どこまでが動物なのか——人文学から考える|聴講ノート#1
〖2023年3月19日更新〗
ヒトと動物の関係学会 第29回学術大会 シンポジウム1「どこまでが動物なのか——人文学から考える」(2023年3月11日開催)
筆者(=豅)より:当記事は個人的な聴講ノートです。内容に誤りなどありましたらご指摘いただけますと幸いです。
趣旨説明(伊東)
「ヒト」ならびに「(ヒト以外の)動物」を(言葉で)取り上げるとき、どう接続するかによってアスペクトが変容する。
ヒトと動物、動物とヒト → 二項対立
ヒトに動物、動物にヒト → 二項区分強化
ヒトの動物、動物のヒト → 所有/人間性
ヒトも動物、動物もヒト → 境界性
ヒトから動物、動物からヒト → 越境性
ヒトのみが行為主体性を持つのか、それぞれが個々に行為主体性を持つのか、それともそもそも行為主体性は分離不可能なのか。ヒトと動物とのあいだに境界はあるのか、それとも越境し得るのか。
cf. 奥野克巳、山口未花子、近藤祉秋 編『人と動物の人類学』〈シリーズ来たるべき人類学5〉(2012)春風社
実際には動物だけではなく、植物(ならびに動物、植物の区分だけでは分類し切れないもの)、動物を模したもの、想像上の動物、ロボット/アンドロイドなど、無数の関係性に囲まれている。
グリーンマン(Green Man):人間と植物の混淆
cf. 元木幸一(2020)「グリーンマンの森――アインベックの聖アレクサンドリ聖堂内陣席装飾をめぐって——」、『山形大学大学院社会文化システム研究科紀要』第17号、山形大学人文社会科学部
増子博子(作家)が語る「猫と蛸」
発表①:引き裂き、引き裂かれるダーウィン
「植物にも神経がある!!!」と手紙に書いたチャールズ・ダーウィン(Charles Darwin)は、なぜそこまで興奮したのか?
「3つの矛盾」
人間と動物との差は|程度のものである vs 絶対的なものである
動物実験における動物の犠牲は|不可避である vs 救済されるべきである
科学者は政治に|関わらず研究に邁進すべきである vs 積極的に関わるべきである
長野:この「3つの矛盾」とは、19世紀における人間〜動物間の境界変遷の過渡期を意味するものなのか?
伊東:過渡期ではなく、問題提起(プレゼンテーションの一手法に「3つの矛盾(二項対立)」を立てるものがある)
『種の起源』刊行時の世相①|人間と動物
ダーウィンは当初、ヒトの起源について曖昧に書いた。これが人々の不安を惹起した。当時、人間と動物は完全に異なるものと認識する向きがひじょうに強かった。
チャールズ・ベル(Charles Bell)「人間は動物とは違う特別な被造物」
ダーウィンはこれをすべて否定してはいない。あくまでヒトと動物のあいだに共通点が見られ、それゆえに共通の祖先を持つと考えるべきという主張である。
ダーウィンは『種の起源』の改訂を繰り返したが、第6版にて上記の文に「much」を追記した。
『種の起源』刊行時の世相②|動物実験
クロード・ベルナール(Claude Bernard)の思想:
科学者(生理学者)は科学の徒である。(動物の)苦痛や一般民衆に耳を傾けることなく研究に邁進すべきだ。
フランソワ・マジャンディ(François Magendie)によるイヌを使った公開実験(※):
※筆者は「1874年、イヌにアルコールを与えるとどうなるかを確かめる」とメモしたが、追って確認することができなかった(聞き違いかもしれないし、事実かもしれない)。
これらは当時から反対の声があがっていた。
cf. 三神和子(2012)「生体解剖反対運動におけるフランシス・パワー・コブの主張」、『日本女子大学英米文学研究』第47号、日本女子大学英語英文学会
ダーウィンによる〈犠牲〉/〈救済〉
このときダーウィンは何をしていたか?
