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I got this.

バナナもしゃべる

バナナに黒の水玉が出てきたら、それは食べごろのサインだと聞きます。

バナナがもしも、私は今が食べごろよ、と言っているのなら、それはとてもいじらしくて可愛らしいなと眺めながら、今朝はコーヒーを淹れました。

言葉を通わせなくてもバナナをいじらしく思い、猫を愛おしく思う。バナナがあって、猫がいるから自分の中に湧いてくる感情。

一人で座っていてもつまらないシーソーの向こう側に、自分とは違う誰かが座った時、シーソーは急に動き出して楽しくなる。先月からずっと考えてみていることのひとつが、シーソーについて。


シーソーに勝ち負けはないように思うけれど、小学生の頃は相手方をヒヤヒヤさせようと、少し前の方に移動してみたり後ろの方に座り直してみたり。友達に加勢を頼んで錘をつけてみたり。

遊具で遊ぶ子供をぼんやりと眺める時間は、大人にとっては少し退屈な時もあるけれど、あの時間に子供は生き抜く知恵みたいなものを感覚として学んでいるんだろうな、と、はるか昔のことを懐かしく思い出しながらそんなことを考えてみています。


鍼灸は続くよ、まだまだね

変わらず、鍼灸師・Shantのオフィスに通っています。
鍼を刺されたまま中医学のことを話し込み、気づけばとっくに陽は落ちて窓の外は真っ暗というある日。私達は、「最も遠い所から治療を始めてみる」という中医学の教えについて話していました。例えば、私の右手首が痛かった時、彼がそこから一番遠い左の足首で鍼治療を行ったことがそれにあたります。

シーソーの一番端に座った人を上に上げるには、反対側の自分も一番端に座るのが効果大。意気込んで支柱寄りに座ると、1人の体重では足らずに加勢がうんと必要です。

一番遠いところにこそ、効果が生まれる可能性がある。

そういう視点は、日常にもなにかいかせそうな気がしてならなくて、シーソーのことをよく考える日々を送っています。


混沌の中で生まれるもの

先日、北のシャスタ山へ短い旅をしました。

美しい自然を眺めた後、麓の街のちいさなクリスタルショップへ友人が連れて行ってくれました。地球がまだ混沌としていた頃から地中に存在していたかもしれない石たちを手に取っていると、目に見えないはずの時間というモノが自分の手のひらに乗っているようで少し怖かった。想像できないくらいの長い時間を過ごしてきた石たちには、別の重みがあるように思いました。


SNSやニュースを通して外から眺める今の日本は、混乱から混沌へ向かっているように私には感じます。すべてが綯い交ぜになって視界不明瞭で、どちらへ進めば安全なのか見えない、選べない。混乱の後はきっと破壊で、その後はきっと薄暗く静かな混沌。

混沌からの再生にはきっとすごく時間がかかるんだろうと思うと、自分には今なにができるだろうと考えてしまう。
そんな社会にも新しい命たちは生まれてきていて、彼らのことを思うと、本当にごめん、と胸が詰まります。


いや待て、子供は老ぼれから一番遠いところ。

老ぼれの作った社会を治療するのなら、新しく若い命はゲームチェンジャーになるんじゃないの?!



物言わぬ

物言わぬ人たち、バナナや猫や新生児や石や自然のことを観察しながら過ごしてみると、物言う人々の世界が時々息苦しく感じます。

言葉で勇気づけられ、愛を感じ、生きていることを実感できるけれど、呪いの呪文になりうる言葉もその中には混ざり込んでいるように思います。
その呪縛に心を絡め取られてしまうと生きることが難しくなる、そういう人生を生きている人は大勢いるんじゃないかなと思っています。


心配しているよ、は、私の苦手な言葉です。
私にはどうせできないだろうと「期待」しているから出る言葉。
重いよね。

愛の言葉は紙一重。
愛と過剰な期待の狭間を都合よく行き来する苦手なやつ。

魚の小骨のように、刺さってなかなか取れない煩わしい言葉。
鍼のように脳みそに刺さってじわじわと効いてくる言葉。
自分はどうやって言葉を覚えたんだったかな。
我が子達はどうだったかな。



ゲームチェンジャーを作る


子供は家庭で色々なことをひろい始めます。

日常にいる私達の心がけひとつで社会は変えられるんじゃないかという、壮大で時間のかかりすぎるプランの妄想をすることは、子育てしていた頃のことをぼんやりと思い出していた時から始まりました。


まわりからの言葉のシャワーを浴びて育っていくベイビー達。
もしも、平凡な日常を生きる私達にも「社会の治療」ができるのならば、子供、若者達を大事にするってことなんじゃないかなと私は考えます。

中医学の陰陽学説では、大人は陰、子供は陽に該当し、対極の関係です。
シーソーで言えば、大人の反対側に座るのは子供達。
大人の治療には子供の力に頼ってみる。

またこんな勘違いかもしれないことを書いてみる!
中医学の先生、ごめんなさい!


若い子供がすぐに何かをできるなんて思わないけれど、地図を読み、勇気を持って舵を切っていける知識と心の体力をつけた若者に育てていく。
面舵いっぱいを切ってくれるゲームチェンジャーを養成する。

今の大人に残された一縷の望みがそれなんじゃないかなあ。


治療プランは?

私ができる治療プランは……

結局思いつかないままだけれど、今日書いてみているのは、とにかく切り込んで行ってみたかったから。じっと見ているだけじゃコンプレインする権利もないような気がしてきたから。

手を出さないなら口も出すな、だったか、そんなことわざみたいなのがあったと思うんですけど、子育てが終わって自分がこれから生きていく場所を考えてみている時、いつか還るはずの場所(たぶん日本)がぐちゃぐちゃだったら何か一言くらい言いたくなってしまった。

口を出すなら手も出さないかんやろう、という単細胞の一人切込隊長。
自分には資金も縁故もないから、言葉を綴るしか今はない。
それでいい。


田舎には、この世界にたくさんの選択肢があることに気づけないまま大人になっていく若い人生があります。
もったいないよね。

彼らにドアを作ってあげたい。
開けて覗いてみることのできるドア。

私が田舎の外で物見遊山してきたことを、おいらの育った田舎の子達に伝えてみたい。

私の妄想はいつも過ぎるけど、そんなまだまだ酔狂レベルのことをおもしろがってくれる人に出逢うのが私の次の目標。






Kiki、ターゲットがスコープのセンターに静止することはないんだよ。揺れている合間の、ここだ!という一瞬の直感にコミットしてトリガーを引くしかないんだよ。
友人のアドバイス、たった一言だったけど私のマインドに風穴を開けた。

難しい本を読めなくても、日常の中に発見はごろごろしとる。


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