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実像を紡ぐThread

親不適合者の私

私には三人の子供がいます。
1人は社会人と学生の二足の草鞋、下の2人は大学生です。
私は子供たちがまだ中学生、小学生の頃に、彼らのお父さんと別居・離婚をしました。
そのあとに出逢った方ともうまくいきませんでした。

私には二歳年の離れた弟がいます。
彼が、私と子供達にこう言ったことがあります。
「お前たちは相当な親ガチャだ。でもそれぞれにようがんばっとるけん、叔父として誇らしいぞ。」

私には五歳年の離れた妹もいます。
彼女が私にこう質問したことがあります。
「もしも子供たちが将来、ママのせいで私の人生がめちゃくちゃになったと抗議したらどうする?」
私はこう答えました。
「ひたすら謝るしかないと思っとる、ごめんしか出てこんと思う。」
それ聞いて安心した、と妹は言いました。


コミュ障の私ができる(古い?この表現?)

私は人が苦手だけど人が大好きという、自分でも扱いにくい性格をしています。人との距離の取り方が、上手な時とすごく下手な時がある。
書くということをしたいと感じる時は、人との距離の取り方をしくじって落ち込んだ時か、すごーく人と接するのが心地いい日々の時、そのどちらかにいる時が多いように思います。

ここちがいいノリノリの時になんかしゃべりたいのはわからんでもないけれど、底を泳いでいるような時に何か気持ちが湧き上がってくるっておもしろいですよね。ずいぶん変だけれど。


人それぞれが少なからずの人生のイベントを経験しながら生きていっていると思うのですが、私も少し特殊な家に生まれ育ったのと、海外に暮らすようになったこと、離婚を選んだことなどから、イベントの数は多い方かもしれません。
それを時々ぽつぽつと食事などの際にお話しすると、おもしろいねえと聞いてくれる人や、なんか元気が出ると言ってくれる人、すてきねえという言葉で妬む人、いろんな人の反応があってそれに一喜一憂したことが以前は多くありました。
歳をとって忘却力が増し、あんなにしんどくて一生忘れないとさえ感じた思い出を忘れかけている自分がいます。おもしろいですよね。


せっかくだからそういう思考で思いつくことを書いてみたら?という奇特で素敵な方がすすめてくださって、その気になって数年前に文章をコツコツ書いていたことがあります。
人に見られるかもしれないところで書き始めるのは勇気がいることでした。



デジタル・タトゥー

あの時に一番気にしたことは、子供たちに迷惑がかからないことでした。
今は進学や就職の際にはSNSにもチェックが入ると聞いていたからです。
私がアドレナリン満タンの暴走列車にのってあちらこちらに書きなぐってしまい彼らの未来をぶち壊しにしたら…
すでに十分に傷つけてしまったのに申し訳ないと考えました。


SNSなどでつかっているKikiというのは偽名ではありません。
こちらで暮らす際のニックネームでもあり、仕事をする際に実際に使っている名前です。日本名で書かないことは、なんだかうしろめたかったんですけど、それはそういう理由からでした。
Kikiは、すでに私の中ではもうひとつの大切な名前になっています。

noteを始める時に、菊、という日本名を選ぶのは勇気がいりましたけど、Kikiの時と菊の時は違う自分のような気がしていて、ここでは”菊”でいこうと決心しました。
いつも笑顔で元気いっぱいのKikiとは違う、果てしなく根暗でひとつのことをじっと掘り下げて立ちどまってしまうような菊で書いてみたかったのです。


初めてKikiの名前で文章を書く前に、子供たちにたずねました。
「みんなには迷惑かけんようにするけん、書いてみたいっちゃけどいいかな?」

「もしね、あなたのお母さんのSNSを発見しました。母親失格ですよね、そんなお母さんに育てられたあなたを採用することはできません、っていうカンパニーだったらね、私の方からお断りです。だから好きなようにしたらいいよ。」、と娘たちが言ってくれました。

