価値がない人

幸せを追い求めて生きるのではなく、毎日崩れないことを目標で生きていくことに疲れた。​


結局、どう生きるか、どう幸せを追求するかをずっと考え続けないといけない。特に大きな問題がないにもかかわらず、満足できない一日を送る理由は何だろうかと考えてみると、最近、誰かを助けたという経験がないように思う。​

これまで生きてきて今やっと分かったのは、やはり他人に影響を与えることが自分にとってかなり重要だということだ。どんな影響を与えるかについては、人生の中でさまざまな形を試してみたが、私の知識や経験を活かして誰かの困難や問題を改善することが重要だった。​

さらに気づいたのは、その助けに対するフィードバックを直接受け取ることが必須だということだ。アドバイスをしたときには、そのおかげでうまく解決したという感謝を聞き、悩んでいた問題を助けて良い結果が出たときには、その結果を聞くことが大事だ。​

私にとって大義や(世の中を~にしたいなど)使命感を持って仕事を進めるのは、ある程度の限界があるようだ。その仕事が即座に自分にフィードバックをもたらさなければ、継続するのが難しいようだ。以前、面接のときに「もし誰かを助けてあげても感謝の言葉をもらえなかったらどうですか?」と聞かれたときには、感謝の言葉をもらわなくても大丈夫だと思っていたが、今になって考えてみると、感謝を受けることは非常に重要だと思う。

だから私はコンサルティングや相談などが性に合っていると思う。誰かを助けたとき、その助けの範囲を特定しやすく、助ける対象も明確だからだ。

もし私が何らかの事業やサービスを展開するなら、その対象となるユーザーが私のサービスによってどのような変化を持つようになったのかを継続的にチェックする必要があると感じた。もちろん、お金や利益を追うことはできるが、本質的に仕事をしながらモチベーションを得るためには、誰かの人生に直接的に貢献していると自分で感じる必要がある。


このように他人にポジティブな影響を与え、誰かの問題を解決することに大きなやりがいを感じる理由については、最後にたどり着いた結論は自分自身の存在価値を低く感じているため、誰かを助けることで自分の存在意義を強く感じるということだった。この点について多くの人に説明してみたが、誰もクリアに受け入れてくれなかったので、これが正しい理由なのかは分からない。

しかし逆に考えてみよう。誰かに影響を与えられず、助けられない生活が続くと、鬱や虚無感に飲み込まれ、生きる理由を感じられなくなるかもしれない。これまでの人生で虚無感を感じ、強い鬱を感じた時を振り返ると、誰かを助けていると感じられなかった時が多かった。つまり、誰かを助け、ポジティブな影響を与えようと行動することは、私にとって食事を取り、睡眠を取ることに似た本能的な生存戦略なのだ。存在価値を感じられないことについて、自己肯定感が低い、自分自身をそのまま受け入れられないからだと言われることもあるが、生まれつき持っていた暗い穴は、埋めようとしても塞げなかった。ただ、その穴から骨まで冷えるような冷たい風が吹き込むのを避け、薪の火でその日その日を温めるだけだ。

その火が弱まれば、やがて体は冷えていき、徐々に灰色に色褪せていくと。

幸せに生きるのではなく、気分が少しでも良くなることを作り、テンションが下がらないように努力して生きるパターンに疲れてきた。一日一日を最善を尽くさずに流してしまうと、部屋の中で価値のない自分と向き合わなければならないのが恐ろしく、自分を恨めしく思う。一日を何もしないで浪費したということは、その一日を通じて価値のある存在になれなかったということと同じだ。最近、一人で部屋にいるとき、何をすべきか分からず、何をしても特に楽しいとは感じない日が増えてきた。何をすべきか分からないので、何か生産的なことをすれば気分が少し良くなるかと思い、勉強をし、仕事をし、未来を考え、目標を立てる。しかし、以前は未来を夢見るのが楽しかったし、毎日成長し前進している感じがしていたのに。最近では、自分という人間から仕事を取ったら何が残るのか分からず、だからといって仕事を続けると胃が痛み、結局何が残るのか分からず、虚無感に襲われる。

他人を助けられず、仕事もできなければ、私は無用な存在なのだろうか。疲れているようだが、どうやって休むべきかも分からない。休むと何もしない自分と向き合うのが恐ろしい。

動けず止まれない進退窮まる状況だ。



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