秦良玉の生きた時代

はじめに

あんまり書きたくないんですが、自分の言葉足らずで誤解を生じてしまいましたので、そのお詫びに。

昨今FGOについていろいろとかまびすしいご時世ですが、その中で秦良玉も話題に上がっております。この点について、おらふ氏が下記のような記事を出されました。

この記事を出される以前、私が二年前につぶやいた内容が先方に伝わったご縁で少しお話させていただいたのですが、この記事を出される直前、私が言葉足らずなことをほかの方と話していたために誤解させてしまったところがありました。その点について、訂正とおよびなぜそのようなことを言ったのかという背景についてまとめることで、お詫びに代えさせていただければと思います。

まず、件の記事で私の発言で誤解を生じたと思しい部分を引用いたします。

「別バージョンの詩歌の殆どに「掃虜胡」という部分があるのですがこれが差別的内容であるとしてFGOの方で差別的でない「作蝥弧」のバージョンを採用した。という可能性です。

先程上げた秦良玉史料集成にも「作蝥弧」とするバージョンの詩歌も載ってはいます。載ってはいますが、FGOのバージョンとはまた別のところが違います。秦良玉史料集成のそのバージョンには「北来高唱勤王曲」という箇所があるのですがFGOのバージョンでは「凱歌馬上清平曲」となっているのです。「北来〜」のところは全く差別的でないのに加え、秦良玉史料集成の他のバージョンにも「凱歌馬上清平曲」というものはなく、「凱歌馬上清吟曲」となっているのです。

この事からFGOバージョンが差別に配慮してツギハギにしたものだという可能性は低くなりました。また、秦良玉史料集成は国会図書館の関西館にある為国内でも閲覧出来るものなのですがその秦良玉史料集成にのっているバージョンではなく、国会図書館にもない大明朝的另类史のバージョンの文章が用いられてる事も明らかになりました。」


ここでおらふ氏がおっしゃられている内容のうち、「差別的内容」という点について誤解があります。これは私の下記ツイートを受けてのものと思われますが、私が意図したのはここでおらふ氏のいうような、現代における差別の問題に配慮して、という意味ではありません。


ツイート中でも申し上げている通り、「清朝は元来(明朝、あるいは漢人)から「胡虜」と呼ばれた集団であり、清朝政府はそういった言葉に敏感であった」というのが趣意です。そしてこれは、清朝が崩壊した現代においてははっきり言って考慮する必要のない問題です。ここで申し上げたかったのは、「作蝥弧」と「掃胡虜」の字句の違いは、秦良玉の生きた明末清初という時代と、その後の清朝支配下の中国社会という二つの背景があった、ということを申し上げたかったのです。

(さすがにそこまでは読めねえよというご批判は甘んじて受けます。説明するとこの記事のように長くなるので後にしようとしました……)

つまりどういうことか。この点について以下に説明していきたいと思います。

明末清初――秦良玉が生きた時代

まずは、おそらく誰もが一番手っ取り早く秦良玉の経歴を確認できるものとして、秦良玉のwikiをご覧ください。(まぁ実は細かいところこまごま間違ってるんですが)

ここで言及されている秦良玉の事績のうち、次の内容をご確認ください。

「天啓元年(1621年)、後金の侵入を防ぐため戦う。その戦いで、秦良玉は兄の邦屏と、弟の秦民屏とともに遼東の地を守りきることに成功した。しかし、兄である秦邦屏は戦死。秦良玉は朝廷に対し、兄と遺族に対する保障を願い出た。これによって、秦邦屏は都督僉事を追贈され、これが遺族に世襲されることになった。」

(※「遼東の地を守り切ることに成功した」は間違い。この戦いは清の太祖ヌルハチが瀋陽・遼陽という遼東地方の中心都市を激戦の末陥落させた戦いで、秦良玉はこの戦いで「先に遼東地方の援軍として出撃していた」兄邦屏・弟民屏のうち兄が戦死したため、地元から精鋭を率いて増援に向かったに過ぎない。『明史』本伝くらいちゃんと読んでほしいですね)

