実は僕、卒業していません。

卒業式の季節だから僕のこれまでを振り返ろうと思う。

本来ならば今年度は僕が大学を卒業するはずの年だった。だけど僕は大学を卒業していない。
いま大学院の修士1年だけど、飛び級をしたから学歴でいえば今はまだ高卒。
そんな僕の"4年間"と高校3年生の受験期を久しぶりに振り返ってみた。

正直このnoteをだすかどうか迷ったしなんなら出さないつもりだったけど、たまたまこのnoteをみつけて読んでくれた誰かの背中を少しでも押せたら嬉しいなと思って投稿することにしました。

思い出すままに文字にしているからところどころ言葉選びとか文章とかおかしいかもしれないけど、どうか許してください。

僕の大学生活は大きな劣等感で始まった。

地元では進学クラスに通っていたので、高校の時のクラスメイトは東京大学を始めとした旧帝大や国公立大学への進学が決まっていた。その一方で僕はといえば受験に失敗し、駅伝で有名な、レベルで言うとせいぜい中の下くらいの私立の大学に進学した。ちなみに僕が受かったのはこの駅伝大学と北海道の北の方にある公立大学だけだった。駅伝大学を選んだのは、関東で遊びたいという気持ちが少しばかりあったというのが本音。

まあでも高校三年生の頃を少し振り返ればこの受験の結果は当然といえば当然だったと思う。一応進学クラスに通っていたから国公立大学を目指していたが、塾に通いながらも大して勉強していなかったし、何より「これを学びたい!」「これになりたい!」みたいなモチベーションは当時の僕にはなかったからだ。クラスでもビリを争うくらいで毎回テストはヒヤヒヤしていた。

進路希望もテキトーだった。
・とりあえず大学には行っとかないと将来不安
・文系科目はまるでダメ
・生物はやってなかったけど物理・化学は得意ではないにせよ理解はできる
・まあ数学はちょーっと面白いかなーと思ってる
っていう浅はかな理由で理系を目指した。
余談だが、三者面談の時に行きたい分野はなんだって聞かれたから消去法でこういうところ考えてますって言ったら、先生の逆鱗に触れてものすごくぶちギレられて三者面談強制終了させられたことを今でもよく覚えてる。

とは言え、人の役に立てたらかっこいいし、じゃーなんとなく他にイメージ湧かないから義手義足を少しでも改善できたらいいかなーなんて気持ちで「医用工学」「生体医工学」みたいな所を探して今の学科にたどり着いた(正確に言えば、先生が滑り止めとして紹介してくれた)。

そんなこんなで毎日のように塾に入り浸っていた3年目の高校生活はあっという間に終わり、進路も決まって一人暮らしをすることになった。

冒頭で少しの希望と大きな劣等感と書いたが、大きな劣等感は大学入学を機に反骨心に変わった。
最初こそ、めっちゃ遊ぶぞー!とか思っていたけれど、受験うまくいかなくて大学で遊び呆けて腐ったらまじで人間のゴミだな、、。大学のレベルは確かに低いかもしれないけれど、よーいドンのスタートは同じなんだからここから負けないようにしよう、という気持ちでいっぱいだった。

受験期に希望の進路を叶えようと一生懸命だったクラスメイトの皆の姿、そして実際に実現していた多くの友達、なにより当初国公立大学を目標にしていながらも不甲斐ない結果に終わってしまった情けない自分とそのせいで倍以上の負担をかけることになってしまった両親に対する申し訳なさが反骨心を育んだのだと思う。

そんな背景があって、僕は目標をふたつ作った。
・交換留学をすること
・首席になること

僕は駅伝大学がグローバルな取組を学校をあげて支援していることを知っていた。
海外に漠然と興味は持っていたし、経験は大事だと思っていたし、海外留学で視野が広がるのではないかと感じていた僕は、理系で専門的な知識を持ちながらもグローバルな人材になるために留学をすると決めた。
ただし、専門分野を学べて(語学留学ではない)、費用の負担も小さなタイプである交換留学にこだわった。

また、首席になることで年間30万円を貰えることはHPをみて知っていたので、勉強してお金が貰えるなんてそんないいことは無いと思った僕は必ず首席になると決めた。

結果から先に言うと、2つの目標は達成した。
自分で言うのもなんだが、正直頑張ったと思う。

僕の大学ではそもそも留学をする理系は少なくらするとしても3年生での出発がこれまでの例だった。
でも研究室配属とかその後のことを考えると3年での留学はあまり良い選択ではなかったので、2年で行くことを目指した。
そのためには1年の10月までに所定のスコアを取らなければならなかったのだが、これが長い道のりだった。1年の4月に受けたTOEICはなんと405点。とてもでは無いが留学をめざしている学生の点数ではない。
でも頑張った。半年後にはTOEICの点数は300点以上伸び、留学のための最低スコアを越すことが出来た。

もちろん学部の勉強も頑張った。
これは説明なんていらないだろう。2回首席になったことが証明してくれていると思う。

1年目は本当に色々なことがあった。
反骨心のせいでこんなヤツらとはつるまねえ!みたいな尖った自分がいたし、でも頑張っていたら自然と上を目指す友達ができたし、色んなチャンスを与えて貰えた。
その最たる例が大学の英語スピーチコンテストだ。