→伊東「〈犠牲〉か〈救済〉かで心が揺れ動いていたのではないか?」
論駁が不得手で引き篭もりがちだったダーウィンは、進化論にまつわる論争をトマス・ハクスリー(Thomas Huxley)に任せて、
食虫植物について、コブラ毒を用いた実験(当時は動物に対してよく行われていた)を行い、研究を進めていた。
動物の生体解剖(動物実験)をライセンス制(実質的に規制対象)とする政治活動に参与していた。
前者〈犠牲〉のダーウィン
ダーウィンは自身の食虫植物の研究についてジョン・バードン=サンダーソン(John Burdon-Sanderson)、マイケル・フォスター(Michael Foster)——いずれも生理学者——と手紙をやり取りしていた。
「植物にも神経がある!!!」は、
生理学の知見(動物実験を含む)は科学の発展に必要不可欠だと考えていた(いっぽう、ダーウィン自身はこれを不得手としていた)。
植物であればダーウィン自身でも実験ができ、植物を介して動物を捉えようとすることもできる。
現代(21世紀)、「植物も〈知性〉を持っている」という研究の先駆けとも見てとれる。
後者〈救済〉のダーウィン
cf. 小川眞里子(2015)「動物虐待防止法とイギリスの生理学」、2015年度(第28期)科学史学校(10月24日講演)、日本科学史学会
ダーウィンに対する世間の思惑は、動物虐待に反対の立場をとる博物学者だった(実際、ハクスリーとともにマジャンディーを批判している)。
フランシス・パワー・コブ(Frances Power Cobbe)から動物虐待署名を求められたが、丁重に断った(上記のとおり、生体解剖は科学の発展に必要との立場だった)。
コブの生体解剖実験規制法案に対して、生体解剖の実施を擁護しつつ科学者の良心を信じようとする対抗法案を提出するロビー活動を展開した。
両者の法案はいったん取り下げられ、公聴会(王立委員会)で多くの証言がなされたあと、動物虐待防止法などが制定されていく運びとなった。
⇒伊東「ダーウィンにとっては地続きの活動だった」
発表②:無言のオウム、饒舌な蛇
岩崎:知性の表街道では「区別」の哲学、裏道では「無区別」の哲学がそぞろ歩きしている。
「区別の哲学」|無言のオウム
インド哲学もスタンダードは「区別」の学問:
言葉は「区別」として作用する。真実知は言葉(=「区別」)により初めて得られる。従って、言葉を持たないもの(=動物など)は排除される。
cf. 論理(ニヤーヤ)学派
言葉を発する動物たちは真実知を得られるか:
文の意味は、その文の話し手の「意図」を「推測」せずには理解できない(8〜9世紀ごろ)。たとえばオウムは確かに発話しているように見えるが、
オウムは「意図」を持っていないと考えられる。
オウムの発話はオウム自身ではなく神の「意図」によっていると考えられる。
……従って、同様に排除される(岩崎:おそらく当時の人々もこれが暴論(説明としては無理矢理すぎるもの)であることは分かっていたと思われるが、(思想の体系化において)動物排除のメカニズムは譲れないものであったと考えられる)。
「無区別の哲学」|饒舌な蛇
仏教において「区別」は分別(ふんべつ)と呼ばれ、真実を覆い隠す悪しきものと教えられる。しかしながら、無分別の実現は難しい(「空(くう)」の思想を修行により体得しなければならないから)。
寓話世界(『マハーバーラタ』など):
言葉(=「区別」)なしに物言わぬものを理解することが難しいなら、(擬人法によって)物言わぬものに言葉を与えることによって無分別を実現する。
擬人法(anthropomorphism):
行為(event)をその行為者の責任(action)に変換する(※)。すなわち非人間が、
痛みを感じる → 道徳的行為者となる
言葉を用いる → 行為者の役割(責任を持つこと)を付与される
たとえば、「子供が成長する」は「時(=event)が子供を成長させる(=action)」と解釈できる。このとき、「時(=event)」は「子供を成長させる(=action)」ことについて行為者の役割(=責任)を持つ。
岩崎:『神の詩(バガヴァッド・ギーター)』において、この「時」を擬人化した「時間という神」という思想(カーラヴァーダ)がある。
天災による辛苦の解釈も、「なぜこの土地(=event)はこのような試練を与える(=action)のか」と言ったときには、「土地(=event)」を道徳的行為者としている。
※筆者は「Craig Hamilton」とメモしたが、追って確認することができなかった(これは筆者の調査不足による)。
なぜ「痛み」が議論の対象になるのか
岩崎:人間と動物(あるいは非人間)の共通点を考えるとき、喜び(joy)は千差万別だが、痛み(pain)はより原始的な、生きていく上で必要な不快な情動として候補に挙がる。
→痛みを無くすか、痛みを受け容れるかという観点が議論に繫がる。
日本の大乗仏教における変容
これが日本に伝来すると、道元により先鋭化される。
つまり、山川草木(さんせん-そうもく)も仏になれると説いている。