「崇禎3年(1630年)、後金の軍勢が明に攻め入った。各地の勢力が崇禎帝の勤王令(王軍が劣勢に陥った際、王を救う為に地方から援軍を出す命令)に応じないまま4つの城が落とされ、絶体絶命の最中に彼女だけがそれに応じ、私財で軍を率いて京の救援へ向かった。崇禎帝は国のために戦う彼女と白杆兵達の忠義に心打たれ、その偉業を讃える為の詩を4つ作って贈った。秦良玉は崇禎帝が作った詩を4つと、その他の恩賞をもらい四城の回復を命じられて帰還した。」

このように、秦良玉は明の末期、後金の軍勢が明に攻勢をかける中、女だてらに(というと現代では怒られますが、当時の感覚ではまさにこの言葉のとおりに周囲は感じられたでしょう)軍を率いて首都北京の防衛にあたった忠誠を嘉されて崇禎帝から詩を賜ったのです(もちろん秦良玉の地元で起こった反乱での秦良玉の活躍も考慮されたでしょうが)。

つまり、秦良玉と彼女の忠誠をほめたたえた崇禎帝にとって、後金(のちの清)はまさに不倶戴天の敵であったわけです。まずこの前提を覚えておいてください。

その後、秦良玉は北京を離れ地元に戻り、その間に北京は後金から名を改めた清ではなく、明に反乱を起こした李自成に滅ぼされました。そして、秦良玉の住まう四川も、李自成から分かれて独立した張献忠(ウルトラやべーやつですので、興味がおありならググってみてください)やそれと対立する明の遺臣たちとの争いに巻き込まれながらも、明の亡命政権に忠誠を尽くして亡くなりました。しかし、その子孫はなんとかこの明から清への王朝交代を生き延び、清の支配を受け入れて、その後も存続したのでした。

御製詩の流伝と、清朝の言論統制

さて、秦良玉が生きた時代については上記で述べました。次に、崇禎帝が秦良玉に与えた詩の流伝と、清朝支配がそれに与えた影響について説明せねばなりません。

まず、wikiにアホみたいな長さでつけられている(すいません……)筆者のつけた注釈をご覧ください。古い順に、

〇明・王世禎『崇禎遺録』成書年代不明

〇乾隆『石柱廳志』(乾隆40年(1775年)成立、下記リンク参照)

http://x.wenjinguan.com/BookDetails.aspx?pID=c66d24e0-d2e0-4394-a31b-0538884069ee&pTitle=%E7%9F%B3%E6%9F%B1%E5%BB%B3%E5%BF%97[%E4%B9%BE%E9%9A%86]&list_pID=%E7%9F%B3%E6%9F%B1%E5%BB%B3%E5%BF%97%20%E7%9F%B3%E6%9F%B1%E5%BB%B3%E5%BF%97%20%E7%9F%B3%E6%9F%B1%E5%BB%B3%E5%BF%97%20%E7%9F%B3%E6%9F%B1%E5%BB%B3%E5%BF%97%20%E7%9F%B3%E6%9F%B1%E5%BB%B3%E5%BF%97%20%E7%9F%B3%E6%9F%B1%E5%BB%B3%E5%BF%97%20%E7%9F%B3%E6%9F%B1%E5%BB%B3%E8%AA%8C%20%E7%9F%B3%E6%9F%B1%E5%BB%B3%E8%AA%8C%20%E7%9F%B3%E6%9F%B1%E5%BB%B3%E8%AA%8C%20%E7%9F%B3%E6%9F%B1%E5%BB%B3%E8%AA%8C%20%E7%9F%B3%E6%9F%B1%E5%BB%B3%E8%AA%8C%20%E7%9F%B3%E6%9F%B1%E5%BB%B3%E8%AA%8C

