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絵を描きたい


ここ何年かで失ったものの一つに絵心がある。
自分についての説明文で否定的な意味にしろ「絵心がある」という文言があるのは奇妙な感じだ。
幼少期の趣味はお絵描き、というくらいには絵を描いていたのに、いつの間にか絵を描かない生活にシフトしてしまったからだろうか。
一般的には「画力が落ちた」と表現される状態になったのである。
私が現状に至るまでに、過去のどこかしらの時点で画力なるものを持っていたならば「画力が落ちた」の言いまわしで事足りるのだろう。
しかしながら、もともとの絵を描く力が皆無の場合、上記のような言いまわしができない。
自分にはそもそも無くす画力がない、からである。
死ぬまでにもう一度絵を描きたい。
できれば上手くなりたい。
伝言を残したメモの片隅にサラサラと人気のキャラクターを描いてみたい。
そしてそのメモを見た人に、絵が上手ですね!、と言われたい。
キャンバスに水張りして大作を作り込むわけではなく、そういった日常にあふれるような絵を描きたいのだ。
今の世の中AIにだって絵がかけるのに。
百貨店のギャラリーに展示されている作品を横目で通り過ぎながら、そんな益体もないことを考えていた。
noteに挿し絵する際、本投稿も含めてAIに描いてもらった絵を使っている。
ちなみに今回は「絵描き」で依頼して出てきた画像を使っている。
期待した絵とは違うが、まあ、これもよし。
もちろん、これまでの記事の中にはAIが新規作成したものではないものもある。
毎日記事を投稿することを考えると何度かに一度は自分のイラストをつくって、それを挿絵にするべきかと考えた。
失われた絵心は戻らないけれど、これから育むことができるのではないだろうか。
そんな淡すぎる期待を抱いて鉛筆を握ったものの、てんでうまくいかない。
本当に幼少期の私はお絵描きが趣味だったのか。
今となっては実に疑わしい。
おそらく誰も信じてはくれないだろう。
まずは模写から始めてみるのがよい、とされているが何を模写すればよいのか。
鉛筆から筆ペンに持ち替えて、鳥獣戯画の兎が笑い転げている絵を模写してみたい。
少なくともいきなりカルチャーセンターの油絵や日本画の教室に通い始めるよりは建設的なはずである。
油絵のために嵩高いイーゼルを、日本画のために希少かつ高価な顔料を入手することに比べれば初期投資もタダみたいなものである。
それに、鳥獣戯画の模写ができれば日々のちょっとしたスペースが和風タッチな動物たちで彩られるのだ。
手帳の空きスペースに相撲を取る兎、買い物メモに泥棒する猿と追いかける蛙。
筆ペンでサラサラと描いて、そのイラストを見た人間の度肝を抜きたい。

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