cf. 井上克人(1995)「道元の仏性観とその哲学的意味」、『關西大學文學論集』第45巻第2号、關西大學文學會
総括
実際には、言語能力はグラデーショナルなものであり、コミュニケーションは双方向でなくても実現される。動物(あるいは非人間)の擬人化も、それについて言語能力があることを〈依託〉することによって実現されている以上、人間中心主義的である。
岩崎:主従関係が互恵関係になる場合もある。境界の存在を認めながらも、考え続けることが重要。
発表③:変身の系譜
古代|表象の源泉
聖書では、人間は動物を支配する存在として描かれている。
いっぽう、神話の時代(古代)には動物物語(動物変身譚を含む)が多数あった。
オウィディウス『変身物語』(CE8頃)
15巻で構成されている。宇宙開闢からユリウス・カエサルの神格化に至るまで、ギリシア神話やローマ神話の登場人物たちがさまざまなもの(動物、植物、鉱物、星座、神など)に変身してゆくエピソードを集めたもの。
※プーブリウス・オウィディウス・ナーソー(Publius Ovidius Naso)は帝政ローマ時代最初期の詩人の一人。
近世|変身物語の表象
ルネサンス期、古代の叡智が信仰ではなく教養としてヨーロッパに再導入された。
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio)『エウロペの略奪』(1559〜1562)
題材:テュロスの王女エウローペーを見初めたゼウスが、自らを白い牡牛に変じて彼女に近付き、気を許したエウローペーが跨ると、そのまま地中海を泳いでクレータ島に連れ去った。
ティツィアーノ『アクタイオンの死』(1559頃〜1576)
題材:猟犬たちを連れて狩猟に出ていたアクタイオーンが、入浴中のアルテミスの裸体を目撃したことで彼女の逆鱗に触れ、鹿の姿に変じられた。彼女にけしかけられた猟犬たちは、それが主人であるとも知らず、その鹿を食い殺した。
池野:ここで言う「変身(metamorphosis)」とは「変える(meta)」+「姿形(morphe)」であり、本質が変わることなく外見が変わることを言う。
近代|怪物の表象
アントニオ・カノーヴァ(Antonio Canova)『テセウスとミノタウロス(※)』
題材:パーシパエーは、その夫であるミーノースがポセイドーンとの約束を違えたため、牛に思いを遂げるよう呪われた。結果生まれた牛頭人身の子はミーノータウロスと呼ばれ、成長するほど乱暴になったので迷宮(ラビュリントス)に幽閉され、アテーナイから生贄が捧げられた。生贄に自ら志願したテーセウスはこれを討ち、アリアドネーからもらった糸玉によって迷宮から脱出した。
※1781年〜1782年の作品。なお筆者は「ミノタウロスの上のテセウス」とメモしたが、追って確認することができなかった(聞き違いかもしれないし、事実かもしれない)。
近代以降、画壇の中心は歴史画から人物画、風景画へと移行した。ただし、怪物——人間と動物(あるいは植物、その他のもの)との中間形をもったもの——の表象は好まれた。
アンドレ・マッソン(André Masson)『迷宮』(1938)
シュルレアリスムにおけるミノタウロスの再解釈——身体の中に迷宮を持っている。
池野:シュルレアリスムの活動期は第一次世界大戦と第二次世界大戦との中間期に重なる。「突き詰めていけば幸福になれる」と信じられていた理性を批判した。
シュルレアリスムは「無意識」、「非情動」といったジークムント・フロイト(Sigmund Freud)による精神分析の影響も受けており、怪物を純粋悪ではなく人間の本性の象徴として肯定的に捉えようとしていた。
現代|象徴からの脱却
「【赤い】を表現したいときに赤色の絵の具を用いるのは、たまたまそれが【赤い】からだ。従って【赤い】ものであれば、リンゴを用いてもよいはずである」
→同様に動物についても、その象徴性を排除し、存在そのものを芸術に取り入れようとする作家が現れた。
リチャード・セラ(Richard Serra)によるローマでの最初の個展(1966)で展示された作品「動物の生息環境 生きたもの 剥製(Animal habitats live and stuffed…)」
動物の剥製をケージに入れて構成された作品「ZOO CAGE II」、生きているブタを画廊に持ち込んで(囲いに入れた上で)展示した作品「LIVE PIG CAGE I」は、アルテ・ポーヴェラ運動の初期の作品としても引き合いに出される。
ヤニス・クネリス(Jannis Kounellis)『無題(※)』(1969)
ローマの画廊に生きた12匹の馬を展示した作品。アルテ・ポーヴェラの傑作とも目される。
池野:自然なものを芸術に持ち込もうとしていた。
※筆者は《馬》とメモしたが、追って確認することができなかった(聞き違いかもしれないし、事実かもしれない)。
1960〜70年代はエコロジー運動の高まりもあり、文化的なものに対して「自然」的なものが対立された。
築地:生きた動物(=自然物)が芸術作品(=人工物)になってしまっていないか?