〇道光『補輯石柱廳新志』(道光23年(1843年)成立、下記リンク参照)

http://x.wenjinguan.com/BookDetails.aspx?pID=3dba1d6f-dca0-43a9-afc6-83f96020ec21&pTitle=%E8%A3%9C%E8%BC%AF%E7%9F%B3%E6%9F%B1%E5%BB%B3%E6%96%B0%E5%BF%97[%E9%81%93%E5%85%89]&list_pID=%E7%9F%B3%E6%9F%B1%E5%BB%B3%E6%96%B0%20%E7%9F%B3%E6%9F%B1%E5%BB%B3%E6%96%B0%20%E7%9F%B3%E6%9F%B1%E5%BB%B3%E6%96%B0%20%E7%9F%B3%E6%9F%B1%E5%BB%B3%E6%96%B0%20%E7%9F%B3%E6%9F%B1%E5%BB%B3%E6%96%B0%20%E7%9F%B3%E6%9F%B1%E5%BB%B3%E6%96%B0

となります。このうち最初の王世禎なる人物はよくわからないのですが、少なくとも明・王世禎となっている限りは明の時代に生まれ、明の遺臣(清朝に仕えることを拒んだ人々)として生きた人であったはずです(『崇禎遺録』とは「崇禎帝の時代の記録」(大意)という意味ですから、秦良玉に詩を与えた崇禎帝の死後まで生きていたと考えるのが自然です)。次の乾隆『石柱廳志』の完成は1775年で、明の滅亡が1644年、明の残存勢力である南明の諸勢力が壊滅した年でも1662年ですから、少なくとも乾隆『石柱廳志』の完成以後まで王世徳が生きていた可能性はないでしょう。

実はこの『崇禎遺録』という書籍は、清朝によって禁書に指定された書籍です。この書籍をCinii booksで検索すると、『四庫禁燬書叢刊』第72冊にこの書籍が収録されていることがわかります。

この『四庫禁燬書叢刊』というのはどういった史料集なのか?という点については、三重大学図書館報の記事がwebに掲載されており、きわめてわかりやすいのでご参照ください。

要約しますと、乾隆帝によって『四庫全書』という空前の大叢書を編纂する一大事業が始められたのですが、それと並行して徹底した言論弾圧と焚書が行われました。この『四庫禁燬書叢刊』は、そうした焚書の対象となりながら生き延びた書籍を集めた資料集なのです。つまり、『崇禎遺録』は清朝にとって不利益な書籍として焚書の対象とされた書籍だったのです。

さて次に、乾隆『石柱廳志』と道光『補輯石柱廳新志』は、清朝の時代に編纂された地方志です。「地方志とはなんぞや?」という方に説明しますと、要はその地域に赴任した官僚のために仕事に必要な現地の情報をまとめたマニュアルのようなものです。清代の地方官は、基本的に三年を任期として、次々と転任させられていました。しかも癒着を防ぐため、地元で官僚として赴任することは禁じられていました。つまり、縁もゆかりもない土地にいきなり送り込まれて三年間行政を執り行わなければいけなかったわけです。(細かい話はここでは触れません)

そんな状況で何の準備もなく赴任地に送り込まれてまともに仕事ができるわけがありません(実際にはそうなってもいいように秘書的な人をたくさん雇い入れたり、地元の実務を牛耳ってる公務員ヤクザみたいな連中と丁々発止したり丸投げしたりする場合も多いのですが……)。

そんなときのために編纂されたのがいわゆる「地方志」で、これにはその地域(行政区分)の領域・自然地理・名所・事件・行政軍事の制度・古今の有名人・地元出身者の著名な作品などなどなどの情報がまとめられているわけです。

そしてここが大事なのですが、これはあくまで地方官が行政事務をうまく処理するためのいわばアンチョコとして作られたものであり、清朝政府側の人物が見るものであるということです。つまり、清朝にとって都合が悪かったり、清朝をないがしろにするようなことは書けませんし書きません。そういう性格のものなのです。

以上、長々と秦良玉に与えられた詩が載っている書籍がどういう来歴、あるいはどういう性格のものかを述べてきました。「だからどうした」とお思いの方もおられたでしょうが、これは非常に大事なのです。要約しますと、

1、もっとも古いと思われる『崇禎遺録』は、清朝統治下では禁書であった。少なくとも大っぴらに所持していることがばれたらただでは済まない性質のもの。

2、清朝の時代、官僚のアンチョコとして利用された「地方志」である二種類の史料は、当然清朝の統治下で閲覧されるから、清朝によろしくない表現や内容は削除・修正される。

