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かもしれない、って何?

かもしれない。
最近この言葉をよく聞く。
「うれしいかもしれないです」
「ちょっと無理かも」
どちらも最近聞いた言葉で、場所も話しても別々である。
しかし共通点がひとつある。 
自分自身の気持ちを表現している、という点である。
ここまで読んだあなたは、なにかおかしな点に気がついたかもしれない。
そう、上の一文のように、自身以外のものの状態や心情を表す表現として「かもしれない」を用いることがほとんどである。
しかし、自分自身のことに対して「◯◯かもしれない」と表現するのは最近出てきたパターンなのである。
主に若者が使うイメージだが、他の年代でも口にしている人は若干名だが見かけた。
私が今まで知らなかっただけで新しい用法が生まれていたのだろうか。
まさしく、言葉は生き物である。
自分の気持ちなのに、未知のものみたいに表現するのには未だになれないけれど。
きっと、少し先の未来の自分と会話している瞬間の自分は別人である、という考えが根底にあるのだろう。
あるいは、特に意味のない飾り言葉、くらいの認識でも良いのではないだろうか。
大阪で発言の最後によく聞く、知らんけど、みたいに。
以上を踏まえて先の発言を再生すると、それぞれ、
「うれしいです」
「ちょっと無理」
となる。
当たり前だが、音の数が減るとダイレクトに伝わる。
某さんは嬉しいと思っているし、某さんは無理だと言って断っている感じがひしひしと伝わってくる。
おそらく、この直接に相手に伝える状態が、現代人、というより若者は苦手としているのだろう。
はっきり、きっぱり、よりは、ふんわり、ぼんやり。
曖昧にして言葉の責任や重みをなくしてしまいたいのかもしれない。
母語話者どうしならば特に問題なく意思疎通できそうだが、異国語を話すものが相手となると少し勝手が違ってくる。
外国人とのコミュニケーションツールのひとつがその国の言語である。
昨今はスマホアプリが普及しているため、以前ほど海外旅行先で困ることはないと感じることが多い。
言葉の壁は文明の利器で低くなりつつあるようだ。
しかし、いくら技術が発達したとはいえ細かなニュアンスまでは翻訳しきれていない。
言葉を直訳する域を出ていないのだ。
円安の効果かオーバーツーリズムが続く日本の観光地を見るにつけ、この人たちは「かもしれない」を正しく汲み取れるのか、といらぬ心配をしてしまう。
こんな日は、言葉を学ぶことはその言葉の国の文化を知らなければ理解できない、というのを思い出す。

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