池野:どのようにしたところで「手段」にならざるを得ないことは否定できない。倫理的な問題もある。
一方、クネリスは「芸術を生に近づけるべき」と考えていて、同伴者として動物を芸術のステージに登場させた。
現代|人間の曖昧さ
現代芸術において動物表象は、ひとりの人間が追い切れないくらいに多様に展開しており、従って一概に総括することはできない。
池野:ただ、あえてそこから2つテーマを取り上げるとするならば、
人間の曖昧さ:テクノロジーの発達により、人間と動物との境界は如実に曖昧になってきている。その潮流は現代芸術においても見られる。
芸術の問い直し:芸術を作るという能力は、はたして人間特有のものなのか? たとえば動物が描いた「絵画」は、はたして芸術と呼べるのか?
パトリシア・ピッチニーニ(Patricia Piccinini)『若い家族』(2002)
「(ヒトの)臓器移植のために繁殖された」、ヒトとブタとのハイブリッドを思わせる母親とその乳を飲む子供たちを象った作品。
ほか、『10代の変身』(2017)や『カップル』(2018)など、ヒトと伴侶動物、家畜動物とが融合したような作品を作り続けている。
池野:(ピッチニーニは)ストーリーテリングに優れている作家のひとり。
参考:ジョルジョ・アガンベン(Giorgio Agamben)は著書『ホモ・サケル』(1995)において、「生」を下記のように分けて考えた。
ビオス(bios):それぞれの個体や集団に特有の形式、生き方
ゾーエー(zoe):生きているという事実、それ自体
現代|芸術の問い直し
芸術を創造する能力は、伝統的には、人間を動物から分かつ(区別する)能力であると考えられている。
cf. エルヴィン・パノフスキー(Erwin Panofsky)『人文学の実践としての美術史』(1940)
チンパンジーのコンゴ(Congo)による「絵画作品」(1956〜1959)
池野:1950年代は抽象芸術がブームとなっており、(偶然的な要素などが何となく)共通しているように捉えられた(=コンゴを抽象芸術画家と捉える向きもあった)。
マリア・フェルナンダ・カルドーゾ(Maria Fernanda Cardoso)『芸術の起源I-II』(2016)
タイトルはダーウィンの『種の起源』にかかっている。動物と同じ感覚が得られるよう、動物の目線と一致するように拡大したり、(ヒトの可聴域に入るように)音を編集(増幅など)したりして、ヒトが追体験できるようにした映像作品。
池野:ダーウィンが著書で書いたクジャクの求愛行動にもかかっている。「なぜこのように多様なのか」を問うている。
聴講者:チンパンジーのコンゴによる「絵画作品」は、何か意図を「構築」しようとしていたものと認められるか?
池野:似て非なるものという認識。絵筆をキャンバスに叩いているときのリズムが楽しいから「絵を描いて」いただけで、「絵画作品」はその結果副次的にできあがっていただけのものと考える向きもある。
聴講者:多摩動物公園で飼育されていたオランウータンのモリーも「絵を描いて」いたが、妊娠期に赤色を多用したという。
→「生成者の身体に入って」考えていく必要があるだろう。
発表④:人に優しいロボットのデザイン
→人工物(ここではロボット)に対して感じる心を認知科学で解き明かす
脳は人とロボットを区別していない?
