見出し画像

なんだかアップデートという言葉に脅されすぎているような気がして…

この社会には、不文律(暗黙のルール)ってのがある。

たとえば路線バスの終点では、音声案内に対して降車ボタンを押す必要はない。
終点では全員が降りなくてはならないからだ。
あるいは路線バスの始発停留所では整理券が出ない(出る場合もあるけれど)。
最高額の運賃を払わなくてはならないことが、はなから分かりきっているからだ。とはいえ、いまやほとんどの人がICカードを利用しているわけで、そのうち整理券なんてものはなくなってしまうのかもしれない。

不文律に理由を求めてはいけない。理由を求めるとかえって変な人ってふうになってしまうから。いくつかの場面では〝思考停止〟しなければならない…これもまた不文律なのかな(笑)。

挨拶の基準がよくわからなかった子供時代


さすがにいまの時代にもなって「知らない人にも通りかかったら挨拶を」…なんてことは言わないと思うけれど、昭和50年前後というのはそういうふうなことを言う大人がいた。お年寄りを喜ばせるためだったのかもしれない。いまだったら、見知らぬ人に親近感をふりまく行為というのはリスキーだといったふうになるのだろうけれど。

まあ、そうした呑気な時代でも「知らない人についていくな」とだけはちゃんと言われていたからご安心を。いまならなおさらだ。犬も歩けば棒にあたる — ならぬ、歩けば「変質者」にあたるような時代だものな(苦笑)。

登山はやったことがないのだけれど、すれちがったら見知らぬ人でも挨拶をする習慣があるらしい。でもこれ、フレンドリーで微笑ましい文化というよりは、万一遭難があった場合に「この人をこの辺りでみかけた」といった手がかりを得やすくするシステムなんだろうなと思う。

とはいえ、子供にそんなことにまで理解が及ぶわけがない。
曖昧な人間らしさというものをおもんばかって、相手の大人をいい気分にさせることが「いいこと」なのだといったふうに、どこか錯覚させられていたところがあったんじゃないかなあ。昭和だから。

人間らしくないもの


空いている時間だと、路線バスの乗客が自分ひとりだけ…といったことがある。
子供のころの私は、なんで一人なのにわざわざ降車ボタンで降りたいことを伝えなければならないのだろうか…ってふうに感じていた。

恥ずかしながら告白する。ティーンエイジャーだったころ、たった一人しか乗客のいないバスで降車ボタンを押さずに、運転手さんに口頭で「降ります」と伝えたことがたぶん3回ほどあった。おそらく、無機質な口調で「降車ボタンを押してください」って言われたはずだ。そのうちの一度はそれすら言われず、ガン無視で降りるべき停留所を通過されてしまった。まあ、これは当時の私が悪い。

とはいえ、いまだに当時の私の気持ちだってわからなくもない。

ーーー

バスを降りるときには、運転手さんに「ありがとうございました」って一言をってふうに教育された。なのに、自分の父親がバスを降りるときに「ありがとう」って声をかけたところなんて一度も見たことがない。昭和という時代はきわめて明確に、大人のふるまいと子供のふるまいってものが区別されていたし、さらにいえば逆らえなかったと思う。

いまだったらきっと「お金払ってるんだから、なんでわざわざこっちが『ありがとう』なんて言わなきゃならんの?」ってふうなことを、子供の側が言い出しかねないんだろうけれど。逆に、こういう場面で「ありがとう」を言える大人は、昭和や平成初期にくらべてむしろ増えているような気がしている。ちょっと嬉しい。

平成中期あたりは、学校現場での学級崩壊が小学生の代から起こっていたが、いまやもう一歩すすんで、〝学校の先生〟が心を守るために子供にもビジネスライクに接することを余儀なくされている — ってふうにも見える。
批判ではない。ただややこしさ、あるいはわかりづらさを憂いているだけだ。

コンビニで酒を買うときのあのボタン


登場当時はいろいろ議論が出たけれど、現在はもうすっかり当たり前になったあのボタン。登場当時は「見りゃわかるだろ?!」といったふうに、客と店員との間でのトラブルが絶えなかった。

