです……! お姉ちゃんと、一緒に……。ずっと、こっちの世界にいるなんて」

「お前現実で自分が何したか忘れたのかヨ? 生きてようが終わりだヨ。それに、ツバキだってこの世界だから生きてられるんだヨ。あの呪われっぷりじゃ現実だともたないね」

「そん、な……」

「つまりお前たち姉妹は」

 とどめの一撃が放たれた。

「ヨが、生かしてやってるんだヨ」

「ぁ――」

 お姉ちゃんと一緒に――。

「だから」

 私たちは、現実に――。

「もうここが、お前たちの現実なんだヨ」

 視界がぐるぐる回る。

「じゃーなー、ジョーカーチェイスでヨ達に貢献しろヨ~」

 ヨっちゃんが、すーっと消えていく。
 ああ、そっか。
 ヨっちゃんの言う通りだ。
 ずっと、ここにいれば――。
 永遠に、『大好きな優しいお姉ちゃん』と一緒――。
 ボタンの願いは、叶ったのだ。
 突然地面がぬかるみ、足がもつれる。
 ぐにゃりと、地面が捻じれていく。まるでサカサマシティに初めて来たときの光景のようだ。ボタンは泥の中に埋まっていく。底なし沼って、こんな感じなのかな。ボタンに這いあがる気力もない。
 温かい……柔らかい。
 あっという間に、頭のてっぺんまで埋まってしまった。でも息は苦しくない。不思議な感覚だった。眠たくなり、目を閉じる。
 どれほどの時間が経っただろう。何分? 何時間? ……何日? ボタンにはもう恐怖心というものはなくなっていた。ここは居心地がいい。温かな泥はまるで柔らかい布団のようだ。抵抗などできない。全身の力を抜いて、重力に任せ、埋まっていくがままになる。 
 ああ、心地いい。
 身を委ねる。
 落ちていく。落ちていく。泥の中へ――。

「……ン!」

 ああ、ずっとこうして埋まっていたいな。
 温かな膜に包まれていたいな。

「……タン!」

 お姉ちゃんも一緒に……。
 お姉ちゃん……。
 お姉ちゃんを一緒に探してくれると言ってくれた人がいた気がする。
 変な話だ。お姉ちゃんなら、ここにいるのに。ボタンが願えば、いつでもそばにいてくれるのに。
 ああ、でも――。
 
 約束を、した気がするんだ。
 
 誰と? どんな?

 ――三階の三番目の個室のドアを、三回ノックして、「■■さんいらっしゃいますか?」って言うの。
 
 ――ねぇ、ボタン。■■さんに会うときは、手順を絶対に間違えちゃダメよ。
 
 これはお姉ちゃんとの会話だ。この時のことを思い出して私は――。

***

 さぁ、3回ノックをして――!

「むんっ!」

 バキィッッッ!!!

「え?」

 トイレのドアが木っ端みじんに粉砕されていた。
 そして中では、ドアの破片の木屑まみれになった小さい女の子が、いままさに揚げパンを食べようとしているところだった。

***

 ――間違えたらどうなるの? 

 ――もし、間違えたら――。

「ボタン!!」

 ――一生、取り憑かれちゃうんだから。

 手を引かれた。
 あれだけ深く埋まっていたはずなのに、一瞬で地上へと戻される。

 ああ、どうして忘れていたんだろう――!!

「花子さん……!」

 ボタンは理解する。
 花子さんとの出会いは、致命的な運命なのだと。

 全て思い出した。

「ふんぬッ!」

 花子さんが両手でボタンの腕を引っ張る。
 びちゃあ! とボタンの体は地面に打ち上げられた。

「ふぅ~。よかったのう。わしちゃんに感謝せよ。颯爽と駆けつけ引き上げたわしちゃんの雄姿を称えよ」

「ありがとう、ございます……」

「相変わらず張り合いのない奴じゃのう~」

「どこに、いたんですか。ずっと……いなくて、いつのまにか、いなくなってて……私も、お姉ちゃんに夢中で……いつのまにか忘れてて……私が気づかなきゃいけなかったのに。私が見つけなきゃいけなかったのに! ごめんなさい……! ごめんなさい……!」

「どうでもよいわ。わしも色々観光できたしの~」

 お姉ちゃんは幻だった。じゃあ、花子さんは……? 

