見出し画像

ちいさくていい

また書いてみたいと最近思っていたけれど、なにが本当に書きたいのかもわからなくなっていました。
まずは、昨年1人の時間に一生懸命書いていた20ほどの作文をいったん別の場所に格納して整理。
今の自分が読んでみて気分のいいものだけを残して、書き始めてみようかなと思います。


心に鍼をおく

年初にカウアイ島でお会いした音楽家が話してくれた、「音楽や言葉は鍼灸と似ているんだよ、心にとどまってじんわりと勇気づけたり元気づけたり癒してくれるものなんだよ」、という言葉が、いまだにずっと私の心に置き鍼のように刺さっていてじわじわと効いてくれています。


東洋医学では、私たちの体の中に流れるものは三つ。
血液と津液(水分や髄液など血液以外の液体すべて)、もうひとつは「気」です。

「気」などといいだすと怪しい人間だと思われそうであまり言いたくないけれど、日本語には“元気“だとか“雰囲気“だとか“気持ち“だとか、“気“という文字がたくさん登場します。
目に見えない「気」というものが日常に深く関係していることはその漢字の意味を想像してみるとわりと簡単に理解できるように思います。


血液を送り出すポンプは心臓だけれど、身体中にまんべんなく巡らせるのは「気」の働きであると、私は中医学の先生から習いました。


本当かなあ、と思ってしまうけれど、元気がないとなんとなく体や心が不調になるのは、血液や津液が「気」の不足でうまく循環しなくなるから、と考えると、気というものが目には見えなくても存在し、体にとって大切な作用をしているらしいということも受け入れられるんじゃないかなと思います。

好きな人が言ってくれたなんてことのない一言が、自分の気分をぱっと明るくさせてくれるというのは誰もが覚えている懐かしい感覚なんじゃないかなと思います。
気分が明るくなると、勉強がはかどったり人に優しくできたり。涙も晴れて痛みだって和らぐような気がしてくるほど効果はすごい。

言葉って、すごいよね。


体に鍼をおかれる

今日は、先日から痛めていた右手親指や手首をどうにかして欲しくて、友人の鍼灸師・Shantのオフィスを訪ねました。
アルメニア語でShantは稲妻・閃光。
鍼をスッと一刺ししてびりっと効かせるというのが、閃光という名前とぴったりだというのが彼の自慢。

右手の治療なのに、彼は私の左足首と足先だけに鍼をうって、痛みが取れなければ鍼をジリジリと深くねじ込んだり、一本二本と増やしていったり。マジックのように痛みがそれに従って消えていくのは芸術的です。



自信を持って自分が学んできたことを一つ一つの手技で表現している様子はとてもうれしそうで、この人に体を委ねてみようと思わせられます。

そのまま30分ほど眠っていると、じわじわと全身に波が広がっていくような感覚で、絡まった鞠の紐が解けるように全身のもつれがほどかれたように気持ちが良くて、今もまだじんわりと利き続けてくれています。


心に刺ささる鍼というものがあるならば、きっと同じように、小さな波が自分の意識の中にゆっくり広がっていくよね、たぶん。
Shantの自信に満ちて表現する様も、私の中にちいさな波を起こした。
だから、今日は書こうと思ったのかな。


言葉が鍼ならば

私がnoteに初めて書いたものの中に登場する、“読書会の主催者の方“、というのは、よしログ さんです。
2年ほど、よしログさんの主催されるYoshilogライブに参加しています。

理由は、あまりにも自分がなにも知らない、ということを知ったからです。
大学まで通って普通のことは習ったようなつもりでいたけれど、自分は小さな井の中の蛙でしかなかったことを、いくつもの恥ずかしい経験の中で痛感させられて、自分はなにを知らないのかを知りたい、と考えるようになりました。

よしログさんに初めて直接かけてもらった言葉は、私の「大事もんノート」に書き留めてあります。

「自由から逃避しないことは簡単なことじゃないですよね」。


この言葉は今でも私の心に刺さっていて、勇気が出なくて後退りしそうになった時には必ず思い出す言葉です。

心に刺さる鍼のような言葉って、ホントにあるなあ。
じんわりと、いまだに効いとるよ。



言葉はきっと「気」

言葉は、私たちが暮らす日常、それがある社会だとか国だとか世界の中で、めぐるべきものを巡らせることのできる「気」のようなものなんだろうなあ。
今日は鍼を刺されながらぼんやりとそんなことを考えていました。

東洋医学では、体の中に起こる不具合の原因を知るために、自然の中にそのヒントを求めます。

今日の私の痛みは指を酷使しすぎた身体的なことが原因だけれど、体を一本の木に例え、手足はその枝にあたる場所。枝にある節の痛みだと推察してShantは鍼を置いてくれました。