トラブルを避けるため、ご年配の客のレジ対応をするときには店員みずからOKボタンを押していたということもあったようだ。とはいえ馴れってのはオソロシイもので、いまやこの不自然なボタンもすっかり定着した感がある。酒類購入のとき、OKボタンに歯向かう人というのをほとんど見かけなくなった。

ローカルルールが肥大化しすぎている


少し困るのは、いわゆるローカルルールでしかないようなものが、アタリマエ化しすぎていることだ。

喫茶店Aは昭和さながらに、食べ終わったあとの食器は机に残したままでいい。
でも喫茶店Bは、食べ終わったあとの食器を返却口に返さなくてはならない。

いまの老害がまだ潜在的予備軍だったころ、そういったケースが大量発生した。これらのローカルルールはもともと、経営側から持ち込まれたものだ。昭和の喫茶店は、食べ終わったあとの食器は机に残すルールだった。「店員さんが気の毒だ」とばかりに食器を調理場に持ち込もうとすれば、怒られたか滑稽視されたはずだ。

いまは、食べ終わったあとの食器を机に残したまま喫茶店Bを出てしまったご年配に、「ルールが分かってない」「老害」「老害は外に出るな」といった非難が必要以上に押し寄せる。おせっかいにもSNSまで使って吊し上げをやる。たかがローカルなトラブルを、SNSで全国区にしてしまうのはさすがにやりすぎだ。

「モノを売る」側がローカルルールをつくっていること自体に文句をつける気はさらさらない(でも反感はちょっとある)のだけど、どんどんいびつになっていく物事に対して、果たしてどう歯止めを求めればいいのかわからないといったところもある。

で、ヘンテコなローカルルールのせいで、現場が疲弊しているケースもある。

「会社の決まりですから」といいつつ、モンスタークレーマーに喧嘩をふっかけられながら店員さんが困り果てているおなじみの場面。トラブルひとつで現場がこれほど疲弊しているのに、背広組は紋切り型のpdf書式のリリース文書を出して終わり。さらには、その失礼きわまりない文面に対して、現場が輪をかけて頭を下げつづけていたりする。ここは無間地獄なんだろうか?

アップデートという言葉にごまかされたくない


アップデートという言葉に脅されながら生きている。
この言葉を持ち出されると、どうも「キミは古い人間なんだよ」と決めつけられているかのような気分になる。前向きなアップデートだったら大歓迎なのだが、なにか利権と結びついたローカルルール的なものを突然作っては、このアップデートという言葉をかざして、過剰に正当化しているような気がしてならんのだ。

それは果たして、カジュアルに「アップデート」って言葉でやりすごされるような物事なんだろうか。時に、ローカルルールに対する詭弁(開き直り)のようにしか思えてなくて困ってしまうことがある。

いってみればマイナカードの診察券化だって、制度を回す側の都合で決めたルールである。もちろん国家レベルのことなわけで、ローカルルールではない。そうなんだけど…本質面でローカルルールと何がどう違うものだか教えてほしいぐらいだ。

アップデートという言葉を示されたら、自分のアタマが古いんだ…ってふうに怒りを引っ込めるその前に、相手が求めるそのアップデート自体の正当性を疑ってみたほうがいい場面がありそうだ。どちらにしても思考停止は、相手の思うつぼだ。

不文律に理由を求めてはいけない。理由を求めるとかえっておかしなことになる。
いくつかの場面では〝思考停止〟しなければならない…これもまた不文律…

冒頭に軽い気持ちで書いた文章をもう一度出してみる。
新しい不文律に、不文律としてしまってもいいだけの資格はあるのか。
それは、ローカルルールにしかなれないような粗末な代物でしかないかもしれない。相手に主導権を渡してしまったり、恫喝に怯んだりしては損をする(かもしれない)。

よーく考えてみよう ^^ 。
かといって、考えすぎて病んでしまったら元も子もない。大変な時代である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?