肯定について考えた

自論というかのまとめ。

そもそも肯定とは。
❞《名・ス他》(述語とそれに係る要素とで表される意味内容を)そのとおりだと判断し認めること。「―文」。一般に、同意すること、価値があると判断すること。❞

相手を肯定する褒め言葉として、「あなたは~が出来てすごい」という風に言われたとする。「~が出来る私はすごい、その通りだ。」と納得できる。これが自己を肯定できる人なのだと思う。
自己肯定感がない人に、「あなたは~が出来てすごい」というと、
「いーえいえ私なんか!〇〇に比べたらまだまだです!」と他人や、何かを比較に出す。結局のところ、ここが間違っているんだろうなと思った。他人は自分ではないし。

外見に言及する(このご時世そのような悪習は無くなってほしいとは思う)場合。
「あなたは目が大きくてかわいい」と言われたとする。実際に目が大きい人間が、それをコンプレックスに思っていたとする。それは肯定にはつながらない。そもそもの外見、身体能力、声等、持ち合わせているものを「素敵だ」と思っても、その褒め言葉が届かないことが多々ある。

ただ、この人の持ち合わせているものややったこと、出来ることを私は気に入っている、という意味で「ここが素敵だと思う」と言いたいだけなのに、相手がそれを価値があるものと認めていないから、他人を引き合いに出すから、「いいえ私なんかまだまだ!」「そんなことないよ!」という、謙虚通り越して自己否定になるんだろうな、と思うとちょっと悔しい気持ちがある。というか私が、相手を手放しに自分の語彙力をフル活用してでも褒めたい(フルで活用してもこれ)、というだけではあるんだけど、結局相手が変わってくれない限り、もしくは自分が形を変えない限り、褒め言葉が届くことはないんだろうなと思う。

自己肯定感がほぼゼロに近い知人に、「褒め言葉を相手に届けたいなら工夫するべきだし、あなたはそれをしていない」と言われたので、こうやって書き出してみたんだけど。結局工夫したところで、『私に「凄い」「好き」を使って褒めるな』といったその人が満足する結果になるだろうか。
持ち合わせている技術を褒めても「私はそんなことはできていない」、先述した「~が出来て凄い」を、「私は凄くないので凄いと言うな」と突っ返す人間がいたら、それは相手が問題ではないだろうか…と思ってしまう。

実際に突っ返すことを言われたわけではないし、今まで私は私の思う通りに、思うことを言ってきただけであって、受け取る相手の性質やなんかを考えたことは一個もない。性質ごとに褒め言葉を変えられる人間は器用でいいな、と思う。
これを踏まえて10年来の付き合いがある友人に対しての「歌がうまい、絵もできる、演技もできる、凄い!」「料理がうまい!人のこと思いやれて優しい!」「相手のために何かをしてあげられるか考えるのがうまい!サプライズを考えるのが最高に上手!」というような語彙力がほぼゼロの褒め言葉がどこまで伝わっているのか、肯定に繋がっているのかと考えた。1ミリぐらいはあってほしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?