こんな古参は嫌われる!?コンテンツの衰退を招く『古参』による『にわか』の締め出し

どんなコンテンツにおいても、常に新しい客を獲得し続けなければならないのは宿命ともいえる。新しい客を獲得しなければ出ていく客のぶんまで売り上げをあげるのは難しいからだ。そこで新しい客を得ることができなければどうなるだろう。多かれ少なかれ出ていく客はいる。コンテンツが徐々に衰退していくのがオチだ。

なんのためにソーシャルゲームが初心者を優遇するのか。ゲームをはじめたばかりの初心者を新参、にわかのまま手放すのではなく将来課金者になるゲーム利用者にまで育て上げるのが目的だ。ゲームを運営していくのには当然お金がかかる。初心者が最初でやめてしまったら、その時点で課金している額は微々たるものだろう。まあ、全体でプレイしている数を増やさなければ廃課金者が俺TUEEEを味わいにくく課金しにくくなりその優越感のための駒ともいえるが。

運営側が躍起になって新参・にわかを増やそうとしている中、古参が新参を締めだしてしまったらどうだろう。そのいい例が歌舞伎ではないだろうか。元々は大衆のものであったはずの歌舞伎がいまは高尚な芸能になってしまっている。歌舞伎という芸能文化の成り立ちからすれば非常に不本意なことではないだろうか。タニマチや古参によって歌舞伎を見るハードルが上げられてしまい、結果今までの形を崩し現代の大衆に受けるようにアレンジした新しい歌舞伎の形も出てきた。この新しい歌舞伎を邪道だというのなら、それはタニマチや古参が新参やにわかを締めだしたことにも原因があるのではないだろうか。

ラグビーの例を見てみよう。今回のラグビーW杯でラグビーに興味を持った人は沢山いるだろう。とはいえ選手や個人に焦点を当ててみる人、ゲームの面白さに取りつかれた人など様々だ。

こうした『にわかファン』に対するラグビーファンの反応はどうだろう。これで現地に足を運んだりしてラグビーの面白さをもっと知って欲しい、というものが多い。私はこれが古参が新参・にわかに対して思う健全な形であると思う。

前置きとして色々と言ってきたが、ここからは『嫌われる古参ファン』というものについて触れていこうと思う。

「自分はこのコンテンツのことを何年知っている」と歴をかさに着てマウンティングする

歴が長いことが偉いと勘違いしている人は多い。深くハマった人は歴が浅くてもとんでもない情報量を持っていたりすることを頭に入れておいた方がいいのではないだろうか。

「自分はこのコンテンツが好きでスタッフも経験した」と身内感を出す

このタイプの厄介なところは、身内でなければ知りえない情報を出すことで自分が偉い、自分もコンテンツと同体なのだと勘違いしているところだ。

「すべて悪いのはにわかファンだ」とにわかファンにマナーの悪さなど悪いところをなすりつける

まるで古参はマナーを守る偉いファンばかりだといわんばかりの言動をする。仮にそれが正しくても、新参やにわかファンのマナーの悪さに気付いた時、黙認して注意しないのは古参としてどうなのだろうか。宝塚ファンを見習ってほしい。

「コンテンツ全体を見ず一点を見ているのは害悪ファン」という決めつけ

オタク層に対するイメージとして特にスポーツの顏ファンに対してよく言われる。その層が悪いことをしているのだ、という偏見がまかり通っている。オタク層に悪いファンがいないとは言わない。しかしオタク層はマナーに関しての注意喚起がされやすい界隈を経験してきている人間も少なくない。オフイベントがあるコンテンツを経験してきていれば特にマナーに関して意識の高い人間がいても何らおかしくはない。オタクイコール悪という宮崎勉から連綿と続くオタクへの悪いイメージを一般人から払拭するのは難しいようだ。


悪い古参、というのはコンテンツにおける癌である、と私は思う。コンテンツを繁栄させていくうえで新参・にわかという存在は欠かせない。それを躍起になって獲得しようとしている運営側の邪魔をしているのだ。自分たちの自尊心だとかそういうものでコンテンツが滅ぶとは微塵も思っていない。そのコンテンツを死ぬまで愛し続けたとして、その先に新参やにわかから成長したファンがいなければ、古参の死はそのままコンテンツの滅亡を意味している。そのコンテンツに対して自分が死んでも長く愛されてほしいというならば、古参にもできることはあるのではないだろうか。

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