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六甲山の開祖 アーサー・ヘスケス・グルームさんのこと

六甲山を開いた開祖、英国人アーサー・ヘスケス・グルームさんの娘である岸りうさんの手記を六甲山観光の小林さんからいただき、六甲山の歴史がより興味深く感じています。

ブルームさんが六甲山を開いたのは、狩猟好きが高じて開山したと言われていたそうですが、実際には、狩猟を辞めてから六甲山に移り住んたそうで、それが明治28年6月のこと。当時、狩猟好きの父ブルームさんに対し、日本人の母は殺生するとこを嫌い「鳥の家族も我々の家族も同じで、その中の一羽が欠けてもその家族の嘆きを考えると狩猟はいかほどのことでしょう」と諭していたそうです。ちょうどその時期にとある出来事がきっかけでこれまでの殺生のお詫びのしるしとして、六甲山を開いて少しでも神戸の人々の役に立てたいということがそもそものきっかけとなり、自身も六甲山に移り住んだそうです。

「父は自分の家を建てた後、山上の良さそうな土地を選び家を建て人に見せ、気にいると、その人に譲り、だんだんと山頂の住宅を友人に宣伝して、今の六甲山の繁栄の基礎を作りました。」と娘りうさんの手記にはあります。

また、当時の六甲山は雑草や岩がゴロゴロしていた禿山のごとくで、日本初のゴルフ場などのリクリエーション施設を開墾しただけでなく、植林や砂防も自費で行っていたそうです。おそらく時系列から言って、その後、神戸市の砂防工事が始まり植林事業が行われたものとみられます。そもそも、グルームさんは、当時の兵庫県知事であった服部十三を何度も自邸に招き入れ、現場を見せ、砂防や植林の必要を説いたとされています。

歴史や史実というのは時に操作さ時代に操られるもので、1912年、有野村の河原市太郎村長の発起で立てられた、グルームさんの功績を讃えた「六甲開祖之碑」は、第二次世界大戦中の排英運動の流れを汲み「グルームの六甲山開拓は国際条約に違反していた」という活動団体の主張を有野村議会が受け入れる形で破壊された経緯がありますが、現在は、そのグルームさんの名誉を回復し六甲山の碑として再建されていています。

2006年から神戸市は6月5日を「六甲の日」と定め、2007年からは毎年6月5日に一番近い日曜日に、夏山の安全を祈願する「グルーム祭」で山開きを行っています。奇しくも、6月5日は六甲の語呂合わせからきたものでありますが、1945年の神戸大空襲の日でもあり、グルームさんの四男久吉氏が王子動物園付近で被曝されております。

このような歴史があり今の六甲山があることを、市民も行政関係者も少しでも理解することで今後の六甲山の保全と繁栄にどうあるべきかを考えていく指針になればと思います。

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