日常に潜むもの

日常は忘れてしまいがちだ。

毎日のことだから、当たり前。
でも、日常には大切なものがたくさん詰まってる。

今の自分に相応しいもの。
過去の人々の努力。

きらきらしたものは、日常にはない。
実は、これは、どこまでいってもない。

あなたが憧れる仕事、資産。
何を手に入れても、それは訪れない。
だって、すでに手に入れたものだから。

きらきらというのは、たぶん、新鮮さ。
必然として、それは緊張を伴う。

ずっと緊張が続いたら、どうなるだろう?
人は壊れる。
だから、やがて緊張になれる。
よい意味でも、わるい意味でも。

でも、人は、きらめきを求める。
前に進みたいからだ。

それは、ちっとも悪いことではない。
でも、ときとして、日常に目を向けよう。

日常がわからなくなったら、少し離れてみよう。
簡単だ。
いまあるものから距離をあけるんだ。
すぐに、どこかへ飛び出してみよう!

そしたら、あなたが手にしていたものを見つけられる。
ちょっとした瞬間、それを捨てるのだから。

それを旅、そう人は呼ぶのだと思う。
旅は、何かを見つけるものに出かけるのだろう。

気がつくのは、おそらく、ありふれた日常で得ているもの。
ではないだろうか?

家に帰ると、ほっとする。
ほら、それが証拠だ。

人は、哀しいことに日常への感謝を忘れてしまう。
もちろん、つらい日常もある。
絶望するようなつらい日々もあるだろう。

ただ、それは、必要なものなのだ。
きっと成長痛なんだろう。

むかしのぼくだったら、こんなことを言ってるやつがいたら
ぐーぱんちだ。
お前に何がわかる?と怒っていただろう。

痛みは、時として必要なものだ。
自分自身が壊れないために。
ケガをしているのに、痛みを感じなかったら、どうなる?

ケガをした理由になっとくいかない場合もある。
たぶん、大抵、納得いかないだろう。

でも、だからといって、痛みを感じなかったら?
痛いまま、動き続けるというのは、借金に似てる。

休息という支払いをしないと、強制的な取り立てに合うのだ。

さて、今回は、ここまで。
これは、ぼくの夢の覚え書き。

たぶん、書いておかないと忘れるから。
日常の大切さなんて、ずっと忘れっぱなしだから。

ぼくは遠いところへ手を伸ばすのが好きだから。
だから、日常の大切さを忘れがちなのだ。

大切なものが潜んでいるのに。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?