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言葉が出てこない

noteを書くようになったきっかけについて、また改めて別記事で仕立てるかもしれないが備忘録代わりに書き留める。
いつの頃からか、母国語の会話なのに言葉が出てこないことがあった。
そういったことがたびたびあって、話している自分自身はもちろん、会話の相手もイライラしていたことだろう。
焦って吃ったり、言葉に詰まったり、というのはまだマシな方かもしれない。
今このときに伝えたいことがあるのに、それを表す言葉だけが塗りつぶされてしまったかのように口から出ていかないことがあった。
そうなるともう他人と話すのが億劫になる。
元来、多弁な方ではないが、言葉を紡ぐのに恐ろしいほどに時間がかかるのは初めてだった。
現在でもこの症状は続いている。
単にボキャブラリーの低下かとも思ったが、どうやらそういうことでもないらしい。
対面でのバーバルコミュニケーションがうまくいかないだけで、作文はできているから。
だから大丈夫、焦らずに読書量を増やしたり新聞を読んだりして以前のように戻れるまでゆっくりすればいい。
そう思っていたのは2〜3年前までである。
気がつけば作文すら思うようにできなくなっていた。
そこで、はた、と気がついた。
もしかして、これが老化現象というものなのではないか、と。
アンチエイジング、脳トレ、ボケ防止。
自分にはまだまだ先のことだと思っていたことが、今目の前まで迫ってきているのだ。
そう、知らぬ間に老いはやってきていたのだ。
自分に残された時間があとどれくらいなのかはわからないが、できることはすべてやってしまいたいし、できないことにも挑戦したい。
まずは言葉を使うことに対してリハビリをしなくては。
そう思い、毎日1000字程度の短い文章を書き続けることにした。
これがnoteを始めた理由である。
どこまで、また、いつまで続けられるかはわからないができる限り続けていきたいと思う。
老いが身近になってきたとはいえ、年齢のせいでいろいろなことを諦めるのは嫌だ。
もう、〇〇歳だから△△できない、というように自ら線引するのはやめようと思う。
周りに自分の目標を宣言して、あなたには無理だからやめなさい、と言われてその通りにするのもやめる。
どうせ反対されるのなら、最初から私の胸の内は言わない。
無言実行である。
これまでの人生で、十分にわかっていることではないか。
自分が何か新しいことを始めれば必ず横槍を入れられる。
そして失敗すれば、そらみたことか、と言わんばかりに大きな顔をされる。
だから。

誰も私を知らないこの海で、静かに明日の希望を紡ぎ出す

(字余り、破調)


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