過去になぞらえて、円環と螺旋
鬱々として少しも気が晴れないのに、その気持ちを書いてみたいという衝動を抑えきれずにnoteにきてはみたけれど、なんだか気持ちの悪いモノにしかならず。
ふと、以前はどんなこと書いていたんだっけ?と、PCの奥に格納していた文章を引っ張り出して読んでみました。
霧が少し晴れたような気持になりました。
遠心分離機のゼロ
引いた血液のチューブ6本を遠心分離機の中に均等にぐるっと並べてスイッチを押すと、すーんという静かな音で回転が始まって、一気に高速回転。
高速回転の間は、少し高い波長の音が静かに一定に流れ、10分後、白血球・赤血球・血小板の3層にわかれたチューブをその中から取り出します。
ぐるぐるまわっているうちに、きっぱりとわかれる内容物。
円、ゼロってすごい力を持っているなあ、とラボの隅っこでチューブを電灯の光ですかしながらいつも思っています。
このなかに誰かの生体情報がぎっしり詰まっているなんて不思議だ、ほんとうに不思議だ。
ぐるぐるまわる、循環する。
円環の中では、ひとつのものがバラバラになり細分化され、そしてなにかがつまびらかれる。
マトリョーシカの入れ子のように、自分を脱いで、自分を脱いで、ちいさくちいさくしていってみる。
コロナで出会った新しい職場と経験。
今朝、その職を離れる退職届を書きました。
ゼロにもどる決心が必要だったからです。
”狭間”と書いた年初の書初め
今年の初めに久しぶりのセッションを受けました。
ボディーワークとラボの検体コレクションの仕事の両立で疲れていたからです。心と体の声を両方きいてもらえる方にお願いしました。
帰り際、「年が明けたばかりだし今年の抱負みたいなのカードに書いてみない?漢字一字で」と言われて書いたのは、”間”。
長いワークのあとにさらっでてきたその漢字を、今も時々思い出します。
けっこう今、狭間に生きているよなぁ。
(東洋学的)補完医療、Complimentary and Alternative Medicineに分類されるマッサージやReikiの仕事やボランティア、友人の鍼灸院の手伝い、アーユルヴェーダ療法のスパ。
それとは対極の、西洋医学の検査のための検体コレクション・PCR検査の仕事。
両方の現場の雰囲気の間をいったり来たりの日々は、学びと同時に混乱でもありました。
その内容が違うのは当然だけれど、そこに働く人たちのエネルギー、彼らが口にする言葉、何を食べるのかさえも違う。
ワクチンは当然受けるものそれも仕事のうち、という考えと、ワクチンは毒だという人たち。
現実を見つめさせられ、現実に引き戻され、目を覚ましてもらったことも多くあります。
コロナの鎮静を願う一方で、コロナが出たと聞けば罪人のようなまなざしを向ける社会も存在する。
コロナの検体に触れて、家に帰って手を洗いうがいをし、その手で夕飯を作り食べて眠る。
検査結果で一喜一憂している人がいても私にはどうすることもできない。
リアルは生ぬるくない。
”多様に働く”と”その道一筋”
ヘルスケアワーカーこそ、最も健康と遠いところにおかれている人たちである、まさに激務であることもよく理解しました。
西洋医学の世界を知りそこに注力すると、今度は自分のマッサージに冴えがないなと感じることが度々起こるようになりました。
これじゃ、ダメになってしまう…
狭間を生きるには、強さと軽やかさがいる。
強い信念と、受けかわす軽やかさ。
多様に働く、という言葉が正しいのかはわからないけれど、いろいろやりながらどれもがバランスされるという働き方がしっくりくる人も大勢いるはずです。
Reikiのボランティアをしています。
終末期医療に入った患者さんやそのご家族、サポートするソーシャルワーカーや医療関係者の方の疲れや心身の痛みの軽減のお手伝いです。
何も考えません。
ただ、お会いするその時間に自分ができることだけをしようと決めています。私が何か奇跡を起こせるとも思わないし、起こそうとも思いません。
私はただ目の前に存在し、できることをするだけ。
狭間を駆け回りながら、冴えない自分を時々感じていた時、マッサージのお客様が急に亡くなりました。
私と10歳も変わらない年齢。