木の要素は、体でいうと肝臓です。
Shantは今日、そういう見立てをして関節の治療を肝臓にオーダーする鍼を打ってくれました。

経絡という道路みたいなものが体に何本かあるんですけど、その道路の交通整理を促すように指示を送ることができるのが鍼。そして、マッサージの手技でもそれに近いことができます。
ひどい痛みがそんなことで、と思われるかも知れないけれど、痛みが薄れてしまうのだから信じないわけにはいかないよなあ。

観察し原因から起こるであろうストーリーを描いて自分の見立てをしてみる。
それを試してみる。

東洋医学に限らず、自分の中に格納されているものをこれでもないあれでもないと引っ張り出しながら考えてみる試行錯誤の過程こそ、学びの醍醐味なのかなと私は感じます。

言葉にする、ということも、自分の中の記憶や思い出や学んだことをあれこれ引っ張り出して表現する作業。
どれもなんだか似ているなあ。

ここからは、まだまだ東洋医学初心者の私の、大いなる妄想です。

きっと世界とか世間とか社会いうところにも、自然と同じことが起こっているのかもしれないんじゃないかという、仮説を立ててみました。
中医学の先生に怒られないかドキドキするけれど書いてみます。

本来、心地よくみんなの間を循環するべきもの。
例えば下世話だけれど、お金だとか豊かさだとかそれに付随するあらゆるもの。
そういったもの達が、淀み滞りどこかで堰き止められたりしているのなら、その世界は不健康。

流れを管理できるのは、「気」です。
気は、流れを停滞をさせることも乱すこともできるし、動きを再び生みだし順行させることもできる。

言葉を気と捉えるならば、

言葉で、世界に停滞や混乱を生むことができる。
言葉で、その停滞し腐ったヘドロを動きによって濾過し、混乱は順光へと戻すこともできる。

そんな仮説は成り立たないのかあ。



山奥で見る源流はちいさいんよね

田舎に帰るといつも山に行きます。
山に入ると、いろいろな景色を集めておいて、自分の妄想の種として持ち帰ってきます。
じっと植物たちや天候や生き物たちを眺め匂い触れる時間は静かで自由です。

現実の日常には、目を背けたいことがほとんどで、だけど自然を眺めているだけでは自由に生きているともいえず。やっぱり自由は現実の日常の中にあるのかなあ・・・と逃避をあきらめて山を降りてきます。

大河の始まりは一滴の雫から、みたいな諺があったと思ったけれど、本当に流れの始まりは、木の根元なんかのぴちょぴちょと滴れる雫たちの小さな集団です。
それを歩きながらたどっていくと、次第に集団が大きくなっていく。
その様子はなかなかドラマティックだったりします。

言葉が、流れを生み出す「気」だとするならば、

その最初の言葉もきっと、あの雫達のようにすごくちいさい声なんだろうなあ。
最初はなんでもちいさいもん。



恥ずかしいけれど、言葉にしてみる。

私はおばさんです。
特に優れた学も、世界を舞台に踊る役名も持たない、山里育ちのおばさん。

的外れかもしれない勝手な妄想をよくもこんなに長々と書くなあと自分でも思うし、誰に読まれるかもわからないなんて死ぬほど恥ずかしいことだけれど、書いてみたかったんやけんそれでいい。

大事なことは、自分なりに一生懸命考えてみた時間と試み、だと私は信じているから。

知らない、わからないなら、自分なりに調べたらいいし、知っている人に聞いてみたらいいと私は思う。
間違っていたら、ああそうか!ごめんごめんありがと!と言ってそこで習えばいい。

黙っていると、その気持ちという「気」はきっと体の中にとどまり淀み腐ってしまう。
自分が健康じゃいられない。

すっきり排泄することは、やっぱりAmazing!


もう終わってしまった回だけれど録画を購入できるので、ぜひ!


大きな世界に生きているけれど、私の日常はその中のちいさな点。
そのちいさな点の中に、私の困っていることや不安や希望が詰まっていて、それは大きな世界の困りごとや不安とも繋がっているんじゃないかと私は思っています。

自分の時間を生きること、誰かの日常を生きないこと。
SNSで容易に誰かの日常とつながることができる今の時代には、自分自身とつながることが難しいなあと感じています。



ちょうど始まるものがあるので、私の文章を読んでくださる方がいるならばお勧めしたいです。


月に一度、まずは一度だけでも。
私は大学生の娘を誘ってみました。
若い方に特にお勧めしてみたいです。



羞恥心とユーモアをもって、Amazingな排泄を!





3年前の懐かしい写真。
Fig、初めての海。
アドベンチャーしよーぜえええ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?