ということです。さて、話を秦良玉と詩に戻しましょう。問題となっているのは第四首第一句です。それぞれ比較しますと、

『崇禎遺録』:「慿将箕帚掃妖奴」

乾隆『石柱廳志』:「憑将箕箒作蝥弧」

道光『補輯石柱廳新志』:「憑将箕箒<三字缺>」

もっとも古い『崇禎遺録』が「妖奴」、それに次ぐ乾隆『石柱廳志』が「蝥弧」、もっとも新しい道光『補輯石柱廳新志』はその部分が欠けている(「缺」は欠けるの意)となっています。

ここで先ほど申し上げた前提を思い出してください。秦良玉は後金(のちの清)の攻勢から皇帝を守るために北京に向かい、そこで崇禎帝からその忠誠心を認められて詩を賜ったのです。つまり、そもそもこの秦良玉に与えられた詩は、秦良玉が後金(清)を防いだ功績をたたえる形で作られたものなのです。

そのことは比較した部分の直前にあたる第三首第四句を見ればより明らかです。この部分はすべて「不是昭君出塞時」となっており、意味としては「これは王昭君(和平のために漢から匈奴に送られた女性)が長城を出たのとは違うぞ」となります。つまり、漢に対する匈奴を明に対する後金に例えて、「王昭君は嘆きながら匈奴に嫁がされたが、我らが秦良玉は違うぞ!」という意味なのです。事実秦良玉は(この詩が下賜されたときに秦良玉が清朝と交戦した可能性は低いのですし、それに先立つ1621年の戦いも彼女が前線に行ったかは微妙なのですが)後金との戦いにかかわったことがありますから、そういう点からも、崇禎帝がこの詩で秦良玉の敵手として想定しているのが後金だと推測できるのです。

さて、そう考えた時に『崇禎遺録』の文言を見て見ましょう。

「妖奴」。

漢語辞典を見てみると、「妖」はいわゆる「あやしい」の意味に加え、「邪悪で迷惑なもの」の意があります。「奴」はいうまでもありませんね。

さて、文脈上こういった表現で暗示されているのはだれか。後金になるわけですね。

この部分だけで『崇禎遺録』が禁書にされたとは考えにくいですが、少なくともこの部分は読む人が読めば「アウトー」と判断されたはずです。そして、だからこそ清朝統治下で記録された崇禎帝の詩(すなわち乾隆『石柱廳志』と道光『補輯石柱廳新志』)のパターンでは、一方では「蝥弧(軍旗の意)」とされ、もう一方では「伝わっていない」とされたのでしょう。

これを傍証するものとして、下記のツイートをご覧ください。『秦良玉史料集成』掲載の道光『補輯石柱廳新志』の記載です。

これ何言ってるかといいますと、「順治七年(庚寅)に崇禎帝から賜った詩を保管してた建物が戦乱で焼けちゃってみんな全文がわかんなくなっちゃってたんだけど、乾隆五年(庚申)に詩の全文を臨江県(現重慶市忠県。秦良玉の生まれ故郷)の熊さんが持ってる扇に書きつけてあるのを見つけたんや!これを石に刻んで子孫に残すで!」という秦良玉の玄孫(元孫になってるのは避諱という制度の関係です)の記録なんですね。つまり清朝の初めには地元でも詩の全体像はわかんなくなってたと子孫が言ってるわけです。

でもおかしいですね、道光『補輯石柱廳新志』より前にできた乾隆『石柱廳志』には「欠けた」ってなってるところが「作蝥弧」ってなってます。可能性としては、「乾隆『石柱廳志』編纂の時点では何らかの別の資料に基づいたバージョンを採用したが、道光『補輯石柱廳新志』では子孫の手になる記録を採用した」、あるいは「ちゃんと残っていたが『崇禎遺録』と同じ文言であったため、これを表に出すのは憚られたので乾隆『石柱廳志』では別の語句に書き換え、道光『補輯石柱廳新志』では欠けていたことにした」といった可能性が考えられます。

