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選択肢、後悔、人間性

さすがに人生も五十を過ぎると後悔とか「あの時にこうしていれば…」と思う事が多々ある。
あるどころか溢れかえって身動きすら出来ない事もある。

もしあの時に別の選択をしていたら…
我と我が身を嘆きながら考えているうちに、近頃はふと「選択肢など本当にあったのだろうか」と思うようになった。

自分という目も当てられないほど自堕落な人間だと「これはやっちゃ行けない」「こうすべきだ」等というのは物事を進める際に必ず自問するものだ。
これまでの人生を振り返るに、やるべき事、選択すべき事は事前に分かっていた。
分かってはいても必ずダメと分かっている方を選択して来た。
繰り返すが「この選択はダメだという事は事前に分かっている」のである。

「もしあの時、もっと優しい言葉をかけていたら」
「もしあの時、ほんの少し我慢する事が出来ていたなら」
もしあの時、もしあの時、もしあの時…
そんな思い、後悔をした時というのは、決まって正しいと分かっている最良の選択をした後の素晴らしい時間を迎える自分を想像する。
そして現実に立ち返り、また後悔の念に駆られるのである。

以前とある人には言われた言葉
「人間は変わらないよ、その人の人間性って絶対に変わらない」
なんだか身も蓋も無い事をキッパリと言うんだなぁ…とその時は思ったが、実際にその人の言う事が正しいかどうかはともかく、非常に力強い言葉なので印象に残っている。

「選択肢など本当にあったのだろうか」に戻る。
近頃つらつらと考えるに、分かっていても間違った選択を繰り返してしまう自分という人間にとって、Aという選択、Bという選択は実在するのだろうか。
Aという選択はおそらく正しい”こうすべき”というものであって、Bという選択は取るべきでは無いと分かっているが選んでしまうもの…
そして毎回毎回判を押したようにAではなくBを選択してしまう。
その時々でAを選択する事もあればBを選択する時もある…という事はなく、性懲りもなく毎回毎回Bを選び取ってしまう。

これはAが正しいと分かっているのではなく、自分はBしか選ばないと決まっている事に対して空想や妄想としてAがあるだけではないだろうか…
等と考えてしまう。
自分はBしか選ばないと分かっているように思えてしまう。
すなわち、有ると思っている選択肢Aなど最初から存在しておらず、自分という人間の愚かさ、浅ましさに気付いていながらも抗えない様に対してどうにかこうにか収まりを付けようとしているだけではないだろうか…

人間は変わらないよ、その人の人間性って絶対に変わらない
この言葉が正しいかは分からない、分からないが胸にストンと落ちる…
そう、自分という人間、その人間性は変わらない。
自分の人間性が常に何かを判断し決めていく。
ずっと間違えてきたと思う数々の判断は、まさに自分の人間性の為せる業ではないか。

そう考えてみると後悔というのは、なかなかどうして良く出来た仕掛けではないだろうか。
後悔は先に立たず。後になって悔やむから後悔なのである。
「Aを選択すべきなのに、Bを選択してしまいそうだ」と考えた時、実態はAという選択肢などハナから存在しないのだとしたら…自分という人間はBしか選択しえないのだとしたら…
考えた時点で、後々になって”後悔出来るように”有りもしない選択肢Aをでっち上げるのではないだろうか。

後悔している時、自分は何を考えているだろうか。
後悔の様とはどんな事なのだろうか。
まず「なんでAを選択しなかったのだろうか、自分はなんて愚かなんだ」と自責の念に駆られる。
だがこの場合の自責の念というのは、その対比となる成功した事例がなければならない。
つまり、後悔している瞬間には、失敗して打ちひしがれていると同時に成功している素晴らしい自分の姿も同時に想像しているのだろう。
それは何と素晴らしい夢だろうか。
きっと麻薬のように何度も何度も「正しい選択をして物事がすべて上手く進められている最良の自分」という楽しい夢を求め眺めているのではないか。

後悔とは多くの場合ネガティヴなものとして捉えられる。
しかしながら、実際はどうしようもないダメな人間性を持った自分のような者にとってはメンタルのバランスを取る為の杖みたいなモノなのかも知れない。

何かを行う際に、有りもしない選択肢Aをでっち上げ、首尾良く(?)失敗を重ねた時は”後悔の念”が発動し、テストの答えを見ながら「ここを〇にしておけば10点貰えたなぁ」等と無敵モードな夢見心地になって、どうにかこうにか精神状態を保っているのではないだろうか。

人間は変わらないよ、その人の人間性って絶対に変わらない

選択肢、後悔、人間性

何とも身も蓋も無い話だ。

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