私よりもずっと大人で、私よりずっと愛の懐が深い人達だと感謝したのはいつまでも忘れません。
ここにこう書いておくと、いつか私が記憶を失くしていき始めても残るので記念です。
ついでに、みんなありがとう、と記しておこうかな。

若いから未熟だなんてとんでもない。
ずっと私たちよりも考え彼らなりのなにかをつかんでいる子もたくさんいる。



実像を多彩な感情のThreadでつなぎ合わせていく

今朝のこの小さな発想が、今日のこれを書かせてくれています。

実像、日々の出来事・イベント。
それを人に伝える、自分の心に格納する際に、私たちはそれを実像としてそのまま記憶しておくのはきっと難しくて、それを自分の感情や考えと閉じ合わせてストーリ仕立てにしてしまっていくのかもしれないなと想像しました。目の前で起こったことに対する反応が千差万別なのは、きっとその仕組みの違いなのかなと私は考えます。


縫い合わせるには、イメージ力、想像力、考える力が要ります。
自分の心がそれに対して、どうリアクトしどう感じているのかをつぶさに感じきる必要があると思うのです。

自分の感情に浸るというのは、時に危ういけれど、これだけ情報を追う毎日の中では浸りきることはむしろ難しくて、情報の中に自分の気持ちが埋もれ見失っていくことの方が多いように感じます。

手の中に流れてきた誰かの感情を自分の感情と勘違いして、その”意図”で実像をつなぎ合わせてできたストーリーを”自分の記憶・気持ち・考え”として格納してしまう。
すごく危険。



体感するのがイベントじゃん?!

息子が学ぶ環境で、大きな衝突が起きてニュースになったのは五月の最初の日でした。
世界中の人が心痛める戦禍の出来事に抗議する人達と、それを制する人達が入り混じる光景、音、臭い。

私の大事な家族は大丈夫かなと思うと同時に、しっかりその時に感じだすべてを記憶として格納しておいてほしいと私は思いました。

彼がこの先の人生のある場面で、その記憶を取り出してくることがあるかもしれない。その実像のストーリーを改めて読みなおした時、彼の中にスパークが起こって、しょげた彼を奮い起こしてくれるかもしれないし、ピンチをしのぐアイディアを与え助けることがあるかもしれない。
何も起こらないかもしれないし、思い出すと苦しいだけかもしれない。
そんなの誰にも分らない、わからないなら、瞬間を感じきることに全力を注げばいい。

私はそうやって生きてきたから、私はそうとしか彼には言えませんでした。



抗議する力、それ停める古い細胞はアポトーシスっ!

「抗議されたらどうする?お姉ちゃん。」
妹の言葉を思い返すと、抗議するということは、よくよく考えてみた結果自分はこう考える、という過程があってのこと。
主張したいことがある、する権利。

もしかすると考えもなく、ただの同調で抗議するという時もあると思うけれど、それも若い頃には悪くないと私は思います。
その波長へのレセプターが自分の中にあるのかもしれないと気づくきっかけ。ただノリでのっただけなのに、私にはこういう一面もあるんだってきづいちゃった。
それでよくない?アリじゃない?


若い人たちは、私のような古い人間よりもレセプターやアウトレットをたくさん持っています。
いろんなコードをつなげてエネルギーにかえてみるし、レセプターで受け取って自分の中で分裂増殖進化させていくこともできる。
若い細胞。


古くなったり不要となった細胞がアポトーシスするように、若い細胞たちに物申したくなる自分の中の古い細胞は滅して口をつぐむことも時には必要なんじゃないかなと、自分への自戒をこめて記しておこう。


なんかわからんけどそう感じるんだよね、そうしたいんよね、でいい。
それが人間たい。
その姿をみてこちらが習うことがいっぱい、ありがとう。



命を育てる機会のある人達へ

思考のきっかけになるものを私はここからひろわせてもらってます。

https://note.com/yoshilog/n/nd532575eb264?sub_rt=share_pw





白か黒か、勝ちか負けかは自分にも他者にも苦しい
若い頃はモノクロの美しさに惹かれたけれど
歳をとって多彩の美しさに見惚れることも多くなりました。


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