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日米開戦と経済《3》

岩畔豪雄(いわくろひでお)は、

第1案:対米開戦
一時的に勝利できても長期的な勝利は困難

第2案:日米国交回復論
仏印と中国から全面撤兵しアメリカとの国交回復を工作する

第3案:日和見論
結論を出さずに置けば主戦論が主流になり日米開戦の公算が大きくなる

岩畔は第2案を主張したが、岩畔自身、三国同盟を推進していたため変節ととられた。

陸軍省戦備課の判断

昭和16年7月南部仏印進駐によって米国の対日石油輸出停止という経済制裁を受け対米開戦論の機運が高まる。南進する場合の船舶は300万トンの確保が必要であるが、そうなると国民生活に多大な影響が出る。

北進して石油を消耗してからでは南進できない。北進も南進もせず現状を維持しても航空燃料は昭和19年までで自動車燃料は困難である。

吉田茂の意見

開戦しなければ南進しなければならないほどには、石油・屑鉄は枯渇しなかった。米国は早晩、欧州戦線に介入せざるを得ず、その時点で日米交渉のチャンスがあったはず。

戦後、ソ連がパブリックエネミー(社会の敵)になることで日本は国際復帰ができた。合理的に考えれば開戦すべきではなかった。

スペインの選択

親枢軸国でありながら中立を維持したスペインはイギリスの敗戦が遠のくと、フランコはヒトラーの再三の要求にもかかわらず参戦を選択しなかった。

つまり、日本には強力なリーダーシップを取る人材が不在であったということ。

集団的意思決定

個人が考えて意思を決定するより集団で決定するほうが結論が極端になる事が多い。他者に比べ極端な立場を表明することが集団内での存在を示せる(日本の参謀本部などが、まさにそれであった)。

特にリーダーシップが弱い集団では低確率に賭けやすい傾向がある。

小倉和夫の意見

日本がスペインのような選択をすれば結局、軍が暴走し独裁体制を敷くこととなり結果は同じか、もっとひどいことになっていた。

新体制運動

近衛文麿による新体制運動が中途で挫折したことで多少の健全性は確保できたが「避戦」を決断することはできない体制でもあった。

昭和16年8月以降にアメリカによる資産凍結石油禁輸は経済の面からは深刻な打撃であり、明白な国家の死を意味した。

近衛文麿はルーズベルトと直接交渉をしようとしたが拒否され、昭和16年10月18日に辞職。東条内閣が成立する。

東郷茂徳外務大臣

戦争に入りたる場合、直接アメリカを屈服すべき方法なしと言うに一致した。

武藤章軍務局長の発言

避戦すれば3年後には物がなくなるリスクがあり臥薪嘗胆となる。開戦すれば希望なきリスクが発生する。結末は国際情勢の推移を待つの他なし。

つまり避戦は確実な結末が見えていた。開戦は3年後の結末が見えていなかったから選ばれた。

昭和天皇独白録 昭和21年

もしあの時、私が主戦論を抑えたらむざむざアメリカに屈服するというので国内世論は必ず沸騰し内乱が起きた。

確実な敗北より、万一の僥倖に賭けることで開戦を選択した。

出典:「経済学者たちの日米開戦」 牧野邦昭著


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