ぜひやってみなよ!って先生から声をかけていただいて、最初は渋っていたけれど挑戦することにした。約3ヶ月の時間をかけて練習した。出るからには優勝したかった。英語を専門に学ぶ学部や英語で授業を受けている学部からも当然代表の学生が出てきており、多分理系の僕なんて眼中になかったと思う。
でも3ヶ月の成果を披露した。
正直めっちゃくちゃ緊張した。
初めて経験するような膝の震えで、口の中はパッサパサだった。

そして結果発表。
協賛してくださった企業からの賞、3位、2位、僕の名前は呼ばれなかった。
僕よりはるかに発音のいい学生はいっぱいいたし、流暢に話している学生もいっぱいいたからダメだったかなって思った。
The first prize is,,,,, Mr.Ryoma Tsuchiya!
自分の名前が呼ばれた瞬間、陳腐な表現になるけど嬉しかった。
やれば出来るんだ、頑張れば報われるんだ、そう思った瞬間だった。
3ヶ月間練習に付き合ってくれた先生、応援に駆けつけてくれた友達・先輩が喜んでくれてるのが何よりも嬉しかった。
そしてやっていることは間違っていない、これからも頑張ろう、そう思える貴重な経験だった。

そして1年生の冬、交換留学の審査に合格し、2年の夏から留学に行けるということが決まった。

留学はあっという間だった。
携帯電話が使えない夜の街中で道に迷って泣きそうになったし、酔っ払ったちょっと怖い人たちに絡まれて泣きそうになったし、大麻吸ってハイになってる人達に執拗に誘われて泣きそうになったこともあったけど、総じて楽しい経験になった。シェイクスピアが何を言いたかったのか、ゴキブリを平気で素手で掴める金髪の女の子はどんな気持ちだったのか、体感温度マイナス30度の冬がどんだけしんどかったか、今となってはもうあまり思い出せないけど、かけがえのない思い出になった。留学を通して出会った人たちとは今でもちょこちょこ連絡を取りあっているし、なにより留学の目的である視野を広げるというところは今現在の目標にも繋がっている。
あの時間がなかったらいまの僕はいないと思うし、この選択は間違っていなかったと思う。
ちなみに、一番の思い出は推しのチアリーダーと写真を取れたことで、二番目は現地の美容室に行ったら若かりし頃の角刈りメンディみたいな髪型にされたこと。

この留学を機に僕の中に芽生えた海外で活躍したいなという気持ちが大学3年目の原動力になった。

留学から帰ってきた僕は、周りの学生より少し早く研究室に所属することにした。幾つか見学させてもらった後に、今もお世話になっている分子細胞生物学を専門にしている先生のところで幹細胞に関する研究をさせて貰えることになった。
高校で生物はやっていなかったし、大学に入って授業でやったとは言え知識が浅かったから大変だった(今でも大変)。
なんで幹細胞なのかと言われたらその将来性にとても魅力を感じたからだと思う。
幹細胞の一種であるiPS細胞は有名だと思うが、僕が難治性の疾患や怪我による後遺症などに苦しんでいる人たちを救えるようになったらなんて素晴らしいことなんだろう、僕が死んだあとも誰かのためになるような成果が残り続けたらなんて誇らしいんだろう、そう思った。
いま、僕はその幹細胞を使った研究の成果を論文として、世に出す準備をしている。もう少し待っていて欲しい。ちゃんと形として発表されたらまた改めて書くね。

大学3年生の時の大きな出来事として外せないのが「飛び級」だろう。日本にそんなのあるのかよ!と思うかもしれないけど、僕は4年生の1年を過ごさずに、3年生終了後に大学院生の1年になった。少し早くから研究室に所属して研究をする中で僕はこれを生業にしていきたいと思うようになった。
そして漠然と心のどこかにあった海外で活躍したいなという気持ちが重なって、海外の大学院で博士課程を取り、その後海外で研究を続けようと決めた。
それを少しでも早く、少しでも可能性を見いだせる方法でやるにはどうすればいいかと考えていた時に、飛び級という制度があることを知った。

前例はなかった。
飛び級なんて意味がわからないよという先生もいた。
でも僕は自分の選択を信じていた。

飛び級という選択をしてからまだ1年しか経っていないし、その1年は全世界を混乱させている新型コロナウィルスのせいで想像していたものとははるかに違うものになったけど、それでも僕はこの選択をしてよかったと思っている。結果として進捗は当初考えていたより遅れているけど、でも論文を発表する準備は進んでいるし、なにより海外の大学院進学に向けて歩は進んでいる。

思えば僕の大学生活は劣等感から始まった。
何にもできない自分が悔しかったんだろうね。
でも人一倍頑張ってきた自負はある。
そしてこれからも今まで以上に頑張るという自信がある。

正直今でも劣等感は捨てきれていないし今後もなくなることはないと思うけど、だからこそ今があるんだと思う。

疾患や後遺症で悩む人がいなくなる世界の実現を叶えるために、僕は医療の進化を少しでも後押しできるように頑張る。

最後になるが、僕の選択を、わがままな行動を、全力でサポートしてくれる両親には心から感謝している。

困っている時に手助けしてくれる先生や友達は僕にとって本当にかけがえのない存在になっている。

本当にありがとうございます。
これからも頑張るので、見ていてください!

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