「花子さんは、本物ですか」

「あん?」

「お姉ちゃんは、幻だったんです」

「何をわからんことを。お前には溢れ出るわしちゃんのきゃわオーラが見えんのか? このキュートでマーベラスな妖怪こそ至高の芸術じゃろて。これこそ本物。リアル」

 本物だ。この妖怪を、間違えるはずがない。
 ボタンはまだ立てずにいた。力がまだうまく入らない。頑張って立とうと試みる。

「さて、わしちゃんは行くとするかの~。オマエも好きにしろ。揚げパンを見つけたら奉納せよ」

 花子さんは背を向けて、どこかに歩いて行ってしまう。

「へ? 一緒にいてくれないんですか?」

「飽きてきたしの~。オマエは丁度いい玩具と思っておったんじゃが。この世界を見て回るのが今は楽しい!」

 とんでもないことを言われている気がする。

「け、契約はどうなるんですか!?」

「オマエの姉は見つかったんじゃろ? ならもうどうでも良いわ」

「見つかってません! というかもう今はそれどころじゃないです!」

 力が入らない手足に、懸命に力を込める。立って!
 でも、せっかく膝を立ててもその姿勢を維持できない。どうして! どうしてこんなにも、私は何も、できない――。
 崩れ落ちる。地べたを這う。でもボタンは諦めない。もう一度渾身の力を込めて膝を立てる。両手を地面につけて、ゆっくりと体を起こしていく。

「待って、ください!」

 花子さんは歩いていく。
 ああ、終わってしまう。
 花子さんにとっては私はただの人間の一人。そんなことはわかっていた。特別なんかじゃない。ボタンは、お姉ちゃんのようにはなれない。でも――。

「待たん。じゃあの」

「私のことがどうでもよくなったのなら、どうして助けてくれたんですか」

 花子さんが足を止める。

「……気まぐれじゃ」

 が、すぐに歩いて行ってしまう。
 お姉ちゃんはいない。
 本物は、花子さんしか。ボタンの話を聞いてくれるのは、花子さんしか。
 花子さんの背はどんどん遠くなる。
 花子さんが行ってしまう……!

「……逃がしませんよ」

 ボタンが立ち上がる。立ち上がることが、できた。
 身体はフラフラだ。走るどころか、立っていることすらままならない。

 でも、足を動かさなければ!
 走らなければ!
 もうボタンは失いたくなかった。これ以上、もう何も、失いたくなどなかった……。
 走る。
 花子さんの背を追いかける。
 花子さんが少し驚いたような顔をして、振り返った。
 そのまま花子さんの手を握る。強く。

「契約者は、私です! それに」

「何を……」

「キーホルダー、まだ見つけてません……!」

「そんなもの、どうでもいいじゃろが」

「どうでも良くないっ!!」

「――っ!?」

 ボタンは叫んだ。今にも倒れそうなこの体。でも、この手だけは離すわけにはいかなかった。

「初めてだったんですっ! 人からものを貰ったのは! お母さんもお父さんもお姉ちゃんにしかプレゼントをくれなかった! お姉ちゃんだって本当は私のことなんて嫌いだった! みんな、みんな、みんな……! 私を見てくれた人は花子さんだけなんです!」

「わしちゃんは人じゃ――」

「どうでもいいんですそんなことっ! 人でなくてもいい! 私のことなんか呪い殺したって構いません! 私がそばにいたいんです! わたし、が……っ!」

 それは祈りにも似た叫びだった。涙はとめどなく流れ、息は苦しい。

「……ボタン? おいボタン!」

 あ、れ……? 私……また倒れ……。
 だめ……花子さんが、行っちゃう。絶対、だめ……。

「いかないで……花子さん」

 ボタンは、再び意識を失った。

「……モテモテじゃのう、わしは」

***

 ボタンは原っぱで仰向けに寝ていた。
目を覚まして隣を見ると、花子さんが座っていた。ボタンの隣に、いてくれていた。

「花子さん……?」

「なんじゃ目を覚ましたか」

 その声を聞いただけで、ボタンはひどく安心する。
 心は、凪いでいた。

「わしちゃんの心地よ~い花の香りに包まれていたからの。花子だけに(爆笑)。よーく寝ておったわ」

「芳香剤の香りじゃないですか、それ」

「よし呪う」

「冗談ですよ」

 あはは、と笑うボタン。さわやかな風が全身を優しくなでていく。

「……私たち、これからどうなるんでしょう」

「ナントカチェイスに参加するんじゃろ? というかあのタコはどこに行ったんじゃろな?」

 そうだ。
 ジョーカーチェイスに参加する。参加し続ける。元の世界には帰れない。
 そして、お姉ちゃん探しは……。
 ボタンはふと、昔を思い出していた。
 お姉ちゃんが、華道で上手く華を活けられないボタンに綺麗な牡丹の活け方を教えてくれたこと。
 呪われ体質なボタン。いつも小さな呪いを貰ってきてはお母さんに呆れられ、それもいつの間にか解呪されていたこと。
 学校で、ボタンのクラスの様子を見に来てくれたこと。
 ……。
 お姉ちゃんは本当は、どう思っていたんだろうか。あの時何を考えて、行動したのだろうか。
 気づけないことだらけだ。首塚家のことも、花子さんのことも、呪いのことも、人の思いも。
 ……もう一度、お姉ちゃん探しを始めよう。新しい、毎日を紡いでいこう。
 この、サカサマシティで。

「花子さん」

「なんじゃ?」

――それは、このすちゃらかな怪異と共に。

 だから……。




「私と、友達になってくれませんか?」
 

 



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