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睡蓮の沈む池

 
 流れのない水面に浮かぶ睡蓮。窓の向こうの池は狭い。
 歪んだ丸い葉や雑草の間に咲く白い花。睡蓮は生きづらそうに空を見上げていた。
 午後の授業中。机に肘をついて窓の外を眺めていた大谷龍之介は、池の中央の睡蓮が沈んでいくのを目にした。白い花弁の束。傾くわけでも、崩れ去るわけでもない水面の花。まるで何かに引っ張られるように、陽光に煌めく白い花は池の底に落ちていった。
「ねぇ、大谷くん」
 そっと龍之介の白い袖を引っ張る三谷玲奈。窓の外に気を取られていた龍之介は驚いて声をあげる。
「大谷、お前、保健室行くか?」
 黒板の前に立つ教師のクマダは呆れたように頭を掻いた。笑い声をあげるクラスメイト。頬を赤らめる龍之介。それでも彼は池に沈んだ睡蓮の花が気になった。

 日暮れ前の放課後。部活前の喧騒。野球帽を被った龍之介は首を傾げる。
「なあ三高、池の花ってなんで浮いてんの?」
「花って、そこの睡蓮のこと?」
「ああ、それ、睡蓮って沈んだりするのか?」
「さあ」
 ナイキのラケットバックを机に置いたテニス部の玲奈。窓の外を見下ろして白い花を眺める。手入れの行き届いていない池。濁った水の底は暗い。
 玲奈の隣に立つ龍之介は窓の外を指差した。
「さっきさ、あの池の花の一つが沈んでったんだよ」
「ふーん、枯れたんじゃないの?」
「普通に咲いてたって」
「じゃあ、カエルが乗ったとか」
「いや、なんかこうさ、引っ張られるみたいに池に沈んだんだ」
 蜘蛛の糸を下から引っ張るような仕草をする龍之介。
「何に?」
「知らねーよ、そんなの」
 背筋に冷たいものが走る玲奈。池の底に何かがいるなどとは考えたくもない。
「ちょっと見に行こーぜ?」
「絶対に、いや!」
 玲奈はささっとラケットバックを背負うと逃げるように教室を出た。

 夕日に照らされる校庭。野球部の声が空を震わす。六月の遅い日暮れ。部活動を終えた玲奈は先ほど龍之介がした話が気になり、グラウンドの端にある古池を遠くから眺めた。
 池の周りでは二つの人影が動いている。近づいてみると、龍之介と坊主頭の後輩が池の掃除をしていた。
「大谷くん、何してるの?」
 池のほとりの砂地に立つ玲奈。顔を上げた龍之介は笑った。
「池の話ばっかしてたら監督に睨まれてさ、そんなに気になるなら掃除でもしとけって、怒鳴られたんだよ」
「へぇ、その子は?」
「ああ、コイツも手伝いたいんだってさ」
「ええっ? 違いますよ、俺、関係ないのに無理やり手伝わされてるんす」
 泥だらけのユニフォーム。眉をへの字に曲げる後輩に玲奈は笑った。
「あはは、それで、睡蓮が沈んだ理由は分かったの?」
「さあ、なんでだろうな」
 池の底の泥を掬う龍之介。黒い枯れ葉や木の枝が目立つ。
「枯れたんだよ、きっと」
「だから枯れてなかったってば」
 微笑む玲奈。ふと彼女は池の中央に白い影を見る。ふっと水面に浮かび上がる睡蓮。広がった花弁に泥は付いていない。
「ね、ねぇ、大谷くん? 今、あの花、浮かんで来たんだけど……」
「どれだよ?」
「あ、あれ」
 中央に浮かぶ白い花を指差す玲奈。スコップに飛ばされる水滴で泥に汚れた睡蓮の群。だが、その花だけは純白に輝いている。
「ふーん、睡蓮って沈んだり浮かんだりする花なのか」
「いや、違うと思う……」
 西日に照らされる池が玲奈の目に不気味に映った。
 もしかして掃除させる為に沈んでみせたんじゃ……?
 ほんのり背筋が寒くなった玲奈。「頑張ってね」と二人に手を振ると、後ずさるようにして池から離れていった。

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