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順天堂と明治早々の医療

司馬遼太郎の歴史小説に『胡蝶の夢』というのがある。黒船来航によって幕末の日本が大きく動き出す中、蘭学を学び、幕府の奥医師となった松本良順と、彼の弟子である島倉伊之助司馬凌海)の生き様を描いた作品であるけれど、これがなぜ「胡蝶の夢」と題されたのかは不明。

荘子が言う「胡蝶の夢」とは、個人において「観念」と「実態」に本質的な差異がないとする超刺激的な考えで、これを始めて読んだ日の感激は忘れられない。

それゆえに、今でも司馬遼太郎の「胡蝶の夢」という小説と題については納得していない。

それは置いといて、松本良順は、佐倉順天堂を開設した佐藤泰然の長男として生まれたにもかかわらず松本家の養子になり、蘭学を修め、幕府の奥医師となる。幕府の医学制度の改革に尽力し、また、戊辰戦争では、新政府軍の軍医として活躍した。

伊之助(司馬凌海)は、佐渡で生まれ、13歳で奥医師松本良甫、松本良順のもとでオランダ語と医学を学ぶ。下総国印旛郡佐倉の佐藤泰然の私塾順天堂で蘭学と蘭方を学ぶ。語学の天才と言われ、独・英・蘭・仏・露・中の6か国語に通じていたという。

司馬凌海は、明治9年に公立医学所(今の名古屋大学医学部)の教授となり、教え子に後藤新平がいる。

長谷川泰は、越後長岡藩の生まれで文久2年(1862年)江戸に出て英語、西洋医学を学び、佐倉順天堂で2代目堂主の佐藤尚中に西洋医学を学ぶ。慶応2年(1866年)、松本良順の幕府西洋医学所で外科手術を修め、戊辰戦争の勃発により、北越戦争で河井継之助に従軍するも破れ、維新後の明治2年(1869年)大学東校(今の東京大学医学部)少助教になる。

長谷川泰は、明治8年(1875年)12月27日東京府知事から済生学舎開業願が許可され、明治9年(1876年)4月本郷元町1丁目66番地(順天堂大学から水道橋方面に行った真ん中あたり)に西洋医の早期育成のための私立医学校済生学舎(後に東京医学専門学校済生学舎、日本医科大学の前身)を開校する。

ちなみに、済生学舎は紆余曲折を経て根津にある日本医科大学として、私立の医科大学としては日本最古の医療教育機関として現在に続いている。済生学舎の卒業生に野口英世がいる。

長谷川泰は、東京府病院長・東京癲狂院長、避病院(コレラなどの伝染病)院長・脚気病院事務長・警視庁医長。第1回衆議院議員総選挙から議員を3期、後藤新平の後を受けて内務省衛生局長、日本薬局方調査会長などを歴任。当時、日本に大学は東京にしかなく、長谷川泰は、西にも作るべきとして京都大学ができたような話もある。

佐倉順天堂で2代目堂主の佐藤尚中に、長谷川泰と同期で学んだ3代目堂主の佐藤進は、東京に出て佐藤順天堂病院を現在の順天堂大学病院がある場所で開業。明治2年(1869年)、明治政府発行の海外渡航免状第1号を得てドイツに留学。ベルリン大学医学部で学び、1874年(明治7年)にアジア人として初の医学士の学位を取得している。

軍医総監
初代、松本良順、明治6年
5代目、佐藤進、明治28年
11代目、佐藤進、明治38年
13代目、森林太郎、明治40年

と話は尽きない。時代が激動すると市井に沈潜している人材にスポットが当たり、一気に開花する。それは、時代が有能の士を求めるからである。奈良時代は奈良文化を打破するために桓武天皇が長岡京、平安京と都を移した。

平安時代は藤原摂関時代が終焉を迎え、武士が台頭することになって鎌倉時代や室町時代へと展開していくが、どの時代も時代が閉塞していく背景に、既得権益と世襲による人材の枯渇がある。

「明治ー大正ー昭和-平成-令和」と近代化して158年経ち、時代が停滞・沈降してきており、権力は腐敗している。そろそろ新たな勢力が台頭してきてもいい頃合いになりつつある。

日本の歴史では、ロシアやフランスのように人民から現状打破の動きが起きたことはない。権力機構が入れ替わることで、現状を御破算している。なんにせよ、現状を御破算にすれば再び有能な人材が活躍する時代が予定されていることは歴史が示している。

真っ先に改革しなければならないのは「官僚」と呼ばれる役人貴族集団を壊滅させることと、政治家の選出方法である。そこを変えない限り、本質は何も変わらないが、新たな政治に力がなければ、かつての民主党のように吏僚によって運営を行き詰められてしまう。。

どんなに混乱しても、真っ先に「官僚」といわれる役人貴族上層部をすべて地方に飛ばすことから着手する必要がある。政権担当能力とは、こここそが正念場である。

かつての民主党は、その覚悟がなかったゆえに短命に終わっただけでなく、野党に政権をゆだねられないという強烈なトラウマを生んでしまったことで、日本政治の近代化は100年くらいは遅れてしまった。

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