虚言癖の境地に

何とは言いませんが、私にはひとつ完全に捏造している記憶があります。それはもう、その方がおもしろいからという理由と、そうである自分を演じたいからという理由と、まあいろんな欲望に相談してもらって、捏造しても自分以外の人に影響がなく、誰も気づかないどころかむしろそちらの方が流れとして自然であると判断された一部分が本来の記憶とは全く別に新しい記憶として後付けしてあります。

記憶というものを思い起こしながら喋るうちに、その思い起こして喋った内容自体を元の記憶に上書きするような形で記憶し直している。そうして事実がねじ曲がり、話が盛られていくことがあるというのは実感として分かりやすいでしょうか。
その極端な例が、私のしている記憶の捏造に当たります。

繰り返し思い起こしながら喋ることで上書き記憶ができるのであれば、同じ手法を使って、無い記憶を新規作成することが出来るかもしれない。新規作成した記憶を繰り返し思い起こしながら喋ることで、実は上書き記憶だけで作られた全く新しい記憶を、つまり、無から記憶を生み出そうという試みです。

無い記憶を脳内で反芻すればするほど、その記憶があたかも本物であるかのように振る舞うようになります。というよりも、事実は過ぎた瞬間に実態を失い、それを目撃した人の脳内に記憶という余りにも頼りない存在でしか残らない カメラなどの媒体に残ることもあるが、そうではない場合、そして、目撃者が自分しかいない、あるいはそれに等しい場合、それを改変したところで誰も気づかない。気がつくことができないのです。

捏造した記憶はもちろん実際に起きたことではありませんから、事実との違いを指摘できる目撃者が存在している訳がありませんし、ましてやカメラなどの媒体が記録している訳もありません。新規制作した本人が本当だと思い込んでいる以上、それが嘘であると証明する術は無いのです。こうして自分をも騙せる嘘の記憶が完成するのではないかと私は考えています。

さて、"自分をも騙せる嘘の記憶"とは言ったものの、自分で嘘と分かって喋っているのであればそれは単なる嘘でしかありません。捏造した記憶のことを、これは事実だ。本当にあったことなのだ。と思って喋ることが出来てこそ、試みが成功したと言えます。前述したように、それが嘘だと外部から指摘されることはありませんので、自分さえ完全に騙せて仕舞えばこの試みは成功です。逆説的に、この試みは成功を確認することができない不毛なものでもあるとも言えるでしょう。

残念ながら、今のところ試みは完遂出来ていません。この文章を書いている時点で。

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