情動について
脳の活動には、知性と感情のそれぞれについて対応するものがあると判っている。
ペンギンのぬいぐるみがハンマーで殴打される動画を見せて、脳波を計測
→人が人から殴打される動画を見せたときと変わらず、「かわいそう」と感じる脳波の波形と近似した
実際にコミュニケーションをしている相手が実際の人間かどうか、どこまで気にしているのか?
→ゲームのCPU対戦キャラクター(NPC)、ボットによる問い合わせ応対などはすでに普及した
また、社会生活の中で、他者に追従されることは脳の報酬系を刺激する(ハッピーにさせる)ことが判っている。
人とロボットに心の違いはあるのか?
Q. 余生を宇宙(宇宙を航行する宇宙船)で送ることになった。そこには1人だけ同伴者を連れて行ける。このとき、人間とロボットのどちらを選ぶか?
注:宇宙航行上の危険や、食糧などの問題は考えない。
→人間ではなくロボットを連れて行こうと考える人が多かった。
不和になるかもしれない、などという他の人間に対する不信感からか? それならば、ロボットを信頼するのはなぜなのか、そして孤独感は他の人間なしでも解消できるのか?
高橋:他人と一緒にいるとき、安心感と共に鬱陶しさも同居する。
「安全」と「愛」の伝え方を考える
「安全基地ロボット」
人工知能:課題の解決をしてくれる(代わりにやってくれる)
人工あい:課題の解決を支援してくれる(代わりにはやってくれない)
高橋:パトラッシュ的な(安全基地、ないし伴侶)ロボットを作りたい
「安全基地」なしに、制約から逸脱した自己固有な行動を(社会的に)実行し続けるのは困難である。
※安全基地(secure base):誰かが見てくれている(安心感を提供する)ので、(自発的な)行動を起こしやすい場所のこと。
みんなが愛を求めているわけではない
(行動を起こす上での)原体験は人によってそれぞれ異なっている。加えて、それは言葉の伝達によるものというより、(もう少し広義な、)体験によるものである。
→原体験を拡張するエージェントの導入
ex. 「いのちの授業」に「食べられるロボット」を導入する。
cf. 坂井祐円(2021)「いのち教育はどこに向かうのか?」、『死生学年報』第17巻、リトン
cf. 渡辺茂男『心に緑の種をまく 絵本のたのしみ』(2016)岩波書店
※著者は『エルマーのぼうけん』シリーズなどの翻訳者。
「空」の存在としてのロボット
主体性(agency)と感情(experience)をそれぞれ評価軸とした、キャラクター分析の2次元グラフを考える。
→「お地蔵さん」は主体性も感情も低いと見做されているが、これとは別に(社会的)格と善性をそれぞれ評価軸としたグラフでは突出して高い。
→いわば「冷たい」キャラクターに分類されうるものではあるが、社会的にも徳のある存在としてはしっかり認識されている。
レンタルなんもしない人
→一人では自発しない行動を促す効果をもたらしている
→淋しさを埋める他者だけではなく、自分らしく生きるための他者(も考えられる)
高橋:ミヒャエル・エンデ(Michael Ende)『モモ』で、モモが「傾聴する」という能力に秀でているのは、彼女が「空っぽ」だからである。
cf. 小林良孝(2002)『ミヒャエル・エンデ『モモ』における時間の本質について」、『人文論集』第53巻第1号、静岡大学人文学部
「空」(=良悪を判別しない)の存在
→(ただ)「being」してくれるエージェント
高橋:現在、ダイキンと共同で、beingしてくれる「あい」の空気清浄機を開発中
cf. 高橋英之 et al.(2018)「多神教的世界観にもとづく“空気感エージェント”の創成 -ずっと一緒にいられる存在とは何か-」、HAIシンポジウム2018
長野:なぜロボットである必要があるのか
高橋:ある日、コミュニケーションロボットが欲しくなった人がいた
→実際にロボットを購入して、しばらく愛でた
→ある日、ふとその愛が冷めてしまった
→スイッチを消そうと思ったが、できなかった
→ある日、ロボットを押し入れの奥にしまった
⇒(倫理の問題としても議論できそうだが、)ロボットには喪失の恐怖が持たれないと考えられる。
人とロボットとの関係を考えるとき、ロボットは「死ぬ」必要があるのか?
