近況違和感発情日記
先日、私がクラブに通っていた18歳くらいの時にミツミツズブズブに仲良くしていた友人たちと集まった。身内で生み出した造語を用いて、互いをいじり合う会話には、深さも意味も要されておらず、今の自分にとっては懐かしくも、少し味気なく感じてしまう自分を残念に思った。
それぞれ学校を卒業し、人生のパートナーを見つけ、先を見据えた関係性や先が想定のつく仕事のもと、今を楽しんでいた。皆が自分の現状を幸せそうに語っている姿を見れて素直に嬉しかった。
そんな中「お前が一番何してるかわからないから心配だわ」「花菜は自由だよね」と声をかけられた。
すぐさま私は「心配」してもらえることは素直に嬉しいけれど、その根拠に「何をしてるかわからない」があるのはなぜ?「なぜ私"は"自由なの?あなたが、今のパートナーや家、生き方を選択してきたことも、自由に基づいているんじゃないの?」と、違和感発情。
フラフラしてる生き方を心配する思考回路に対する違和感について。
価値観や生き様にルールや個人が決めた目標に基づく一貫性や厳格な統一感がある方が善であり正義である、みたいな考え方に固執した世の中の風潮に違和感がある。もっと根無草でも入れ歯が飛び散りそうなくらい歯茎がグラグラしていてもいいんだから、あるべき姿みたいな呪縛に囚われず生きてもええやんか!って。仕事や学問の専門をもったり、名前がつくわかりやすい肩書きに安住せず、季節ごとに住む場所や、働き方や、毎秒の発言ですら、変わりゆくことも、いいやんか。他者がそこに一貫性を見出しづらいだけで、レッテルを貼って決めて安心することができないだけで、それの何が、変なの?と思うのさ。
むしろ私は、結末が読めた途端、営みが作業化してしまうから、先が見えない選択、のびしろの限界が危ぶまれるほどの想定不可能さを伴う実験を積み重ねていきたいと思っていて、それが私にとって「生きている」と感じられる状態。
次に、自由に関して。そもそも、ここにおいて何を自由とするかを決めきれない私には議論の余地がないんだけれども。友人の「自由」には「好き勝手さ」のような意味が包含されていた気がして、それをどう捉えるかが論点な気がするんだけれど。
シンプルに、相手は何も考えずに「自由」という言葉を使っていると思う。だから私も気にするのがナンセンスかもしれない。けれど、ついついそこに含まれる意味が気になってしまう。
一番悔しかったのはここに書いていることを本人らに伝えても、伝わらない、というか、伝わる伝え方をすることが今の私にはまだできないということ。そもそも「こういう私の違和感や感受性が受け入れてもらえるかもしれない!と言った安心できる余白」を感じられなかった。「お前何言ってんの」と無下にされてしまうのではないかと。
と、同時に、自分自身が自分の頑固なポリシーに閉じこもっており、他者の何気ない一言、二言を、許し飲み込む、もしくは風を浴びたり、交わしたりするかのように受け付けるスペースを心に創造、準備できていないことを痛感した。
ふあー!!!
何してるかわからない、小林花菜は夏に念願のイタリアに行き、誕生日にはハーフマラソン大会に出ます!そうやってフラフラするために最近は毎日スナックで感情労働させていただいています。
マジ、相手を決めつけず、背景を知る、想像する努力、その上で対話を進めること、本当大事。(大ブーメラン)
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