足がむくんで辛いのよ、という彼女に、もっと調べて工夫できるかもしれない、と会うたびに感じていたのに、日々に疲れてそれを十分にできなかった。
なにやってんだ、自分…
葬儀の教会で、心の中の自分にビンタを一発。
わたしにとって、仕事ってなんなんだ。
100歳の祖母の観察
昨年、母方の祖母が100歳になりました。
口から出る言葉はすべてネガティブ、人のやる気と元気を一瞬で吹き消す人物です(笑)
私の名前ももう覚えてはいないのですが、昔一生懸命働いた山や畑のことは昨日のことのように話すことができて不思議です。
問題児の祖母だけれど、山奥の閉ざされた小さな集落で山仕事一筋で家計をやりくりしたのはすごいことだと思います。
祖母は、自分勝手。
自分の物差しだけで良し悪しを決める。
自分が良しとするものだけしかしない、認めない。
それはある意味で長く生きる秘訣のような気がします。
長女と一緒に飲むとよくこんな話を二人でします。
仕事は自分がしたいことをする、自分勝手、自己中でいい。
偽善でもいいじゃない、やらない偽善より、やる偽善。
酒を飲んでの半分酔狂。けれど、半分は本気。
極論だけれど、人は自分のために生きたい。
マトリョーシカの一番最後の小さな人形とにらめっこ。
あの子は小さな声でなんとささやいているかな。
父がロシアに旅した際に買ってきてくれマトリョーシカ人形。
今は実家にいる、ふっくらした唇に赤い口紅のあの子を思い出しています。
キーフとマリウポリに家族がいる同僚と話すと、
誰がくれたかなどは二の次で、とにかく生きるために食料を手に入れたい、それがリアルだと理解します。
”無私”と”偽善”と”自分勝手”。
遠心分離機にかけたなら、そう仕分けされるかもしれないけれど、
実はただの、”行い”というひとつの言葉だけなのかもしれないなぁ。
「死ぬる力」
週末に手にとった本をめくると、「死ぬる力」という言葉を目が拾いました。
死ぬ力、ではなく、死ぬる力。
死ぬにも力がいる。
そのまま再読した本は、三木清の「人生論ノート」。
辞職をする決断をできずに、何度も日付をタイプしなおしてプリントアウトして出勤、結局渡せずに持ち帰った辞職願はもう20枚にもなっていました。
そんな時にこの本が私に質問してくる。
最後まで絶対に脱ぐことのできない、君にとっての”真の幸福”という”外套”はなんだ?
幸福とは人格で、幸福な人というのはその外套を簡単に脱ぎされる人。
けれど、真の幸福という外套は絶対に脱ぎ捨てられない、その人とひとつのもの。
それを纏ってあらゆる困難と闘う。
私のサマリーがまずいけれど、そのようなことがもっと立派な文章で書かれています。
他は脱ぎ去っても、この一枚はこの身に纏っていたい。
その外套を私は持っていると思うのですが、まだクローゼットの中がぐちゃぐちゃすぎて見つけきれないでいます。
でも、確かに私のクローゼットのどこかにあるというのは感じている。
こんなまどろっこしい理由を辞職願につらつらと日本語で書き連ねることはできないので、
「ボディーワークの現場に戻り専念したい。
ラブとは別のアプローチで、同じヘルスケアのフィールドで頑張っていきたいです。」
そう書きました。
多彩に生きる。
自分に一途。
先日ある方の講義を聴きながら心に留まった言葉です。
「今はその価値がわからなくても、多様であるという今の状態にすでに価値があると僕は思います。」
今はまだその価値がわからない。
私達がうまれてきた時も、きっとそうだった。
答えは急がず。
狭間をぐるぐる円環していると、そのうちくっきり見えてくるのかもしれないなぁ。
”円環は螺旋”、という言葉は、元夫が私に教えてくれた、唯一今でも役に立つ言葉です。
ぐるぐるしてちっともうまくいかないように感じる時は、このままずっと地を這うように生きていくのかと絶望しそうだけれど、螺旋階段を昇るように実は少しずつ浮上しているのなら救われる思いがします。
辞職願に書ききれなかった思いを書きなぐった雑記。
2022年5月
★★★★★★★★★★★
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?