→実質的にはロボットにも「死ぬ」瞬間は来る。ただ、人の死と同様に、そのロボットについて物語られ続けることではじめて「死」に意味を持つだろう。
ディスカッション(南谷)
「否定性」という共通点
南谷:(今回の4つの講演には)「否定性」という共通点を見出せるのではないか
引き裂き、引き裂かれるダーウィン(伊東)|人間と動物(と植物)は同じものではない(/同じものである)、痛みを感じない(/感じる)、科学者は政治に関わるべきではない(/関わるべきである)
無言のオウム、饒舌な蛇(岩崎)|分別(/区別)をしないべきである(/するべきである)、言葉(/意図)を持っていない(/持っている)
変身の系譜(池野)|人間ではない、象徴性を持たされていない(/持たされている)、芸術(の創造は人間に特有のもの)ではない(/である)
人に優しいロボットのデザイン(高橋)|心(/愛)を持っていない(/持っている)、主体性がない(/ある)、何もしない
植物について
近年、イギリス文学研究でも植物が注目されつつある
→人間と動物に関する諸問題に対するアプローチと近似する部分がある
cf. エマヌエーレ・コッチャ(Emanuele Coccia) 著、松葉類、宇佐美達朗 訳『メタモルフォーゼの哲学』(2022)、勁草書房
ホラー映画に登場する植物ならびに植物的モチーフ
→植物は「形を変えるもの」、「形を変えるもの」は人間の根源的恐怖に紐づいている可能性
プラントイド(plantoid):植物とロボットの融合
cf. バルバラ・マッツォライ(Barbara Mazzolai) 著、久保耕司 訳『ロボット学者、植物に学ぶ 自然に秘められた未来のテクノロジー』(2021)、白揚社
南谷:草むしりをしていたら、周りに鳥が集まってきた
→「ふと」、鳥たちがミミズを狙っていることに「気づいた」
→「ふと気づくこと」によって、動(植)物の眼差しになれる
もっと知りたいこと(豅)
引き裂き、引き裂かれるダーウィン(伊東)
第一次産業革命期〜帝国主義期の動物観の変容は筆者も興味があり、ダーウィン主義的動物観の元の元の話を知ることができたのはよい収穫だった。同時期のロマン主義的動物観側の言説を知る柱も立ててみたい。
『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』を著したメアリー・シェリー(Mary Shelley)はSF文学、『ピーターラビットのおはなし』を著したビアトリクス・ポター(Beatrix Potter)は児童文学の先駆け的存在であると同時に、女性の作家である。コブのように、フェミニズムの観点から論じた研究があれば読んでみたい。
無言のオウム、饒舌な蛇(岩崎)
無区別といえば、子どもは共時性を持ち、成長するに従って通時性を持っていくという児童文学研究の言を思い起こす。
この類型は「子どもっぽい」ものと一蹴できるのか?
→イソップ寓話、〈狐物語〉群、批評誌『ル・シャリヴァリ』や『パンチ』などには多くの擬人化動物が登場し、当時の世相を面白おかしく、ときに悪辣に批判して、大人たちも楽しんでいた。
なぜ(管見の限り)ダーウィン主義的動物観に基づいた創作よりロマン主義的動物観に基づいた創作の方がよく知られているのかという漠然とした疑問も持っている。
変身の系譜(池野)
芸術における動物の立ち位置の視座が築けておらず、筆者個人の中ではこの変遷をリアリティーをもって想像することができていない。J・J・グランヴィル(J. J. Grandville)、ジョン・テニエル(John Tenniel)といった諷刺画家、フランツ・マルク(Franz Marc)、ブルーノ・リリエフォッシュ(Bruno Liljefors)といった作家などをもっと見つけて調べていきたい。
この頃「AIアート」の是非について、ソーシャルメディアなどで活発な議論(ときにヘイト)が交わされている。「AIアート」は今後受容されるのか?
人に優しいロボットのデザイン(高橋)
「空」としてのロボットは、着ぐるみ(元来持っている個性を覆い隠し演じるもの)を所有することによってもたらされるアクティブネスを類推させる。
→何もしないが、その人が行動を起こすことを助けているという意味で同じと考えられる。
その他
筆者は依然としてロマン主義的動物観とダーウィン主義的動物観を対立させて考えてしまう。擬人観はより初源的でユビキタスだ。多角的な視点をもっと養いたい。
開催情報
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