都会 会社 マッチングアプリ
マッチングアプリを始めた。正確には入れ直した。今年だけでも三回目?寂しさへの忍耐力が衰えて、ついつい。アプリを入れては三日間携帯にへばりつき、疲労困憊でアンインストール。その繰り返し。
身長や年齢、写真だけを頼りに、相手の価値や可能性を値踏みする。きっと私も値踏みされている。そして、AIの自動返信機能ばりに、テレアポセンター並みに会ったこともない相手に即応答。
私は今でも孤独や寂しさを大切にしてる人に憧れる。自分もそうありたいから、一人で旅をしたり出かけたりすることを選んでるつもりだ。一人でいると、人の何気ない優しさや存在の有り難みに敏感でいられるできる気がしたから。
もともと私は人や物事の価値が生産性や貨幣価値の有無で測られること、自己都合の根拠に基づいて相手の良いところだけを消費する関係性が大嫌いなはずだった。
でも、マッチングアプリ界に立ち尽くしている自分は、自分の在りたい姿とは対極に位置しているようで、すんごく胡散臭い。マッチングアプリが悪いというよりかは、私の素顔が際立っているだけなんだ思う。そしてそれを受け止めきれない私。
アプリで繋がった相手が存在している実感が湧かないからと、後ろめたさなしに相手を品定めして、話が合わなければフェードアウト。相手と自分の間に産み落とされる言葉から、じわじわ滲み出る無関心さがしんどい。
大切にしていた寂しさを味わうための一人の時間は、寂しさを回避すべく常に誰かと繋がり続けるための時間になっていた。四六時中、希薄な繋がりでお腹いっぱい!
自分の定めたポリシー、聖域がどんどん薄くペラペラでヨレヨレになっていくのを感じた。それと同時に、自分自身に対して、孤独を感じるようになった。
でも、じゃあ、どうしたら良いんだろう。夏目漱石、ヘンリーソロー、芸術家も哲学者も、みんなどうやって孤独と折り合いをつけてきたんだろう。寂しさをエネルギーに還元しているのだろう。果たして私はこの時代を言い訳に、これからも相手を損得で切り捨て続けてしまうのだろうか。
こんなにがっかりぐったりしていても、まだアプリを入れ直して二日目だからなんか辞められない。でも確実に魂の純度が下がってゆく状況から抜け出したい。
なんか、離島に住んでいた時と、都会にいる時の寂しさの感覚って全然違う。学生の頃と、社会人になってからのも違うんだよね。離島では、学生の頃は、スナックでは、想定外、守備範囲外の人がズカズカと私の人生に入ってくることが多かった気がする。都会や会社やマッチングアプリでは自分が過信している理念や趣味の傘下にいるであろう人を自ら選んでいる気がする。
もっと想定外な人種や寂しさにぶち当たって、たじろいで、自分の幅を広げたい。だから、これからも一人で旅をするんだよ、私。
みんなは寂しさとどう向き合っているの?
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