なんでそんなことするかって?先ほど申し上げた清朝の言論弾圧政策の影響ですね。もちろん単純に、伝承される途中で乾隆『石柱廳志』のバージョンに偶然書き換えられて伝わったという可能性もありえますが、より古いはずの『崇禎遺録』が元のバージョンを残している可能性が高いと考えると、どうしても作為的な可能性を考えざるを得なくなるのです。

そして、そういった可能性に基づいた「校訂」を示したのが郭沫若です。郭沫若についてはめちゃくちゃ有名人なのでwikiをどうぞ。

この人が1962年に『四川日報』に掲載した「関于秦良玉的問題」に掲載されたのが、おらふ氏のいう「掃虜胡」になっているバージョンです。このツイで言及していますが、郭沫若はこの秦良玉に与えられた詩を岳飛の『滿江紅』という詞と比較して訂正しています。(ツイで『万江紅』になってるのは誤字)

じゃあその岳飛の『満江紅』ってなんじゃらほい?となると、世の中には偉い人がおられて次のようなサイトで見ることができます。

めちゃくちゃ大雑把に説明しますと、岳飛は南宋の忠臣であり、『満江紅』はその岳飛が作った詞(文学作品の一形態。詩とはまた違う)です。その内容は上のリンクで確認していただけると思いますが、つまるところ北宋を滅ぼし南宋に攻め寄せる女真人の金を「胡虜」「匈奴」に例えて「ぶっころしてやる!!!」といっている作品です。

はいここで世界史の問題です。「金を立てた女真人はのちに別の王朝をたてます。なんという王朝でしょうか?」

「清!!!」

「正解」

(厳密には金を立てた女真人と清を立てた女真人(のちの満洲人)集団は直接つながるのか?という点ではいろいろ問題があるのですが、さしあたり教科書的に記述します)

つまり、崇禎帝が秦良玉に与えた詩は、岳飛の「満江紅」という詞を下敷きにしていたはずだから、ここは「掃虜胡」であるべきなんだよ!というのが郭沫若の主張です。

「なんで???」とお思いのあなた。お気持ちはわかります。

ではここでいったん秦良玉のwikiの注釈に戻りましょう。各文献の次の部分にご注目ください。

『崇禎遺録』:「露宿饑餐誓不辞、飲将鮮血帯臙脂。」

乾隆『石柱廳志』:「露宿風餐誓不辞、嘔將鮮血代臙脂。」

道光『補輯石柱廳新志』:「露宿風餐誓不辞、嘔將心血代臙脂。」

郭沫若はおそらく(すいません手元に『秦良玉史料集成』がなくて……)この部分が『満江紅』の「壯志饑餐胡虜肉,笑談渇飮匈奴血。」を踏まえてのものだと、特に『崇禎遺録』のバージョンから判断したのではないでしょうか(この点『秦良玉史料集成』お手元にある方がおられたらご確認を……その本の序の代わりにこの郭沫若の論文が載ってますので……)

事実、郭沫若の推測もあながち間違いとも言えず、『崇禎遺録』や乾隆『石柱廳志』の表現によれば、「慿るに箕帚を将てして妖奴を掃う(ほうき(掃除用具)にもたれかかって迷惑な奴隷を掃き散らす)」あるいは「憑るに箕箒を将てして蝥弧と作す(ほうきにもたれかかって軍旗とする)」となりますが、ここを女真人に立ち向かった英雄岳飛の『満江紅』に従って直せば「憑るに箕箒を将てして虜胡を掃う(ほうきにもたれかかって虜胡=女真人を掃き散らす)」となって、女真人に苦しめられていた崇禎帝の気持ちを表す詩として極めて自然じゃないか、というのもわからないではないです。でもそれはお前の考えであって少なくとも「復元」ではない。(郭沫若宛)

しかしこのような推測を郭沫若がした背景には、上述したような清朝の言論弾圧という歴史的背景があり、さらに秦良玉が生きた時代の政治情勢があり、さらに過去の様々な作品を「典故」として踏まえて作られる漢詩という作品の世界があり、となってくるわけです。

で、こういうことを言おうとして冒頭で引用した私のツイートとなったわけですが、ご覧のようにこんだけ説明が必要になったので、本当に申し訳ありませんでした。

以上、参考になれば幸いです。


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