冬芳

夏の朝、ハンドジェルを手の甲に絞る。

サクラ・イーゼル 30ml

500mlのペットボトルの水はあっという間に無くなるのに、香るこの液体はどうして減らないんだろう。


いつだかの冬、具体的にいうと高校三年のときの冬にロフトで買ったものだ。数ヶ月後に卒業を控えていて、かつ進路もとりあえず決まっていた。高校生としていちばん気楽で、自由な時期だった。

卒業したあとは、今とは違う生活になることは目に明らかで、それが今の心地よさを上回るとは到底思えなかったが...…。
卒業、春、新生活、という言葉にはなんとなくワクワクするものだ。とはいえ、新生活なんて、思ってたほど楽しくないものだ。少なくとも慣れるまでは。

だから私は、桜が好きで、春は嫌いなのかもしれない。


バスを降りる。少し歩いて、パルコ1階のスタバ、フラペチーノとコーヒー。
アニメイト、ブックオフ、モスバーガー、そして狸小路。

雪が降る。風が吹く。寒さに震える。
コロナ渦のカラオケ店は臨時休業。

これらの記憶をちゃんと使い分けられるように、頭の中にUSBを思い浮かべる。今日見たこと、感じたこと、この気持ちは、家に帰ると同時になかったことにする。そして一人でベッドに入ったとき、また読み込む。

ジュンク堂書店、紀伊國屋書店、私は本屋が好きだった。それは今も変わっていない。でもたぶん、いま大通にあるジュンク堂書店は、私が好きだったそれとは少し違うことだろう。

春が来る。雪で覆われていた地面が裸になり、乾いた風が吹く。そんなとき私はふと、この世の厳しさを思い知る。

雨が降る。そんな日は部屋でアロマを焚いて勉強する。

脱毛サロンに通い、図書館に通い、心と体と頭の美を求める。

廃棄パンのラップを剥がしながら。ショートケーキを箱詰めしながら。テーブルを拭きながら。働きながら、ずっとずっと、他人の心を知る方法を、裏を知る方法を考える。考えて考えて考えて、知恵を絞る。この際、悪知恵だってなんだって構わない。

・・・

サクラ・イーゼルのハンドジェルを塗り終えた私は、もう少しで使い終わりそうなDiorのリップを筆でほじり唇に塗る。

デンプン糊みたいな甘ったるい香り。私が初めて憧れのデパコスを買ったのは高校三年の二月。高校生の私にとって四千円はなかなかの大金だったけれど、単純に大人になったような感じがして嬉しかった。

お金といえば大人。大人といえば色欲。
私が性に目覚めたのも、その頃だった。人より遅いのだろうか。高校三年の二月まで、興奮した男の体はどうなるのか、興奮した女の体はどうなるのか、快感とは何かを知らないで生きてきた。知らないで異性と過ごして、知らないで恋をしてきた。知らないというのも、体験したことがないのはもちろん知識がまるごとロックされていたのだった。性欲というものも、その発散方法も、何がきっかけだったんだろうか、その頃初めて知ることになった。

・・・
最後に、これまた使い終わりのフェイスパウダーをトントンと叩き、パフに取る。このパウダーは気に入っていたからまた同じものを買ってもいいかなと思う。どこで買ったんだっけか……。

あれは社会人になってすぐの五月、私はゼリーやお菓子の入った紙袋を持って病院へ持って行った。頭では拒むことを体が勝手にしているという不思議な感覚だった。解離というのだろうか。何も考えられない状態でフラフラ歩いて、帰る途中に、チカホに新しくできたアインズトルペに寄った。初めての給料で買ったのが、このフェイスパウダーだった。一緒に買った涙袋ライナーはとっくに使い切って捨てた。

いい加減、古い化粧品は使い切るか捨てるかした方がいいだろう。特に液体ものは劣化する。何より化粧品ひとつひとつにストーリー回想していては化粧が進まない。分かってはいるものの、これはむしろ使えなかったのではなかろうか。ひとつひとつの思い出が大切すぎて、浸るのが幸せで、希望だから。この香りをかげなくなったら、思い出ごと無くなってしまいそうだから。

これだから、香りに関する恋愛ソングが流行るし、「ドルチェアンドガッバーナってなに?」などと言う知能の低い人間が出現するのだ。

そんなんしてもう私は社会人3年目。脱毛はだいたい終わったし、月に何度かエステに行く余裕もあるし、相変わらず色々資格をとっていて、なんだかんだ忙しい。いい友達とか尊敬する人がたくさんできた。だから私は強いさ。

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